毒薬 -Love is a Poison...-(ジャーファル) | ナノ


無惨(100)


「おーい、入るぞヤムライハ…」

「うわァァァァ、今度はヒナホホさんの頭髪がぁぁ!」



ヒゲを伸ばし始めて十五日。バカ女の魔法のせいで、元々長かったヒナホホさんの頭髪がさらに伸びてしまった。被害者はすぐに髪に刃を入れ、元の長さに戻す。しかしヒナホホさんとは対照的に、髪を切らない被害者もいる。四日前にイムチャックと同じ被害にあった政務官だ。

「これでも…かなり切ったんだよ」

確かに本人の言う通り、魔法がかかった当初の床を引きずる長さに比べればかなり短くなっている。とはいえ、まだ腰につく長さだ。

「そんな顔するくらいなら、バッサリ切っちゃえばいいじゃないですかァ」

思ったままを口にすると、ジャーファルさんの頬は緩んでいく。

「私は戻したいけど、ゴンベエが気に入っていて」

政務官の口から出たのは恋人の名前。ジャーファルさんの頭髪が伸びてから、彼は毎日違う形に髪を結っていた。今日の政務官は、王サマのように後ろで一つに結っている。

八人将でも、群を抜いてファッションに無頓着なのがジャーファルさん。毎日変わる髪型が彼自身の意向でないのは、誰の目に見ても明らかだった。とはいえ、仕事柄おしゃれをする機会に乏しい王宮副料理長の関与もかなり意外だ。

「ゴンベエも一人っ子だから、妹の髪の毛をいじるのに憧れていたみたいで」

イムチャック時代のゴンベエちゃんは、ルルムさんに髪を結ってもらっていたらしい。酒を多く飲んだ日の王宮副料理長は、気分がいいと"極北の秘境"の友人との思い出話を繰り返す。ヒナホホさん一家が同席していなくても、誰かに要求されなくても話すのだ。

もちろん髪を結ってもらったことばかりが話題にあがるわけではない。一緒にお菓子を作ったとか、イムチャックの謝肉宴を一緒に回ったとか、手編みのセーターを作ってもらったとか。そういう話を聞いたこともある。

しかし、王宮副料理長は各国の王宮で育った経緯からも、積極的には自身の過去を開示してくれないのだ。これらを踏まえれば、髪の毛いじりに限らずルルムさんがいかにゴンベエちゃんを喜ばせたかは言わずもがな。

「それに何より…」

そこまで口にしたところで、今のは忘れてくれと政務官は言う。中途半端なところまで聞かされ、一番いいところで引き下がるなんてできない。何度か応酬が続き、最終的に折れたのはジャーファルさん。

「長髪だと…ゴンベエが髪を洗ったり乾かしたりしてくれるから」

普段もゴンベエちゃんは髪を洗ったり乾かしたりしてくれる。しかし、頭髪が伸びてからは構ってくれる頻度がぐっと増えたという。頻度だけの問題ではない。髪を洗ったり乾かしたりする時間も、当然長髪の方が長くなる。つまり、ジャーファルさんと恋人のイチャイチャする時間が増えているのだ。

想定外の惚気に、俺は心の中で歯軋りしていた。正直なところ、目の下の布は邪魔で仕方ない。飲食はもちろん、喋るにもこの布は不便だ。しかし、あと五日の辛抱と自分に言い聞かせ、俺は耐えていた。

ヒゲが伸びれば、この布を外せる。ゴンベエちゃんがジャーファルさんの長髪を気に入ったように、バカ女が俺のヒゲを気に入るのを信じて。



さらに四日後。布を外せる日が翌日に迫っている。紫獅塔の廊下を歩いていると、またバカ女の部屋から悲鳴が聞こえた。

「シンドバッド王の眉毛がああああーっ!」

この二週間ほど、バカ女の悲鳴を聞かなかった日はない。"またか"と思う気持ちはあれど、一応あれでも女だから心配にはなるわけで。さらに"シンドバッド王"と言われれば、シンドリアに危機が迫っている可能性も否定できない。慌ててバカ女の部屋に駆けつけると、王サマの眉毛が床を這っていた。

「いい加減にしなさいヤムライハ!」

怒りのあまり、ジャーファルさんは縄票で自身の頭髪を元の長さに切る。政務官の背後で、呼びつけた女官に手鏡を持たせるのは王サマ。切ったり剃ったりして、伸びた眉を王サマが自ら整えた。

「まあまあ、怒るなジャーファル」

王サマが政務官を宥める。主に言われるがまま、おとなしく怒りを鎮めるジャーファルさんは珍しい。

「いつも国事のために、シンドリアに縛りつけてすまない。そろそろおまえも、少し故郷を見に行くくらいしてもいい頃なんじゃないかと、近頃のおまえを見てずっと考えていたんだ…」

凛々しい顔に戻った王サマは、バカ女に申し訳なさそうな顔をする。

「お…王よ…すみません…」

王サマに向かってポロポロと涙を流すバカ女に、じっと見入ってしまう。バカ女を泣かせたのは、王サマでも他でもない。"ヒゲの素敵な男性"が現れない現実。それを打破するのは明日の俺で、明日のバカ女が流すのは嬉し涙だ。泣いているバカ女を今すぐ抱きしめたい気持ちを抑え、俺は部屋に戻った。



「オ〜イ、バカ女〜!」

翌朝。ヤムライハを見つけた俺は、大きな期待を胸に彼女の元に駆け寄る。

「見ろっ!おまえが欲求不満だっつーから、俺がヒゲを生やしてやったぜ〜」

気持ちがはやり、バカ女の元に着かないうちに右手を布にかけてしまう。

「ただの気分転換だからなァ〜。別におまえのためだけってわけじゃないんだからなァ〜」

満を持して、右手で俺は布を外した。バカ女はどんな表情で俺のヒゲを見るだろう。期待に期待を込めて、俺はバカ女の顔を見る。しかし、そこにいたのは鬼の形相で俺を睨むバカ女だった。

「敵め!」

「えっ?」

俺の耳が正しければ、バカ女が口にしたのは"てきめ"。バカ女に期待していたのは、"すてき"だ。"てき"は同じだが、聞き間違えだろうか。混乱する頭をフル回転させ、なんとか思考を巡らせた。

「のこのこ現れおったな、ヒゲ男め!そのヒゲ許さん!」

「えっ?何?何?」

聞き間違いでないことを悟り、さすがに俺は慌て始める。昨日まであんなに甲斐甲斐しく魔法陣を書いていたのに。一晩でバカ女に何があったのか、考えずにはいられない。しかし、答えには到底辿り着けそうにはなくて。

混乱する俺をよそに、バカ女はどこからかカミソリを取り出す。あっという間にバカ女は馬乗りで俺を捕らえた。

「ちょっと待て…」

このシチュエーションがおいしいと思ったのは、たった数秒。三週間かけて生やしたヒゲに、カミソリが宛てがわれた。パラパラと床に散る俺のヒゲにバカ女は見向きもせず、俺の顎に手を当てて剃り残しを処理していく。

床屋並みの腕前できれいさっぱりヒゲを剃り終われば、バカ女は俺から離れるとばかり思っていた。しかし、事態は思わぬ方向に進む。右手に持ったままのカミソリを、バカ女が俺の顎以外に宛がう。

「そこは俺のヒゲじゃな…」

抵抗も虚しく、ヒゲではない部位にも容赦なくカミソリが入る。

「あーっ!」

あっけなく毛を剃られ、俺は目も当てられない姿になった。エリオハプトの王族、いや、成人男性らしからぬ悲鳴がシンドリア王宮に木霊する。それでも、バカ女の手は止まらなかった。



「シャルルカン様、朝ご飯置いとくから食べてね」

翌朝。王宮副料理長が俺の部屋を訪ねていた。昨日バカ女にめちゃくちゃにされたあと、部屋に戻る途中で唯一会ってしまったのがマスルール。誰にも見られたくなかったみっともない姿を、よりによってマスルールに見られてしまったのだ。

しかし、二人で紫獅塔に向かううちに、見られた相手が野郎なだけマシとすら思えてきて。ゴンベエちゃんやピスティといった女性陣には、どうしても無惨な姿を見せたくなかった。たとえ恋愛対象にならない女性が相手でも、かっこつけられるならかっこつけたいのが男だ。

そこで、マスルールを介してゴンベエちゃんに頼み、食事を部屋まで運んでもらうことにした。くだらない仕事を増やしてしまい、王宮副料理長には申し訳なく思う。しかし、これは男のプライドの問題だ。

「…さすがにヤムちゃんも反省してるよ」

ゴンベエちゃんの口から出た名前も、今は俺の胸に響かない。

「シャルルカン、私が悪かったの。昨日は気が動転していて…魔法で戻すから、出てきてくれる?」

王宮副料理長と一緒にいるのか、部屋の扉越しにバカ女の声が聞こえる。バカ女が俺を"シャルルカン"と呼んだのは、いつ以来だろう。天才魔導士の発言に期待した俺は、部屋の扉を勢いよく開けた。

「…」

俺を無惨な姿にした張本人はまだしも、完全にゴンベエちゃんは引いている。廊下に出る時間を一秒でも短くし、王サマや他の八人将にこの姿を見られるリスクを減らすべく、俺はすぐに部屋に戻った。魔法を発動させようと勇み足で入室したバカ女とは対照的に、王宮副料理長はゆっくりと部屋に入る。

「朝ご飯、机に運んでおくね…」

声色は明るいものの、俺に気を遣っているのかゴンベエちゃんは俺と目を合わせようとしない。それで"第三者から見た俺がいかに無様か"を思い知らされることになって。せっかく王宮副料理長が朝食を用意してくれたのに、何を食べたかまったく思い出せない。

天才魔導士の魔法で、すぐに俺は元の姿に戻った。しかし、俺を見るゴンベエちゃんの目がしばらく生暖かかったのは言うまでもない。



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