別に誰でもよかったのだ、と後になってから男はボソリと白状した。それもそうだろうな、と女は手に持った酎ハイを煽りながらぼんやりと刺盛りのつまをつついた。器用に一本だけつまみ上げてもしゃもしゃと食べてみせれば、くつくつと笑って目尻を蕩けさせる男に、調子が狂うな、と女は肩を竦ませた。
「マジでうさぎ」
「うさぎは大根食べないでしょ」
「何食うの」
「……チモシー?」
「なんだそれ」
「牧草」
「草ならこれ食っとけ」
「レタスじゃん」
「変わんねーだろ」
「っていうか、うさぎじゃないんだけど」
 悪態をつきながらも青じそドレッシングを纏った青菜に手を伸ばす様子を見て、男は今度こそ声をあげて笑った。
「間違いなくウサチャンだわ」
「うるさいな!」
 だん、と苛立ちで足を鳴らす様子はまごうことなきうさぎのスタンピングそのものであった。

◇◇◇

 サボりだったか任務だったか定かではないが、初回と2回目の授業を欠席した水曜2限の必修。たまたま隣の席に座って、真面目に授業を受けていそうだったからと、ただそれだけの理由で太刀川慶は何も考えずに座った席の左隣の学生に声をかけた。
「悪い、前回までのノート見せてくれ」
 尤も、ノートの貸し借り、それもほぼ初対面のメンバーしかいないような教室で声をかける理由なんてそれ以上のものを用意する方が困難だ。声をかけられた女学生は困惑したような表情で首を傾げて、右手の人差し指で自分を指した。
「……わたし?」
「おう」
 太刀川の顔と、机に広げられたファイルの間を視線が一往復する。ぱちん、と音を立てて3枚のルーズリーフがファイルから抜き取られる。
「……字、あんまり綺麗じゃないんですけど……私のでよければ」
「すまん、助かる」
「書き写しますか?」
「いや、写真だけ撮らせてもらうわ」
 赤と青のペンで所々色分けされながら、細かい字でメモも書き込まれている。見やすいとは言い切れないが、少なくとも勉強が苦ではない人間の作るノートだ、と太刀川は思った。自分なぞ紙に文字を書き起こす気にもなれない。
 両面か2枚と片面が1枚。計5枚の写真を撮り終えてルーズリーフを持ち主に返す。こくり、と小さく頷いてからまたぱちん、と音を立ててファイルにルーズリーフが戻る。講師が入ってきたところでざわついていた教室が少しだけ静かになった。隣の女がぴ、と背筋を伸ばしてシャーペンを手に取るのが視界の端に映る。太刀川は自分のスマホのカメラロールを開いてついさっき撮った写真をタップした。小動物みたいな女。何かに似ている気がする、と考えてから、画面の右下、紙の端の方にあった小さな落書きにウワ、と声を漏らしそうになった。
――ああ、うさぎか。

◇◇◇

 授業が終わるや否や教室の空気を昼休みの気配が丸呑みする。講師が出るのを待たずに再びざわめき出す教室で、太刀川は早々にさして多くない自分の荷物をまとめると席を立ち、左隣の机の上を軽く指で叩いた。きょと、と目を丸くする姿はやはり小動物によく似ている。
「飯行くぞ」
「めし」
「もう買ってんのか?」
「ま、まだです」
「ん」
 うさぎによく似た同期はあわあわと荷物を鞄に詰め込んだ。そんなに焦らなくても飯は逃げないだろ、と太刀川は思った。ジッ、とチャックの閉まる音がして、ぺこりと女が頭を下げる。そのまま教室を出ればぱたぱたと後ろから追いかけてくる音がした。
 食堂はお昼時のせいかやはり混んでいる。券売機に並びながら、後ろを振り返って声をかけた。
「何食う?」
「えっ」
「好きなもん言え」
「た、たんたんめん……?」
「坦々麺な、わかった」
 前の人が立ち去ったのを見送ってから札を吸わせて坦々麺のボタンを2回押す。太刀川は少し悩んでから大盛りのボタンも合わせて押した。女は目を白黒させたまま彼の後ろをついていく。最終的に二人分の坦々麺(うち一つは大盛りである)を持ったまま、空いたカウンター席に隣り合って座った。割り箸を持ったままおろおろしたままの同期に麺伸びるぞと言えば大人しくぱき、と音を立てて箸を割り、ペコリと頭を小さく下げて「いただきます」と手を合わせる。太刀川はそれを見て漠然と「良いな」、と思った。
「ウサチャン」
「?」
「ノート、助かったわ」
「……? うさ……?」
「お前うさぎっぽいからウサチャン。名前知らねーし」
「初めて、言われました」
「授業中から思ってたけどすげー動きが小動物っぽいな」
「そう……?」
「おう」
 ちまちまと麺を拾い上げては啜るのを横目に自分を箸をすすめる。感動するほど美味しいわけではないが、落胆するほど不味いわけでもない。学食ならこんなもんか、という程度の味。太刀川が食べ終わるころ、まだウサチャンは半分ほどしか食べ進められていないようだった。右手で頬杖をつきながらその様子を観察する。居心地悪そうに縮こまるものだからなんだか面白くて、何も言わずに食べ終わるまでそれを見守り続けていた。
 きっちり浮いているもやしの一本まで拾ってから手を合わせてごちそうさまと告げるのを聞き届けて、太刀川は席を立って二人分のお盆をまとめて手に持った。大きく目を見開いて再び慌てふためく様子はやはり面白い。彼の方を見てぺこり、と頭を下げたウサチャンが口を開く。
「あ、えと、ごちそうさまでした」
「こっちこそ助かったわ。次は?」
「406教室です」
「俺は612だから別か。じゃあまた、なんかの授業で」
「あ、食器も、ありがとうございます」
「気にすんなって」
 ひらりと手を振れば同じように振り返される。そのままもう一度頭を下げてから次の教室に向かった同期の背中を見送り、返却棚にお盆を返してからようやく、太刀川は彼女に名前を聞きそびれたことを思い出したのであった。

◎title 天文学


輝きが生まれるだけの産声



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