Short | ナノ


プロローグみたいな話(シンドバッド)


「最低!二度と私の前に現れないでっ」



怒号とともに後頭部と首裏に温い感触が伝ったのは、土曜日の昼下がり。高校の土曜講習を終えてから塾までの時間、わたしは一人でカフェに来ていた。いつもはサイゼリアで安く済ませるものの、今日は違う。昨日返却された模試の結果が思いの外よかったご褒美で来ていたのが、大人の雑誌に出てきそうなカフェだった。

ランチセットは千五百円で、店内に制服姿はわたしだけ。「せっかくだから」とドリンクメニューを開けば、一番安いアイスティーは六百円。月初に親からもらう五千円だけでやりくりするバイト禁止の高校生にとって、今月が始まって五日目の段階で小遣いの四割を超える額の食事を頼むのはかなり勇気がいる。

それでも受験生としては、たまの息抜きくらいしないとやっていられないわけで。数時間後には体内に取り込まれて跡形もなくなる昼食に大枚をはたいて、束の間の贅沢を楽しんでいたのに。後ろの席で別れ話をしているのは漏れ伝わる話から察していたが、飲み物をふっかけて立ち去るなんて。

「お客様、大丈夫ですか?」

モップとバケツ、布巾を手にした店員が声をかけるのは、わたしではなく真後ろの男性。わたしと背中合わせに座る男性は飲み物を真正面からかぶったのに、店員を気遣う余裕もある。

床に視線を落とすと、ベージュの液体がモップに吸い取られていく。洗い残しの乳製品がついた掃除用具の臭いと甘いカフェオレの香りが、モップを絞ったあとのバケツから漂う。

背面の修羅場に背を向けたわたしは、無意識に髪を梳かした左手で自分の項が湿っていることに気づいた。左手を下ろせば、項に髪が張り付いているのがわかって気持ち悪い。このまま塾に行けるはずがなく、急いで帰宅してシャワーを浴びなくては。

スマートフォンの液晶で現在時刻と塾が始まる時間から残り時間を計算したわたしは、ちまちま飲んでいたアイスティーのストローに口につけ、三分の一ほど残っていたアイスティーを飲み干す。コップの底で音が鳴るのを待って立ち上がり、椅子の背もたれに右手をかけた。右手の湿っぽい感触におそるおそる背もたれのブレザーに視線を向ければ、待っていたのは最悪の事態。

「ああっ!」

おしゃれなお店に不相応な大声を出したわたしに、店内の視線が集中する。店内の視線を一身に集めるわたしの視線の先には、たっぷりカフェオレを吸ったブレザー。スカートのポケットから出したハンドタオルで湿った部分を拭くものの、タオルが薄っすらベージュに染まるだけで無意味に等しい。

これから迫る冬にブレザーを着ない選択肢はなく、カーディガンで耐えられる今のうちにクリーニングに出すしかないだろう。ただでさえ受験や塾でお金をかけている親にどう告げればいいか、頭を悩ませているわたしの右肩をトントンと誰かが叩いた。

「あの…」

おそらく声の主は、正面からカフェオレを被ったであろう男性。「こんなひどい振られ方をするのはどんな人だろう」と興味半分で左側に身体を捻れば、紫の長い髪が視界に飛び込んだ。



「なんかすいません…」

「気にしないでくれ。お嬢さんの制服を汚した俺が悪いんだから」

わたしの隣にいるのは、"シン"と名乗る男性。言わずもがな例のカフェでこっぴどく振られた人物だ。

シンさんとともにカフェを出てクリーニング屋にブレザーを預け、今はスーパー銭湯にいる。いや、連行されたというのが正しい。さらにいえば、ユニクロでカーディガンも買ってもらった。もちろん費用はすべてシンさん持ちだ。

「女風呂は混んでたか?」

「土曜の午後ですし…それなりには」

当然スーパー銭湯は男女別浴で、入浴後に男女共用のエリアで待ち合わせたわたしたち。駅のホームでよく見る自動販売機のアイスを買って、ソファーで二人並んで食べる。ブルーとホワイトが涼しげなソーダアイスも、言わずもがなシンさんがお金を出してくれていた。

こんなことでもなければ、いや、こんなことがあっても、初対面の男性と湯上がりを過ごすなんてあり得ない。とはいえ自宅に戻れば塾には間に合わないし、かといってカーディガンや後頭部からカフェオレを漂わせながら塾に行くなんてもってのほか。何よりブレザーのクリーニングは早いに越したことがないと自分に言い聞かせ、初対面のシンさんについていくことを正当化していた。

「クリーニング代はともかく、銭湯とアイスは申し訳なくて…」

「だから気にしなくていいって!」

そう言ってチョコチップアイスを持っていない左手で軽くわたしにデコピンするのはシンさん。大して力は込められていないものの、不意打ちのデコピンは思っていた以上に痛い。思わず患部を両手で覆うと、くくくと右隣から笑い声が漏れる。

「わかったか?」

笑いを堪えながら向けられた屈託のない笑顔があまりに眩しくて、思わず見入ってしまったわたしは無言で小さく頷く。右手でおでこを抑え続けながら頬の熱を冷まそうと左手のアイスを口に運ぶと、共用エリアの女性たちのヒソヒソ話が耳に入った。

その内容は、わたしの隣で呑気にアイスを齧る人のことばかり。確かに好みのタイプとか、そういう次元をシンさんは超越している。たとえチョコをべっとり口元につけていても、"可愛い"と許されてしまうくらいには。

隣を窺えば本人は満更でもなさそう、というより女性に騒がれることに今更何とも思っていないようで。口元のチョコを手で拭えば黄色い声が聞こえるし、女性たちに微笑みながら手を振ればその声はさらに大きくなる。ただのスーパー銭湯がアイドルのコンサート会場になったようだ。

「…そろそろ用意しないと間に合わないので、アイスを食べ終えたら失礼しますね」

先ほどまでシンさんに黄色い声を送っていた女性たちの視線が彼から逸れたのを待ったわたしの言葉に、彼の視線が左手首の腕時計に向く。ごちゃごちゃした文字盤は、なんだか見づらそう。アイスを口に含みつつ腕時計をまじまじと見つめていれば、おもむろにシンさんが腕時計を外す。

「着けてみるか?」

興味本意で頷くと、身体ごとわたしに向いたシンさんがわたしの右腕を取ってラバーのストラップを手首に巻く。普段腕時計をつける習慣のないわたしは、思わず肘から先をぶんぶんと軽く揺らしてみた。

「想ってたより軽い…」

「だろ?」

ロレックスやオメガのような、一般家庭の女子高生にわかるブランドではなさそう。それでも何となく、高価な腕時計だろうというのは想像がついた。浮世離れしたシンさんの金銭感覚をわたしは知っているから。

小一時間前、カーディガンの弁償を巡って一悶着あった。最初シンさんがわたしを連れて行ったのは、カフェ近くのデパートにあるPRADA。裾にブランド名が入っただけのシンプルな商品だが、ちらりと見えた値札の六桁に眩暈がしそうになった。

バイト禁止の高校に通う受験生の娘がPRADAの新作カーディガンを持ち帰れば、親に何を言われるか。「堂々と説明すればいい」とシンさんは言ったものの、そんな簡単な話ではない。どうにかシンさんをわたしが説得した結果、ユニクロで買うことに合意してもらっていた。

「高そう」とわたしの顔に書いてあったのか、「値段は確か…」とシンさん。数秒の記憶を辿る時間ののち、昨日の夜ご飯を思い出すくらいのテンションでシンさんは答えを口にした。

「に、にせ、んろっぴゃ…」

自分の右手首に巻かれた小さな機械が、高級車や住宅と変わらぬ値段。そんな代物をのんきに着けていた自分が恐ろしくなり、慌てて腕時計を外そうとした。しかし二千六百万円を爪で傷つけてしまいそうで、わたしの左手は小刻みに震える。

「俺が取るよ」

慣れた手つきでシンさんが外してくれたお陰で、わたしの弁償リスクはゼロになった。胸を撫で下ろしたのも束の間、ゴンと下から鈍い音。聞こえたほうに視線を落とせば、二千六百万円が転がっていた。

信じられないと目で訴えても、値段相応に頑丈だからとシンさんは意に介さない。自身の左手首に拾った腕時計をはめ直したシンさんは、立ったまま不思議そうにわたしを見つめている。

「…え?」

「塾、行くんだろう?」

シンさんに言われて我に返ったわたしは、彼に追随するように起立した。



いくらスーパー銭湯の入口で待っても、シンさんが現れない。せめて礼を告げてから別れたかったが、もうすぐタイムリミットだ。

不思議な人だった。初対面の人に素性を探られるのはいい気がしないだろうし、シンさんの詳細は聞いていない。知っているのは自己申告された名前と年齢だけ。二千六百万円の腕時計を持てる二十四歳なんて、実家が太いか怪しいビジネスに手を染めてるか、どっちかだ。

芸能関係者の可能性もあるが、それにしては周囲の反応が穏やかだった。あれだけ女性の視線を集めて"反応が穏やか"と言うのもおかしいが、少なくとも有名人に遭遇したときのそれではない。

残り時間を逆算して待ち人を諦めたわたしが歩き始めると、けたたましいエンジン音が車道から響く。ワイヤレスイヤホンを着ける手を止めて顔を上げれば、大きなバイクに跨がる人。ヘルメットから伸びる紫色の長髪で、ヘルメットを外さずとも正体はわかった。

「ほら、乗って」

わたしの返事を待たず、座席後ろのボックスから取り出したヘルメットをシンさんが投げる。ヘルメットをキャッチしながら「バイクは初めて」とつぶやくわたしに、「とにかくしっかり掴まってくれ」とだけシンさん。

自動車に比べ、バイクは事故時のリスクが高すぎる。生脚をさらけ出している制服姿となればなお高リスクで、利き手の骨折や入院、手術といったことは何としても避けたい。そういうわけで同乗を断ろうとしたわたしをよそに、またしても座席後ろのボックスから取り出した何かをシンさんがわたしに手渡す。

今回渡されたのは少し大きめのジャージ上下、いわゆる"シャカシャカ"と"シャカパン"。しかもわたしでも知っているような有名ハイブランドと有名スポーツブランドのコラボ商品だ。

「安全対策や防寒はもちろんだが、お嬢さん制服だからさ」

「で、でも、これ」

上下で数十万円はくだらないジャージを手渡されて戸惑うわたしなど意に介さず、「時間がないから早く」とシンさん。塾の遅刻だけは何としても避けたいわたしは急かされるがままにスカートの下にシャカパンを履き、ウインドブレーカーのジップを半分開けた状態でバイクに跨がる。スカートの裾を軽く直してから、再びバイクのエンジンを入れたシンさんに強くしがみついた。



「ありがとうございました…何から何まで」

「とんでもない、諸悪の根元は俺だから」

無事に塾に到着し、ゆっくりわたしは着地する。道路渋滞はなかったものの、ことごとく赤信号に捕まって。腕時計に視線を落としたシンさんが告げた時刻は講義開始十分前。

シンさんがヘルメットを取るのに倣い、慌ててわたしもヘルメットを外した。それを"諸悪の根元"に手渡すと、ヘルメットを受け取らずにわたしに背を向け、彼は肩を揺らす。エンジンによる振動でない揺れを疑問に思っていれば、手袋を外したシンさんの右手がわたしに伸びた。

「静電気…ひどいな」

笑いを堪えているのがバレバレの声に、慌ててヘルメットを左腕に抱えてスマホのインカメラを起動する。スーパー銭湯で整えた髪はヘルメットで潰されたうえに静電気で爆発していて、目も当てられない。絶望しているわたしの髪は、スマホのインカメを見るわたしの向かって左側から、シンさんの右手で整えられていく。

「あとは自分で。…最近は勝手に触るとセクハラになるらしいからな」

「それなら手遅れですよ」

それを聞いたシンさんは笑いながらわたしの前髪をどかし、軽く親指と中指で弾いた。不意打ちのデコピンの鈍い痛みに悶絶しているわたしの横で、シンさんの視線が二千六百万円に落ちる。

「そろそろ俺も時間だ。じゃあな、お嬢さん。またどこかで」

わたしの右腕からもぎ取ったヘルメットを座席後ろのボックスにしまってからヘルメットを装着し、エンジン音とともにシンさんは去っていった。気付けばシンさんとの立ち話で三分経っていて、いい加減に校舎に入らないとエスカレーター次第では八階の教室に辿り着けない。少し大きめに歩幅を取って右脚を前に出すと、わたしの足元からは化学繊維が擦れる小さな音。

「あ…」

バイクに乗るときに借りたジャージを着たままであることに、今更わたしは気づいた。しかも、"諸悪の根元"はどこにもいない。どうすべきか頭を悩ませていると、どこかからわたしを呼ぶ声。

どこからか呼ばれる声に周囲を見渡せば、通りを歩く人たちも"ゴンベエ"と声がするたびに視線を彷徨わせている。慌てて声の出処を探せば、わたしを呼んでいたのはいつも塾で一緒の講義を受ける友達。

八階の窓から顔を出す友達と視線がぶつかると、「もう予鈴が鳴ってる!」と教えてくれて。五分後までに八階で着席しなくてはならない現実に引き戻されたわたしは、すぐに校舎に向かって走り出した。



「ねえゴンベエ!それ、どうしたの?」

「それ…って?」

「このジャージ以外にないでしょっ?」

講義が終わって早々にわたしの席に来たのは、講義前に窓から手を振っていた友達二人。高校入学時から仲のいい二人はわたしの金銭感覚や身の回り品を知っているわけで、見慣れないブランド品の袖をツンツンと引っ張る。

「さっきのバイクの男からもらったの?」

興味本位の問いを投げるのは、窓からわたしを呼んでいた友達。八階から声をかけて地上に届くほどの声量の持ち主の問いに、教室中の視線がわたしに集中した。「声がでかい!」と小声でわたしが制するものの、高校生の身の丈に合わないジャージを着ていれば説得力はない。

「もらったんじゃなくて…」

シンさんの件をどこから説明しようかと考えを巡らせていれば、もう一方の友達から「まさかパパ活じゃないよね?」と爆弾が飛ぶ。

「違うから!変な噂になるからパパ活とか言わないで!」

わたしは美人でもモデル体型でも何でもない、どこにでもいる普通の女子高生だ。誰の目にも、わたしの容姿からパパ活女子は到底結びつかない。しかし、人気ブランド同士のコラボ商品を着ている現状だけ見れば、パパ活女子としての説得力は十分すぎる。

もっとも、パパ活を持ち出した友達もわたしがパパ活してるなんて微塵も思っていない。遅刻ギリギリだろうと塾をサボれないくらいには、勉強に余裕がないわけで。わたしが"パパ"におねだりしたいのは、ブランドのジャージではなく第一志望校の合格なのだ。

とはいえ説明しないと話が終わらなそうで、カフェに行ったところから一部始終を説明した。シンさんとは初対面で連絡先も知らないと告げれば、なぜか二人は肩を落とす。

「八階から顔は見えなかったけど、そんなにイケメンだったんだ」

「ゴンベエ、芸能人やインフルエンサーに疎いからな…。ジャニーズJr.やモデルだったかもしれないのに」

そんなことを言われても、わからないものはわからない。そう告げると二人は自身のスマホをわたしに見せながら、イケメンインフルエンサーやモデルの卵のSNSアカウントをスマホに表示させる。しかし、シンさんの姿はなかった。

洗濯しないわけにもいかず、持ち帰ったジャージを洗濯籠の奥に忍ばせたものの、ブランド物に親が気づかないはずがなくて。ユニクロでカーディガンを買ってもらった努力もむなしく、シンさんとのことを親に説明せざるを得なくなる。

もちろん両親の雷が落ちて、この日のわたしの勉強時間はなくなった。両親の怒りを買った原因は「クリーニング代はともかくカーディガンまで買わせた」「借り物の高価なジャージを返し忘れた」といったわたしが危惧していたことではなく、「見ず知らずの男性にノコノコついていった」ことに対して。さすがにわたしも迂闊だったと反省するところで、平謝りだったのは言うまでもない。



この日の朝、わたしが知る由のないところで、八人の仲間とともにある男性がYouTubeチャンネルを立ち上げた。出演者のあまりに整った顔立ちから女性を中心に人気に火がつき、銀の盾を獲得した頃には波乱万丈な彼の半生を語った動画がバズって男性や年上のファンも獲得。そしてチャンネル開設から半年後には金の盾の開封動画を公開し、名実ともに彼は人気YouTuberの仲間入りを果たす。

その人物こそが、不思議な数時間をともにした当時チャンネル登録者数七人のシンさんだった。受験が終わって推薦組の友達からそのYouTuberの評判を聞きつけたわたしが、機種変したばかりのスマホを片手に固まるのはもう少し先の話。



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