Rain of Atonement

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(贖罪の雨)



珍しくも篠突く雨が地を穿つ曇天の下、或る墓石の前で立ち竦む男の後ろで、アスミタは黙して佇んでいる。
遠雷の唸り声が遠く響く。
今頃聖域は雷雨に見舞われているのだろうと他人事のように想った。
視覚以外で捉える目の前の人間の輪郭は相変わらず雄々しくも鮮明で、されど普段よりも頼りなく思えた。

半年前の今日、彼はここに己の手で殺めた兄を埋葬した。
ついて行ってやって欲しいと、頼みにすら近い教皇の命を受けた当時のアスミタはその葬送を手伝う事も無く、ただ他の誰も知らない双子座の黄金聖闘士の結末と、永眠の地を知り得る人間となった。
アスミタは誰かを救いたい訳では無かった。
人が人を救おうなど本質、傲慢でしかない。
救いと言うものはそれを受けた側が感じて初めて成立するものであって、己より生ずるものではない。
ただ、この男は強かった。
他の誰が手を貸さずとも内に秘めたる力を高め、いずれ来る未来へと邁進していく力を感じさせる男だった。
それでいて、時折強さの輪郭が儚くきしむのである。
悲壮感とでも形容すれば良いのだろうか。
鬼となると静かに決意を示した焔のような強者の小宇宙は、ただただ哀しみを滲ませ弱さを見せる時があった。
そんな姿を傍で感じていく内に、見守ってやりたい、支えてやりたいと感ずるようになっていた。
例えそれが傲慢な事だとしても。
二番目と呼ばれた男でも、兄を殺めた男でも、忌まわれる鬼でも、彼が何であろうとも構わなかった。

背を向けたままの彼の小宇宙は、張りつめていた。
堅く握り締められた拳ごとその小宇宙を解そうとするかのように、アスミタはそっと自分の指を彼の指に触れさせる。
触れた瞬間に拳から力は抜けて、一回り以上大きな褐色の掌がアスミタの手をしっかりと包み込んだ。
案ずるな、とでも言うように。大丈夫だ、と安心させるように。

「(大丈夫だと言って欲しいのは、君だろうに)」

彼は見栄や意地を張っている訳ではない。
不器用で深い優しさがこの手を包むのだと、アスミタは知っていた。
触れた指から共鳴して伝わる、ツキツキとした胸の痛みと不安定な感情の流れを静かに受け容れる。
今まさに彼の脳内を占めているであろう自問すらも。
アスミタにとっては何ら特殊な事ではない。彼の内に流れるものと己のうちに流れるものの波長を合わせれば、何となく伝わる心の動きで大体推測ができる。
目が見えずとも位置や輪郭を捉えられる事と同じように。

「君は、ただ君だ。デフテロス」

一瞬驚いたように息を呑んで視線を向けられたのがわかった。
ああ、そう言えば以前勝手に心を読むなと凄まれた事があったなと今更ながらに思い出し、手を離そうとする。
だが引いたはずの手は解かれる事はなく、逆にしっかりと握り返された。
嫌ではなかったのだろうかと彼の方へ顔を向けようとしたその時、熱いものに体全体を包まれる感覚を得た。
自分のものではない呼吸音が肩口で聞こえる。
抱き締められている、と悟った瞬間、アスミタは思わず双眸を開いていた。
彼の名を呼ぼうとしたが何故か声が喉から先へ出る事はなかった。
この降りしきる雨の中であっても尚たぎるようなその熱を感じて、声が出なかった。

「・・・・すまん、少しでいい・・・」

人の温もりが恋しい。
たったそれだけ、彼は言った。
何かを言わんとした口を静かに閉じて、立ち尽くしたままアスミタはその身を預けた。
あくまで力が籠り過ぎないようにただ包み込むように回された腕の温かさは、どこまでも感傷的で優しかった。

顔を見たい、と思った。
人の温もりを欲して自分を求めて抱き締めた、この友≪おとこ≫の顔を。
そこにいる、ある、わかる、輪郭としての感覚ではなく、今生の己には絶対に叶う事のない感覚で。
ただ見たいと思った。
溢れるばかりで救われる事のないその感情を、古の神は一体何と名付けただろうか。
もう長い間忘れていたような、糸の引き攣るにも似た痛みを胸に覚えながら、淡々とした雨音を聴く。
そっと彼の背中へ回そうとアスミタが腕を伸ばしかけた時、ゆっくりとその身は起こされた。

「・・・・・・悪かった、唐突に。・・・もう大丈夫だ」

体温が離れて行った身体は肌寒さすら感じて、打ち付ける雨がさらに熱を奪って行くような感覚がした。
アスミタは閉じていた瞳をまた見開き、彼を見上げる。
突然の事に息を呑む音にかかずらう事なく、その頬へ掌を宛がい、形を確かめるように撫でた。
彫が深く、良く通った鼻筋に触れ、唇に指の腹が触れようとした瞬間、突然自分の両目の辺りを熱で覆われる。

「・・・よせ」

少し低い咎める声に、思わず一瞬のうちにアスミタは指を離した。
だが、目元を覆う熱は離れない。それが彼の掌だとわかったのは、少し後のことだった。
真意が掴めず、無意識に彼の心を読もうと小宇宙の波長を探る己に戒めをかける。

「・・・・・・何て顔してんだ」

次にかけられた言葉の意味を理解する暇もなく掌は離れて、雨音に混じって砂利が擦れる音がする。
咄嗟に伸ばした指先が触れる事ができたのはしかし彼の頬ではなく、背中に長く垂れる濡れきった髪の毛だった。
雨の匂いが、徐々に離れていく彼の匂いを打ち消していく。
だが自身でも不思議な程にアスミタの足はその場から動かなかった。動けなかったと言った方が正しいのかもしれない。
傍らに在って支えたいと言う願望と、その願望は最早傲慢に過ぎないと言う自覚と、よせと己の目元を覆ったデフテロスの声と。
望みと自重の天秤は、僅かに自重が勝ってアスミタの足をその場に縫い付けた。
己の行動がとっくに教皇の命の範疇を超えている事など、判っていた。

急に肌寒さを感じ、天を仰ぐ。
この過酷な地で体温や体力の低下を防ぐために燃やし続けていた小宇宙が、心境の乱れによって途切れてしまったらしい。
嗚呼、ここまで人は弱くなれるのかと、それはそれで新たな発見をしたようで満足でもあった。
鬼の居た下、三歩先に佇むかの兄の墓標に打ち付ける雨の音が激しい。
先程よりも雨脚は大分強くなっていて、小宇宙を燃やす事を諦めたアスミタは薄着の張り付いた腕を抱いた。
足元に神経を集中させ、歩みを進める。
火山灰で形成された地面に時折足を取られながら、独り島を歩く。雨の轟音がアスミタの認識する世界を酷く狭めていた。

「(この目に光があればと思えたのは、もう何時ぶりか)」

覚束ない足も、最後に触れた髪の毛先も、咎められた声も、今この瞬間アスミタは網膜に映る世界を渇望していた。
触れたデフテロスの眉間には深い皺が刻まれていた。怒らせたのかもしれなかった。
何て顔をしている、と彼は云った。どんな顔をしていたか、アスミタには知る術がない。
されど己の顔がどうであったか以上に、デフテロスの表情が知りたかった。
同上、知る術はない。

「・・・・」

ふと先の方に人の気配を感じた気がして、アスミタは足を止めた。
相変わらず雨音が地と岩場を叩き付ける音に混じり、慣れたリズムで歩行する音が聞こえる。
そのリズムも、音と音の間隔を逆算して見当がつく歩幅も、アスミタは良く知っていた。
何よりこの雨の匂いを跳ね返す、地を焦がすような熱の匂いは間違いようが無かった。
何故戻って来たのか、などと愚問は浮かんでは来なかった。
その不器用な優しさをアスミタは誰よりも知っていた。

「・・・・体を、冷やすな」

被せるように羽織らされた厚手の布地と、手を掴んだ掌の温かみがそれを証明している。
掴んだ瞬間の冷たさに彼は一瞬怯んだようで、一度強張った後でより一層しっかりと握りしめられた。

「デフテロス、怒ったか。先程は」
「・・・怒ってなどいない」

雨音に紛れそうな音量で彼がぼそりと返事を寄越す。
手指から伝わる熱と、心臓から広がるような温かさを覚える。
安堵したのだなと他人事のように思った。

「・・・・歩けるか」
「問題ない」

気遣うようにデフテロスが振り向いた気配を感じ、瞳を閉じたままでアスミタは微笑んだ。
問題ないとは言いつつも、握られた手は離されぬようしっかりと握り返す。
そのまま少しだけ彼の手を引っ張った。
振り返って、どうした、と訊ねるその頬へアスミタは手を伸ばした。
濡れた頬を包むように触れて、今度は触れ過ぎないよう直ぐに離す。
名残惜しそうに離れる指先を宙でしばらく漂わせ、アスミタは瞼と口を開いた。

「抱き締めてくれるか」

人の温もりが恋しいから。
告げられた台詞に、デフテロスが息を呑む気配を感じ取る。
されどアスミタは貌を崩すことなく、ただ一つ繋がっている握られた掌を離さずに待つ。
やがて来る全身を包む温もりを知っている。

「・・・お前にそんな台詞は似合わない」

自分が縋っているのか、縋られているのか。
耳元で囁かれた言葉を胸の中で反芻しながら、アスミタはその背にそっと腕を伸ばした。
溢れるばかりで掬われる事のない、その感情の名前はまだ思い出せない。


[fin.]


  

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