個室(030)
昼番を終えたわたしは、部屋に戻るべく廊下を歩いていた。紫獅塔に入ると、対面の人物が足を止める。
「ゴンベエ!今から時間あるか?」
そこには市街地に繰り出す軽装の国王。彼の問いに肯定的に返すと、酒屋に誘われた。夕飯を市街地で済ませようと考えていたわたしは、二つ返事でその誘いを引き受ける。
「ただ…湯浴みを済ませてからでよろしければ」
わたしの官服には油がたくさん付着しているし、髪も油っぽい。今日のような、揚げ物を担当する日の宿命だ。
「それなら身体を洗うの手伝おうか?」
「結構です!準備でき次第お迎えにあがりますので、部屋でお待ちください」
ぴしゃりと国王の申し出を断り、わたしは私室に向かった。冗談だとわかっていても、"七海の覇王"のような顔のいい男性に言われるとドキッとしてしまう。もちろん国王とわたしに恋愛感情はないし、そういう意味でのドキドキではない。
本当はのんびりと湯浴みしたかったが、国王を待たせている自覚がわたしを急かす。手短に油を落として身支度をしてから、主の部屋に向かった。
「お待たせしました、行きましょう!」
国王の私室に入ると、すでに彼は酒瓶を一人で空けていた。呆れて物を言えずにいると、おもむろにわたしのそばに来た部屋の主が耳打ちする。二人きりの部屋で何を話そうと、他人に聞かれることはないのに。
「これ、"トランの民"から分けてもらったんだ。さすがのゴンベエも飲んだことないだろう?」
"七海の覇王"の問いに、わたしは頷く。"トランの民"は転々と世界各国を流浪する。わたしは一度だけ見たことがあるものの、当時暮らしていた国の皇族に会いに来ていたのであって。酒を口に含むどころか、"一介の官職"には通りすがりの挨拶が精一杯だった。
未知の味に理性が吹っ飛びそうになるのは、職業病か個人的な問題か。流浪の民が暮らす島とシンドリアは友好関係を築いているとはいえ、このお酒を堪能できる機会はそう多くない。その証拠に、シンドリアに来て半年以上が経つものの、珍酒のお誘いは今日が初めて。この誘惑に勝てる術を、わたしは持ち合わせていない。
「飲みましょう!グラスはどこですか?」
言われた通りの場所にグラスを見つけ、国王に注いでもらう。カチンとグラスを鳴らし、まずは香りを堪能する。かなり個性的な香りで、好き嫌いが分かれそうだ。
「いただきます」
初めての珍酒に胸を高鳴らせながら、グラスを口に運ぶ。癖の強い香りと裏腹に、味は非常に爽やか。喉ごしもすっきりしている。
「…すごい。こんなお酒、初めて飲みました」
「だろ?」
対面の国王はご満悦な様子。いつも通り羊皮紙に記録を取り終え、もう一度お酒を口に含む。
「おいしいなあ…」
頬が緩んでいるのが自分でもよくわかる。好みは分かれるが、わたしは確実に好きだ。
「ゴンベエ、実は今飲んでいるやつで終わりなんだ」
ほら、と国王は瓶を傾ける。瓶の口からは数滴の酒が滴るだけ。わたしのグラスに残るのが最後の珍酒だ。
「えっ…残りは国王がお飲みください」
主の言葉に、わたしは自分のグラスを差し出す。すでに国王のグラスは空。どちらが"トランの民"の珍酒の最後の一杯を飲むべきか。国王と"一介の官職"なら、答えは自明だ。
「残りが欲しくて言ったわけじゃないからゴンベエが飲んでくれよ。そんなにおいしそうに飲んでくれるなら、ゴンベエが飲むべきだ」
「いや、でも…」
おもむろに立ち上がった国王は、食い下がるわたしの真横に座る。珍酒が残るグラスを右手に、わたしの顎を左手に取った国王は真剣な眼差しを向けた。
「わかった。じゃあ二人で飲もうか、口移しで」
そんなことを顔のいい人間に言われれば、国王に気がなくてもドキドキしてしまう。思わず息を呑むと、国王の顔が近づいてきた。視界を占める割合を増やす"七海の覇王"に我に返ったわたしは、一呼吸置いて彼からグラスを奪う。
「わたしがおいしくいただきますっ」
国王に背を向け、わたしは残りを一気に飲み干した。それなりの量を素飲みで堪能したわたしの顔は、きっと真っ赤だ。もちろん、酒量だけが原因ではないだろう。
ゆっくり貴重な珍酒を味わいたかったのが本音だが、仕方ない。人として国王を尊敬していても、恋愛感情のない相手とそういうことをする気はない。
「まったくゴンベエは…」
呆れたように、国王はわたしを一瞥した。頭上にクエスチョンマークを浮かべていると、"七海の覇王"はわたしの右手を取る。
「今から酒屋に行くぞ!」
着いた先は、市街地にある酒屋の個室。手頃なものから王宮の晩餐会で提供するものまで幅広い酒を取り揃えていて、わたしも公私を問わず利用している。酒の販売だけでなくバルも併設していて、酒と料理のペアリングを楽しめることでも評判の酒屋だ。
とはいえ、この酒屋で個室を利用するのは初めて。よく来るのかと聞けば、"七海の覇王"は頷く。一般国民と相席することもあるが、周囲の客に聞かれたくない話をするときは個室を利用すると国王は言う。
「周囲に聞かれて困る話を、"一介の官職"のわたしとするつもりで?しかも王宮の外で?」
少し考えたあと対面の主は苦笑いを浮かべた。もちろん国政に関わる話題は王宮内でも場所を選んで話しているし、間違っても市街地で話すことはない。そう返す国王に、市街地の飲食店で話すような"周囲に聞かれて困る話"について、わたしは問う。
「ゴンベエを知ろうとすれば、他国の口外しづらい話も出てくるだろうし」
「口外しづらいことは、あなた様が相手でも口外しませんよ」
そう返すうちに店員がやって来て、葡萄酒が卓上に置かれた。店員が去るのを待って、わたしたちは互いのグラスをぶつける。
「たまたま廊下でお会いできたとはいえ、国王と一対一でお酒なんて初めてで緊張します」
「緊張することはない。今日は単純にゴンベエと仲良くなりたくて誘ったんだ」
「仲よく…?」
そう尋ねると、国王は頬を膨らませた。むくれる"七海の覇王"の表情は、ピスティちゃんを彷彿とさせる。少なくとも、とても一国の王とは思えない。
「マスルールやシャルルカンとは友達なんだろう?」
何か問題でも?と返すと、表情を変えずに国王は続けた。
「俺の方が年齢は近いのに、俺とは友達になってくれないのか?」
「…しかしあなた様は国王で、わたしは"一介の官職"です」
シャルルカン様たちと友達になったときと同じことを伝える。"七海の覇王"とわたしの年齢は一つしか違わない。友達になるにしても気にならない年齢差だ。
とはいえ、"国王と友達"だなんて。おこがましいにも程がある。そもそも、今こうして"七海の覇王"と二人で卓を囲むこと自体がおかしいのだ。
「ミストラスやルルムとは、友達だったんだろう?」
軽く葡萄酒が巡る頭を回転させ、なんとか「それは子供のときの話で」と返す。親の転勤に伴い王宮で暮らす子供と、自らの意思で副料理長として国に仕える二十六歳。同じ王族皇族と友達になるにせよ、状況も立場も全然違う。
「…ゴンベエまでそんなことを言うなんて寂しいな。こうして王は孤立するんだな。"国民と楽しく幸せに暮らせる国を作ろう"と思っても、王になると国民が離れていくんだ」
ふと悲しげな顔を見せる国王に、いたたまれない気持ちになる。こんな顔をさせた原因が自分にあると思うと、罪悪感がわたしを蝕む。
権威目的で近づく人間を避けようとするとなかなか友達ができない。かつてこう言っていたのはルルムちゃん。彼女は"最高権力者の娘"だったが、対面の相手は自身が最高権力者。それに当時のイムチャックに比べ、今のシンドリアは新興国ながらそれなりの力を持っている。
なにより、国王は世界的に著名な冒険譚の著者で"七海の覇王"。権威目的で近づいてくる者は、ルルムちゃんの比ではないだろう。それを踏まえれば安易に友達なんて言うべきでない。そう思う一方で、友達作りにおける国王の苦労も手に取るようにわかる。
「国王…」
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