sweet | ナノ

※臨也が高校生


ぴりりりり。鼓膜を刺激する呼び出し音に意識が浮上した。ぼんやりと霞みがかった目で辺りを見回すと臨也がベットに座り込んで本を読んでいる。ようやく自分が眠っていた事に気付いた。
メール受信のランプが点滅する携帯を開く。内容は同僚からで、今日の午後仕事に入れないか、といったものだった。構わないと返信する。

「臨也、悪いけど仕事が入った」

声を掛けると文字を追う瞳がこちらに向けられた。えーやだよせっかくドタチン休みだと思ってたのにー。ぱちぱちと瞬きをして口を尖らせる。
何気なくヘッドボードに目をやると、彼がすこし前に買ってきたバニラアイスが見えた。なぜか手をつけられていないそれが、どろどろに溶けている様にため息をつく。

「どうして食べないんだ、それ」
「んー?なんか面倒くさくなっちゃって」
「意味がわからん。片付けるぞ」
「いーよ」

わざわざガラスの器に盛られていたはずのアイスクリームは見る影も無く、そっと持ち上げると白い水面にさざ波が立った。中央にミントの葉が控えめに浮かんでいる。器用な臨也は、一つ百円のカップアイスですら美しく皿に乗せる事ができた。

「買った時はあんなに食べたかったのに、不思議だよね」

ついさっきまで器があったところへ細い指が置かれ、使われる事の無かった銀のスプーンの背をそっとなぞる。温くなったバニラに視線すら与えず言い放つ横顔が、あんまりに綺麗だったからだろうか。彼の言葉はひどく残酷に響いた。
スプーンの無機質な曲線は臨也の体温を音もなく奪っていく。思わず見つめた真赤の瞳は伏せられて、自然と視線は頬へと移った。今まで幾度となく目にした白い頬。耳のしたから顎の先までのしなやかなラインはもうホイップド・クリームのような甘さを孕んでおらず、彼と過ごした八年間を感じさせる。

「宿題は終わったのか?」
「ちゃんとやったよ。ドタチンが寝てる間に」

小さい時から習慣化しているのか臨也は俺がいる日はいつもこの家に入り浸る。居るだけで何もしない姿を見兼ねて宿題をさせているが、与えられた課題をすらすらとこなす様子からは正直その必要性は感じられなかった。
0.3ミリのHBで綴られた文字は一連の数式となってノートを埋めている。難解なそれは整った彼の字と相まっていっそ神聖に見えた。

「腹減ったら、台所に昨日のカレーが残ってるから勝手に食べろよ」
「…にんじん、細かく切ってくれた?」
「ああ」
「じゃあ食べる」

だがしかし困ったことに、臨也の野菜嫌いは未だに直っていなかった。特に人参は苦手で、味が分からなくなるくらいに小さくしないと食べてくれない。あんなに美しい文字を書くくせに、こういう所はまだ子供っぽいのだ。

「ほら、もう行くからお前も帰れ」
「えー」
「えー、じゃない。ほら」

バニラの器を横に置くと、机に広がるノートとペンを集めてべッドに座った膝に置いてやる。しぶしぶといった表情でそれを受け取った臨也だったが、思いついたようにあ、と声を上げた。なにか嫌な予感がする。

「ね、ドタチン」
「…どうした」

ゆっくりと視線が上へと動き薄い唇が弧を描く。腕が伸ばされて服の裾が引っ張られた。座ったまま俺に身体を寄せると、ノートが床に落ちてばさりと音を立てる。

「いってらっしゃいの、ちゅーがしたいな」

黒い髪が一房、白い額を滑り落ちた。的中だ。あの頃とは全く違う上目遣いにくらくら目眩がする。だめなの?と首を傾げる姿は幼いが、その眦には高校生とは思えない色気が漂っていた。ああ、少し前に子供っぽいと思ったばかりなのに。

「前から思ってたが、お前はちょっとスキンシップが過ぎるな」
「こんなことするの、ドタチンだけだってば」

言うやいなや腕を強く引かれてベットに倒れ込んだ。一拍遅れてスプリングが軋む。ぐっと近づいた赤の瞳が細められて、ともすれば鼻先が触れてしまいそうだった。仄かに漂うバニラ。波打つ白いシーツに黒髪はよく映えていた。詩でも諳んじるように唇が動く。

「ドタチンだけだよ」

目眩。子供だったはずの臨也が、全力で、落としにかかってくる。果たしてこいつの声はこんなに甘かっただろうか。
ランドセルを背負って飛び跳ねていた頃は純真の化身のようだったのに、育て方を間違えたのかもしれない。
こつん、額を合わせる。臨也の、俺よりも少しだけ高い体温を感じると身体を離した。

「ちゅーは?」
「しない」

置きっぱなしにされていたアイスを手に取って部屋を出る。ドアを閉める直前に、けちーと言う声が聞こえた。何がケチだ。


年季の入ったフローリングはくすんで冷たい。流れた時間で彼が失ったものと手に入れたもの。それらをはっきりと示す事ができたなら天秤はどちらに傾くのだろう。俺には分からない。あたたかな、よく知った体温を裁くには些か近すぎた。バニラの香りが鼻をつく。

手の中で揺れる白は純白とは程遠い。だがそれがどうしたというのだ。俺は約束したのだ。遠い昔、繋いだ手だけが鮮明な、もう覚えていない景色の中で。
ずっと、ずっと一緒だと。




Dear my sweet?