毒薬 -Love is a Poison...-(ジャーファル) | ナノ


旅館(005)


「ゴンベエさん。申し訳ありませんが、あと数日お待ちいただけませんか?」



シンドリアに入国した翌日。滞在した旅館を引き払ったわたしは、政務室に来ていた。目的はもちろん、宮中に引っ越すため。荷物を抱えたわたしを前に、部屋の主であるジャーファル様は頭を下げる。

「先日の荒天の影響で、イムチャックからの書簡がまだ届かなくて」

イムチャックは、極北の秘境に位置する少数民族国家。8歳から13歳までの5年間を、そこでわたしは過ごした。

ジャーファル様の仰る"書簡"は、身辺調査の結果だろう。働くには幼すぎた当時のわたしは、イムチャック首長の住まいに匿われていただけ。当事者としての贔屓目を抜きにしても、10歳前後の素行で身辺調査に引っかかるとは思えない。それでもそんな昔のことまで調べあげるのか、とわたしは舌を巻いた。

「ゴンベエさんの身辺調査結果は、問題ないはずです。しかし…身辺調査が終わるまでは就労許可を出せません」

申し訳なさそうに仰るジャーファル様。眉尻を下げる政務官に、わたしが罪悪感を抱く。

「ジャーファル様が謝らないでください。天候が理由なら…尚更です」

わたしの足元を一瞥したジャーファル様は、近くにいた文官を引き留めた。政務官の後ろについた文官は、上司から何かの説明を受けている。上司と同じように、彼もわたしの足元を見た。

「ところでゴンベエさん。就労許可証を出すまでの滞在先なのですが…」

部下と話し終えたジャーファル様に声をかけられ、わたしははっとした。今日から王宮に住み込むつもりだったが、それは不可能。理由は単純で、就労許可証がないから。いくら採用が決まっているとはいえ、就労許可が下りる前の食客でもない人間を、宮中に住まわすわけにはいかないのだ。

かといって、次の宿泊先を探せるだけの金銭的余裕はない。このまま王宮を追い出されれば、野宿も選択肢に入れなくてはならないだろう。バルバッドでジリ貧生活を送ったわたしは、元より金欠なのだ。

王宮勤務と聞けば、華やかな印象を抱く人も多い。しかし、想像とは裏腹に官職の実態は地味だ。前にいた海洋国家の情勢も手伝い、出国前のわたしの生活はかなりひもじかった。なけなしの貯金をはたいて、やっとの思いでシンドリアに来ている。

とはいえ、出国前にはある方から金品をいただいていて。換金しようと思えば換金できるし、市街地に小さな家を買って暮らすことだってできるだろう。それだけの額に値する金品を、わたしはいただいていた。しかし、あの状況でそれをわたしにくださった彼を思うと、そう簡単に換金する気にはなれない。

「我々の都合でお待たせしているので、国負担で滞在先を用意しました」

そう仰るジャーファル様にバレないように、そっとわたしは胸を撫で下ろす。野宿を検討せざるを得ないほど貧窮しているなんて、さすがに知られたくなかった。わたしが金欠なのは事情が事情で、政務官に話すわけにはいかない。かといって、金銭感覚のおかしい女と思われるのも嫌で。

「とても嬉しそうですね…」

「えっ…う、嬉しくなんかないです!」

慌ててそう返すものの、「顔にそう書いてありますよ」と袖余りの官服で口元を覆ったジャーファル様は微笑む。わたしの思考が顔に出やすいことは、かつて過ごした国でも散々指摘されていた。この南国ではその一面を絶対に知られないようにしようと思っていたのに、入国2日目で計画は頓挫する。

「それはさておき…こちらの文官に荷物を運ばせますから。旅館のことは彼に聞いてください」

ジャーファル様の後ろにいた彼は、わたしの荷物運びを手伝う案内役だった。"文官に荷物を運ばせる"と政務官は仰るものの、この荷物量ならわたし1人で十分。とはいえ、旅館までの行き方がわからない以上、文官の力を借りないわけにはいかない。

政務官から文官に視線を移すと、文官と目が合って会釈された。「よろしくお願いいたします」と言いつつ、慌ててわたしも会釈する。わたしたちの挨拶を見届けたジャーファル様は、わたしを呼ぶ。

「遅くても…数日中に就労許可証を出せると思いますから、書簡が届くまでお待ちいただけませんか?」

「…は、はい」

「お待ちいただけませんか?」と聞かれたところで、就労許可は下りていない。わたしには拒否権などない。どんなに働きたくても、就労許可が下りなければ働けないのだから。

「正式雇用前に行動を制限して申し訳ありませんが、念のため島から出ないでください」

わたしが頷くのを待って、国王を探すと仰ったジャーファル様はその場を去る。

「申し訳ないけど…そういうことだからよろしくね。就労許可が出たら連絡するから」

そう言うのは、ずっとわたしの右隣でジャーファル様の話を聞いていた料理長。わたしの右肩にぽんと手を乗せ、厨房の方向に上司も消えていった。

「では、参りましょうか」

ジャーファル様の部下の文官は、わたしの重い荷物を持とうとする。重い荷物には鉄製の料理道具がたくさん入っていて、かなり重い。そんなものを文官に持たせるなんて、申し訳なさすぎる。

自分で持つと言ったが聞いてくれず、大きな荷物を彼が背負う。予想外に軽々しく重い荷物を背負って歩く文官に、わたしは呆気に取られてしまう。

「ゴンベエ殿…?」

いつまでもついてこないわたしを不思議に思った文官が振り返り、わたしは我に返る。比較的軽めの荷物だけを持ったわたしは、大股で彼を追った。



「いいんですか?こんなところ…」

荷物を寝台の脇に下ろす文官に問うたわたしに、「もちろん」と微笑んだのは文官。戸惑うわたしをよそに、ティーセットを彼は卓上に置く。ジャーファル様に旅館のことを一任されただけあり、自宅さながらの様子で茶葉を見つけて紅茶の抽出を始めた。

政務官つきの文官に連れられたのは、見るからに高級な旅館の見るからに一番いい部屋。最上階で、フロア丸ごと貸切だ。それだけでない。椅子やソファーなどの家具は、どれも高級品。国王の私室にあっても不自然ではないものばかりで、宿泊費用を想像しただけで頭がおかしくなりそう。

つまり、"一介の官職"であるわたしには不相応。国賓ならともかく"一介の官職"をこの部屋に宛がうなんて、シンドリアの財政はどうなっているのか。あのジャーファル様に限って国家予算の管理がガバガバだなんて思えない。しかし、どう考えてもわたしに見合わない現実に、だんだん頭が混乱してくる。

「いつまでお待たせするかわからないので長期で部屋を抑える必要があったんですが、長期で借りられる部屋がここしかなくて…」

「そうでしたか…」

やはり思考が顔に出ていたのか、わたしの疑問の解を文官が口にした。穴があれば入りたいが当然穴などなく、恥ずかしさをごまかすように文官が淹れてくれた紅茶に口をつける。

「ここは他国の富裕層が利用する部屋です。それゆえ、人目につかずに出入りできる専用の裏口もございます」

そんなことまで教えてくれる文官に、思わず感嘆が漏れた。どうせ使わないまま終わるだろうと思いつつ、念のため専用の裏口を確認する。長い階段を下れば、先ほど入館したときに使った表口とは反対側に出た。給仕すらこの裏口は使わないらしく、ほぼ人目につくことはないという。

「そろそろ私は戻りますね」

「はい…ありがとうございました」

官服の袖から文官が取り出して机に置いたのは、この部屋の鍵。裏口の扉もこの鍵で施錠できるらしい。緊急連絡先を書いた紙切れと地図を残し、そそくさと部屋から文官は去った。パタンと扉が閉まる音のあと、広い部屋は静寂に包まれる。

「どうしよう…」

金欠のわたしには、することがない。島から出るな、とジャーファル様には言われている。政務官に言われなくても、外出する気などない。

せっかく新しい国に来たのだから、街に繰り出してシンドリアの飲食店を訪ね歩きたいのが本音。しかし、わたしは金欠なのだ。生活用品の購入費用として手元に残したお金はある。とはいえ、それで飲食店を訪ね歩くわけにはいかない。

生活用品の調達も、王宮に引っ越してからで間に合う。引っ越し時に余計な荷物を増やしたくないし、今は余計な出費をしたくない。

むしろ、このなけなしのお金で、働きはじめるまでどう耐えればいいのか。書簡が届くまでは働けないわけで、今あるお金でやりくりする必要がある。しかし、いつ就労許可が下りるかは不明。船便の到着は天候次第で、日ごとの予算すら割り出せなかった。

「…仕方ない」

予算を組むにはシンドリアの物価を知るのが不可欠で、何より今はご飯を食べたい。どのみち、今日は市街地に出るべきとわたしは判断する。軽く身なりを整え、先ほど確認した裏口からわたしは外に出た。



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