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バスタブの中で星が泳ぐ。それを見つめることもせずに、門田の胸にぺったりと背中をつけてまどろみに目を閉じていた臨也が、とつぜんに呟いた。

「海にいきたいな」

声は浴室のタイル壁に吸い込まれる。しっとりと濡れた黒髪に頬を寄せると、その薄いまぶたが持ち上がった。彼は、自分と同じ石鹸の匂いがする。

「日本海がいいよ」
「そうか」
「電車に乗って、知らない町で降りてさあ、ずうっと砂浜を歩こう」
「そうだな」
「寒いほうがいいね。ドタチンはどう思う?」
「俺は暖かいほうがいいな」

みじかい髪を指で梳く。左右する腕の動きに合わせて湯の表面が波をつくった。乳白色の湯に明かりが落ちる。星になる。揺れる電車を想像した。静かな駅を歩く。指のあいだにくっつく砂、北の海の、灰色の波が彼の足首をさらうように寄せた。潮の風が鼻をくすぐる。二人っきりの、幻。

はあと息を吐いて、臨也は湯を弾いた。ぴちゃり。円がひろがる。それだけで、うそのように幻は消えてしまった。

髪から首筋にかけて、ゆっくりと水滴が流れ落ちる。すぐ目の前に白いうなじがあった。さっきの幻をそのまま描き写してみたくなるような、あまねく滑らかな白さである。そこに触れようとして、肘が浴槽のふちにぶつかる。男ふたりが入るにはこの空間は少し窮屈だ(しかしそれは重要ではない。広い場所でも臨也はできるだけ近くにいようとする)。肘の痛みを紛らわすように、無造作に投げだされた肢体を抱いた。


「あとは」

ぼんやりとどこかを見つめたままで臨也が言う。門田にもたせ掛けていた、まあるい頭を肩に擦りつけた。彼の髪からは、グレープフルーツのような匂いがする。

「お祭りにもいこうね」

乳白色がちゃぷりと音をたてる。臨也が身をよじって、門田の顔を見た。口元がゆるく弧を描いている。そのとたんに耳の奥で祭り囃子が鳴るようだった。笛と太鼓と、さざめく笑い声。

「ドタチンは浴衣着てきてよ。俺、お祭り好きだから。何もしないでさ、一緒に歩こう」
「何もしないのか?」
「うん。歩くだけで十分だし」
「綿飴は?」
「食べるよ」
「林檎飴は?」
「それも食べる」
「何かしてるじゃないか」

抱きしめる腕に力をこめると、臨也はふふふ、と笑った。右手で彼の前髪を払って、白い額に口づける。身体の内側は、まだ祭り囃子が反響していた。
臨也が彼の頭の中にあるいろいろな言葉を口にするとき、それはたちまち幻となって門田の目の前にあらわれる。不思議なことだが、身体いっぱいに彼の考えているものが広がっていくのだ。

「花火はいいのか?」
「打ち上がるやつ?」
「ああ」
「そっちより、二人でできるやつの方がいいよ」
「俺もそう思う」

たとえるならば胸底の共鳴。鏡映。共生。バスタブに映った星と同じくらい鮮やかに、門田の目には祭が浮かんだ。色とりどりのかき氷。炭火焼きの煙、からころと下駄の鳴る音。呼び声、食べ物の匂い、並んだ屋台、砂ぼこり、誰かの汗、すれ違う少女達の、浴衣に跳ねる金魚。浅い宵をはやすように行き交う人々の中で、門田は見失わないように臨也の手をにぎる。

「覚えてる?」

ずっと門田の目をのぞき込んだままだった臨也が言った。なんのことか分からずにきょとんとしていると、ドタチンま抜けな顔してるよと指を差してまたふふふ、と笑う。今日の彼はよく笑った。

「高校のときにさ、みんなで花火したの」
「…ああ、そんなこともあったな」

思いあたって頷く。あの頃はまだ花火をひとつひとつばらで売っている店があったのだ。ぎゃいぎゃいと騒ぎながらそれぞれ花火を選んで、学校のグラウンドにこっそり忍び込んでそれをやった。途中で喧嘩し始めた臨也と静雄がおたがいに火を向け合うものだから、新羅といっしょに慌てて止めたことを覚えている。
そういえば、自分で花火をしたのはあの時が最後だった。そう思うと途端にあの頃が懐かしくなる。臨也がぐっと目を細める。門田と同じことを考えたのかもしれない。

「あれ、またやろうよ」
「そうだな」

ぶるり、と身をふるわせる。ぬるま湯が寒い。空気にさらされ続けていた肩は乾き始めていた。臨也の右手が湯の上をすべる。きらきらと水面が割れて、そこにまた波が押し寄せる。たぶんいま、臨也の眼にはこのバスタブと同じように星が映っているのだろうが、確かめるのは止めておいた。今日はもういい。彼のことをここで全部知ってしまうのは、なんだか勿体ない気がする。

「ねずみ花火いっぱい用意してさ、シズちゃんにぶつけよう」
「それはやめとけ」

額に唇をつけたまま諌めると、臨也はくすぐったそうに身をよじった。ちゃぷり、波が立ち、ふちにあたって砕ける。

「花火、きっとだよ」
「ああ」

すっかりぬるくなった湯をてのひらに掬う。彼らを誘う前に、臨也とふたりでするのも悪くないかもしれない。湯はこぼて、臨也の肩にかかった。きらめき。門田は星を腕に抱いた。まったくもって、悪くない。
もう一度髪に頬を寄せて、今度は唇にキスをしようとしたところで、臨也が唐突に身体を離した。

「今から買いに行く?」
「…何をだ?」
「花火」

これからいちゃいちゃするつもりだったせいで、上手く彼の言葉が飲み込めない。呆気に取られる門田をよそに、臨也はするりと腕から抜け出した。この二人だけの空間にはいま誰も割りこんでほしくなかったのに、どうしてそんなことを言うのか。

「シズちゃんと新羅呼んでさあ、今すぐやろうよ。場所はどこがいい?」

門田が残念がっているのを見て、臨也は浴槽のふちに手をかけ悪戯っぽく笑う。そこでやっと分かった。確信犯だ。

「嫌だね」

それなら期待通り挑発に乗ってやろう。湯から上がろうとする臨也を正面から抱き寄せた。きゃーとふざけた声をあげて、ぱしゃぱしゃと湯を跳ねあげる足をからめた。それからキスをする。

なんども触れるだけのそれを繰り返していると、臨也の両手が門田の頬にそえられる。それを合図に無防備な下唇を甘く噛んだ。二人でいる時、門田と臨也はいつも無防備になる。とっくの昔にすべてを与えあっているというのに、いまさら何を守るというのだ。

「……はっ」

右手で臨也の頭をささえる。合間にはきだした呼吸をつかまえて、吐息までもを愛撫するように唇をあわせた。
キスは勝負と同じだ。すき間なく埋めて、貪欲にうばって、そうして何もかもを与えあう。このまま木っ端みじんになってしまえばいいとさえ、思う。
先に音を上げたのは臨也だった。

「わかった、わかったって。花火は二人でしよう」

両手で門田の胸を押して、笑いだしそうな顔をして言う。門田はよく互いの我が儘をかけたこの勝負に「降参して」やるのだが、こればっかりは負けるわけにはいかなかった。ので、満足した。

「お祭りに行こう」

臨也が言った。

「お祭りのあとで花火をしよう」
「日本海で?」
「それはもういいよ」

腕をのばしてシャワーのコックを捻る。バスタブのふちがばかみたいに冷たい。湯はすっかりぬるくなっていて、このままでは二人とも風邪をひきそうだった。
シャワーから吐き出される水がすっかり熱くなると、それを掴んで臨也にかけた。頭から熱い湯を被った臨也は、ふぎゃ、と猫のような声をあげて慌てて浴槽の外へでた。突然何をするのか、とでもいいたげな眼でこっちを見ているのが面白くて、喉の奥で笑う。実際、そのすぐ後に彼は言った。いきなり何するの!

「はやく身体を拭いて、パジャマを着て、ベットにいって、さっさと寝ないと風邪ひくぞ」

そう言って手に持ったシャワーを左右に振ると、臨也は分かってるよ、と口を尖らせた。絶え間なくそそがれるシャワーがバスタブの湯とぶつかって、水面がぐらぐら動く。あんまりに揺れるので、あとからあとから星ができた。ぐるぐる渦巻いて、まるで銀河のように。

「ねえ、ドタチン。お祭りはずっと遠いところに連れてってよ。誰ひとりおれ達を知らないようなところに」

臨也はそう言うと、門田からシャワーを取り上げて栓を閉めた。ざーっという音が消えて浴室が急に静かになる。

「二人きりでずっといようね」
「ああ」
「本当に?本当にそう思ってる?」

約束というのは、選ぶことだ。星の数ほどの可能性の中から一つの未来を拾いあげることだ。
彼と生きる未来を。

「思ってるよ」
「誓ってくれる?」
「ああ、誓う」
「何に誓うの?」

臨也が門田の顔を覗きこんだ。はやくあがらないと湯冷めすると分かっていても、門田はその身体を抱き寄せずにはいられない。

「銀河に」

銀河に誓う。と言うと、臨也はふふふ、と笑った。

「分かった。銀河に誓おう。おれはドタチンと一緒にいるよ」


幸福だと思う。一緒に祭に行くことも、一緒に花火をすることも、このあと揃いのパジャマを着て、ひとつのベットで眠るであろうことも。掬い上げた秒きざみの瞬間全部がきらきらと輝いていた。
そうまるで、アンドロメダに散らばる星みたいに。



ある真夜中のはなし