盗聞(番外編)
ある日の午前中。繁忙期のこのクソ忙しいときにもかかわらず、私を女官が呼び出した。私室で私をシンが呼んでいる、と眉尻を下げて女官は言う。
「…仕方ない」
シンの部屋に行く旨をピピリカに伝え、重い腰を上げる。申し訳なさそうにする女官に頭を下げ、紫獅塔への道を行く。
「シン!どうしたんで」
「しーっ!静かに」
部屋に入るなり小声でそう告げるのはシン。彼の左手にあるのは逆さのグラスだ。壁から一向に動こうとしないシンに改めて何をしてるのかと問えば、もう一つのグラスを手渡される。
「…?」
「俺の真似して」
小声でそう言ってしゃがんだシンは、左手のグラスを壁に押し当て、グラスの底を自身の耳に当てた。
「ちょっとシン…。盗み聞きなんて悪シュミですよ」
主を諫めるものの、シンは聞く耳を持たない。仕方なしに主と向かい合うようにして真似をしてみれば、重大なことに私は気づく。この壁を隔てた先から聞こえるのは、恋人のゴンベエの部屋。
「おい、シン!ゴンベエの声盗み聞きすんじゃ」
「うるさいって!今いいところなんだから」
暗殺者モードの私にも一切動じないシンは、ふむふむと耳を傾ける。恋人の声を盗み聞きするなんて趣味じゃないものの、我慢する私の横でゴンベエの声をシンばかりが聞くのは面白くない。心の中でゴンベエに謝罪してからグラスに右耳をつけると、聞こえたのはオルバの声。
「ジャーファルさんとゴンベエさん、超ラブラブっすよねー!」
「そ、そうかな…?」
ゴンベエの問いに、ヨーンやアーロンたちが囃し立てる声も聞こえる。どうやら、ゴンベエの部屋にはオルバたち元海賊幹部がいるようだ。白龍皇子を巡る一件以来、オルバとゴンベエは小さな喧嘩もせず仲よくしている。
「ジャーファルさんもゴンベエさんも相思相愛すぎて、余裕綽々ですもんね!」
「あれだけジャーファルさんに愛されてたら、嫉妬なんてしないんだろうな…」
ブロルとビルギットは、随分と勝手なことを言う。軽い苛立ちから、大きなため息を私はついた。私の周囲に他の女性がいても、ゴンベエが嫉妬することはないのに。
「嫉妬?…したよ、今朝も」
思いがけないゴンベエの発言に、無意識のうちにグラスに耳を当てる力を強くする。今朝は非番のゴンベエと一緒に過ごした。食堂で朝食を摂ったあと、政務室まで一緒に廊下を歩いたのだ。それだけであり、嫉妬されるようなことに心当たりはないし、嫉妬した素振りなんて微塵もゴンベエは見せていない。
「ええっ?ゴンベエさんが?誰に、何で嫉妬したんですか?」
「…ジャーファルに絶対に言わないって、約束してくれる?」
壁越しのゴンベエの言葉に、グラスから耳を外して思わず主の顔を見る。聞いちゃえばいいのに、とシンは小声で私に言う。
「そんな、私に聞かれたくないってゴンベエが…」
「仕方ねーだろ。俺らが出てっても、ゴンベエが喋ってはくれんだろ」
私の中で聞かなかったことにすればいいだけ。もう一度ゴンベエに謝罪し、罪悪感に苛まれつつも右耳をグラスに当てた。
「食堂で朝ご飯を食べてたとき、託児所の子たちがわたしたちに挨拶してくれたんだけど」
ゴンベエの発言に、今朝の記憶が蘇る。男の子3人と女の子4人、引率の先生の計8人と朝の食堂で顔を合わせた。他愛のない会話だけで、ゴンベエが嫉妬する要素なんてどこにもない。引率の先生は男だったし、なおさらだ。
「そのとき…"将来はジャーファル様のお嫁さんになりたい"って、女の子たちが言ったの。素直に言える女の子たちがすごく羨ましくて」
「…っ」
確かに、そんなことを女の子たちは言っていた気がする。今朝の女の子たちに限らず、"ジャーファル様のお嫁さんになる"とか"ジャーファル様と結婚する"とか、そんなことを幼い女の子に言われるのは日常茶飯事。"ありがとう"と笑って受け流すだけで、気に留めたこともなかった。
ふと正面を向けば、気持ち悪いくらいニタニタしながらシンがこちらを見ている。"顔真っ赤"と口パクで伝えるシンをきつく睨むが、彼は意に介さない。文句を言おうとするタイミングで、ゴンベエにヨーンが問うた。
「ゴンベエさんだって、素直にジャーファルさんに言えばいいじゃないですか」
「そうそう!だいたい、ゴンベエさんは圧倒的正妻ポジションでしょう?」
「正妻ポジションなんかじゃないよ、ただの恋人」
そう口にするゴンベエの声色は、どこか寂しそうで。盗み聞きしはじめたときの楽しそうな雰囲気から一変し、隣の部屋は声だけでもわかるくらいシリアスな空気に包まれている。
「わたしだって、言えるなら言いたいよ。でも…言えないの。わたしが仕事を諦めればいいのはわかってるけど、それだけは…」
「ゴンベエさん…」
「今のアーロンくんたちくらいの年齢だったら。…あと10歳若ければ仕事も何もかも投げ打って、そう言えたかもしれないね」
続きを聞くのが辛くなり、グラスから右耳を外した。私に続いて壁から離れたシンは、申し訳ない、と私に謝罪する。
「ジャーファルが来る前は、もっと惚気話ばっかりだったんだよ。その、こんな神妙な雰囲気になるとは…」
言葉通り申し訳なさそうにするシンに、気にしなくていいと私は返す。
「ゴンベエに言わせないで、ジャーファルが言ってやればいいんじゃないか?"嫁に来い"、"妻になれ"って。もうゴンベエの両親にも挨拶してるわけだし」
シンドリアにゴンベエの両親が来たのは、2年近く前のこと。確かに、そのときに"ゴンベエの恋人"としての挨拶を2人に済ませている。すでに私の過去も話していて、暗殺業を知ったうえでゴンベエのそばに私がいるのを許してくれていた。
「結婚って簡単に言いますけど…ゴンベエと私だけの問題じゃなくなるんですよ。自らの意志で私を伴侶に選ぶゴンベエはともかく、彼女のご両親を"人殺しの家族"にしてしまうんです」
「…これまで何十人、何百人と殺してきたかもしれない。でも、もうジャーファルは人殺しじゃないだろう?」
シンの言う通り、もう何年も私は人を殺していない。しかし、だからといって自分が家族を持つことを許された気にはなれなかった。組織の上層部に言われるがまま殺めた人々は、みんな誰かの家族だったわけで。何の疑いもなしに誰かの家族を奪ってきた私なんかが、自分だけ家族を持って幸せになっていいはずがない。
殺人の報いだって受けるべきだ。それが私ではなく私の家族に降りかかったとしたら、私は耐えられないだろう。たとえば私と結婚したせいで、一生ゴンベエが料理できない身体になったら。私が殺した者の遺族から、"ジャーファルの血縁者"という理由で子供が報復を受けたら。
「万が一ゴンベエやゴンベエの親、おまえらの子供に何かがあっても、それはジャーファルの過去のせいじゃないだろ」
思考をすべて見透かしたように、シンが口を挟む。私を見つめる眼差しには、いつものような軽さは感じられない。"七海の覇王"で、"七海連合"の長で、シンドリアの王で、世界一の冒険者で、選ばれし"王の器"。それを感じさせる迫力がある。
「殺人がよくないのは間違いない。ただ、もうおまえは改心してるし反省もしてる。"暗殺の過去を知られて拒絶されたら"って、ゴンベエと付き合う前にも言ってたけど、ずっとその過去に縛られる気か?」
「"改心してるし反省もしてる"って言っても…。それは被害者側の台詞であって、加害者が…私が言っていいことじゃないでしょう?」
そうだな、と私の反論にシンは短く返す。少し間を置いてから、シンは話を続けた。
「まあ、今すぐゴンベエも結婚を望んでるわけじゃなさそうだし、今はあまり思い詰めないでくれ。世界平和に向けて…復讐をジャーファルが恐れなくていい世界の実現に向けて、まだやるべきことはたくさんある」
「…ええ。どこまでもお供します」
下を向いていた顔を上げ、主に拱手する。結婚にゴンベエが乗り気でないことは、直接言われなくても知っていた。無理矢理ゴンベエから大切なものを奪うつもりは私になく、彼女の意向を尊重したいとは思っている。
ふう、とため息をついてシンのほうに視線を向けると、彼の背後に魔法の光らしきものが集まっていた。
「シン、後ろ…」
私の指さした先を振り返ったシンが見れば、古くから知る"マギ"とモルジアナ。近頃シンが新調した最高級ソファーに座ったユナンは、ふかふかの座面の反発を楽しみはじめた。
「やあ。シンドバッドの部屋には初めて来たけど、広くていいね」
「ユナン!おまえ、モルジアナを連れて一体何を…?」
「シンドバッドさん!大変なんです」
さすらいの"マギ"と彼に詰め寄ろうとしたシンの間に、モルジアナが割って入る。世界の危機でも目の当たりにしたかのような形相の彼女に、落ち着くよう今度は私が声をかけた。
「実は…」
ユナンの口から紡がれた事実は、あまりに衝撃的で。マグノシュタットに現れた"暗黒点"なるものを塞がなければ、この世界が消滅してしまうという。
"七海連合"加盟国の"金属器使い"と眷族をマグノシュタットに呼ぶよう、ユナンとモルジアナにシンが頼む。各国の王に向けて早急にシンがしたためた書簡を手にしたモルジアナとユナンは、再び魔法の光に包まれていく。
「ジャーファル。八人将に緊急招集令を」
「はい」
主の指示に頷いた私は、緊急招集令を伝えてもらうべく部下たちを呼びに部屋を出た。
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