兎追い | ナノ


皮張りのソファーに身を沈める。時計の秒針が音もなくまわって、長針にぴたりと重なり、離れた。すっかり宵に浸かった窓辺につりさがったモビールが、部屋の明かりを反射してちらちらと光る。
ぼんやりと通りすぎていくテレビの音声に混じって、ひゅうっと、息を吸い込む音がした。

「臨也!」
「はぁっはっーはーっはぁっー」

隣に座った彼の手のなかからリモコンが滑りおちる。あわててダイニングまで駆けていき(彼の部屋は無駄に広い)、ラックに置かれた紙袋を手に取った。ソファーまで戻り、薄いからだを二つ折りにして荒い呼吸を繰りかえす臨也に差し出す。が、彼はいやいやと頭を振ってそれを拒絶してしまった。

「はっはぁっいら、なっ」
「いいから使え、ほら」

どんどんはやく不規則になっていく呼吸に見ている方が不安になる。どうにかしたくて、嫌がる鼻先にそれをずい、と持っていくと、ぴしゃりと手の甲を叩かれた。はずみで紙袋が手を離れ、床に落ちる。

「…おい」
「はっ、はぁっ、いらなっ…てはーっはぁーっいってる、で、しょっ…ひゅっ」

そう言われてしまえばどうすることもできず、門田は黙って臨也の背をさすった。打たれた甲が、ひりひりと傷みを訴えている。

臨也がこんなことになるのは珍しい事ではない。月に二、三度か、それ以上の頻度で彼はこうやって苦しげに息をする。酷いときには目眩をおこして意識も遠のく。それだけではない。最近では不機嫌をあらわにする事が増え、門田に攻撃的な言動をとることも少なくなかった。

「はぁっ、はあ」
「大丈夫か」

二十分ほど経ったころに、臨也の呼吸は落ちついた。そろそろ良いかとさする手を止めると、伏せられていた顔がゆっくりとあげられる。赤みとか、柔らかさとかをはぎ落としてしまったような頬がこちらを向いた。緩くその口角が持ちあがる。

「君のせいだ」

落ちたリモコンを拾ってテーブルに置いた。テレビの向こう側ではアナウンサーがニュースを次から次へと読み上げている。この世界では、だれかに伝えるべきことが秒刻みで起こっているのだ。飽きもせずに。臨也はひと差し指をこちらに向けて、まるで画面の向こう側の彼らのように、万人に知らしめるように言った。

「君のせいだよ、ドタチン」


月に二、三度か、それ以上の頻度で彼はこうやって苦しげに息をする。酷いときには目眩をおこして意識も遠のく。しかし、それだけではない。

いつからこうなったのかは分からない。もしかしたら初めからだったのかもしれないし、或いは誰も気づかぬうちに緩慢と始まったのかもしれなかった。ブラックのコーヒーが飲めるようになるとか、つくり笑いを覚えていくとか、それぐらいしずかに。

「おれは今日疲れてたんだよドタチン。なのに君がニュースなんてつけるから。余計に疲れたんだ。嫌になったんだよ」

折原臨也は、門田相手にわがままを言うようになった。あれが欲しい。あれが食べたい。どこそこまで連れていってほしい。それはやめて。まるで子供が駄々をこねるように、無理難題を押しつける。機嫌を損ねて門田をなじる。
一度その様子を新羅に見られて、ひどく驚かれたことがあった。あんなことを言われて、よく一緒にいられるね。あの時自分は何と言ったか。笑って受け流しただろうか。臨也の不安定さは日に日に増していく。薄い氷のように。皮一枚の笑いのように。

「帰って」

そう言って臨也は立ち上がった。

「もう帰って」

座ったままで臨也を見上げる。硝子玉の瞳で、臨也はこちらを見ていた。ぺかりと明かりが反射する。これ以上何か言えばナイフで切りつけられるだろう。現に門田の腕にはうっすらと消えかかった切り傷がいくつかついていた。

「わかった」

足元に倒していたバックを持って、テーブルの上に置いてあった本をしまう。今日はまだマシな方だった。ヒステリックにまくし立てられることもなければ、リモコンやらクッションやらが飛んでくることもない。あれは結構痛いのだ。
ソファーを立ってドアに向かう。フローリングの上で、かつりかつりと靴が鳴った。この家は土足だ。彼自身は決して他人を内側に招き入れようとしないくせに。ノブに手をかけたところで、後ろから声がかかった。

「ドタチン」

振り返ると、臨也がテーブルの側に立っている。それから、その上に乗っていた丸い時計を掴み、投げた。うっすら予想はついていたので、まっすぐにこちらへ飛んでくる時計を片手でつかむ。てのひらに重い衝撃が走った。

「物は大切にしろよ」

今あるいてきた床を引き返して、テーブルに寄りかかる彼に時計を渡す。黙って手をだした臨也は、すこしばかり残念そうな顔をしていた。門田に当たらなかったからか、それとも。残念そうなままで臨也が言った。

「ドタチンはやさしいんだね」


わざとなんだろう。喉元まで競り上がった言葉をのみこんだ。ちょっとしたことで過呼吸になるのも、感情的に当たり散らすのも、門田を苛立たせるようなことをするのも、全部。わざとなんだろう。

「お前は本当に人間が好きだな」

折原臨也は、人間を愛する男である。探って、潜って、深いところまで知ってしまおうとする。例えば愛情。例えば温情。

「うん」

例えば、人はどこまで人を愛せるか。例えば、人はどこで人を見放すか。門田が臨也を見放すのはいつか。何をしたら、門田の線を越えられるのか。馬鹿なことをする。

「じゃあな、また」

腐りかけた橋をわたるようだと思う。一歩踏みだして、まだ大丈夫、まだいけると安心している。そこで止めればいいのに、こいつはまだ進もうとするのだ。いつかは板を踏み抜いて、まっさかさまに落ちるとわかっていながら。落ちたら今度こそひとりきりだろう。
門田は臨也を止められない。ほんとうはひとりになりたくなんてないんだろうと言っても、彼は認めないだろう。エスカレートしていく行動。ひとを愛する病。人にその感情を与え続けなければ、彼は死んでしまうのではないだろうか。もしかしたらそれは、ひとに愛されなかった結果なのかもしれない。歪んだ心ができたきっかけ。
愛してる愛してるあいしてる愛してるあいしてる愛してる愛してる愛してる愛してるあいしてる愛してるあいしてる愛してる愛してるあいしてる愛してるあいしてるあいしてるあいしてる愛してるあいしてる愛してるあいしてるあいしてる愛してる愛してるあいしてる!愛してる!だからねえだれか、おれを愛して頂戴?
愛したのが先か、愛されなかったのが先か。彼の愛は、何ひとつ跳ね返ってきていないというのに。


「…うん。またね」

臨也からその病をとりあげることなどできはしない。こんな茶番は終いにしようと、言えないのならせめて彼を愛そうと思う。すぶずぶと沈んで深みにはまっていく彼が、ひとりにならずに済むのなら。
ぽつりと光るルビーのような瞳を見つめた。宝石のように真っ赤で、無機質さをともなう瞳。わざわざこんな面倒なことばかりして傷つくばかりで、それでも彼から離れられないのは、彼と同じくらいに門田自身が蝕まれ始めているからかもしれなかった。ふたりっきりで、手の鳴る方へ。後を追って穴に飛び込んだら、もう戻れないのだろう。

悪い夢から、醒めるまで。


シロウサギを追いかけて



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