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臨也が来る日は決まって雨が降る。

ダイニングテーブルに肘をついて、ぼんやりとパルメザン・チーズのふたを開け閉めしている臨也を見ながら、門田はそう思った。もちろん彼がくるから降るわけではなく、彼が雨の降った日を選んでこの部屋にくるのだが、わかっていても門田には臨也が雨を連れてきているように思えた。

だから彼がだらだらしている今日は当然、雨だ。雨粒はぱらぱらと落ちてきて、窓ガラスにぶつかり跳ね返っている。冷蔵庫から麦茶を出して、コップといっしょにテーブルに置いた。窓越しに空を仰ぐ。降ってはいるものの雲はあかるい。そのせいか、あの雨の日独特の憂うつさは感じなかった。
フライパンの火を止める。つけっぱなしにしていたテレビから、「笑っていいとも」のテーマ曲が聞こえた。正午だ。あの番組は恐ろしく中身が無いが、ぼうっと見ているうちに確実に午後の最初の一時間を奪ってしまう。危険なので電源を切ることにした。ぷつん。静かになった部屋に、臨也がチーズのふたを開け閉めする音だけが響く。ぱちん、ぱちん。
ベーコンのにおいが香ばしい。食器棚からふたつ、皿を出した。


臨也は月に一度か二度くらいの頻度で、ふらりと門田の部屋を訪れる。午前のうちに来てだらだらと時間を潰し、数時間後にはまたふらりと帰ってしまう。昼食は、食べたり食べなかったりする。どうして来るのか、何がしたいのかはよく分からないが、どうせ臨也のすることだしそれ程迷惑にもなっていないので門田は放っておくことにしていた。そして、そんな日には決まって雨が降る。

できあがったナポリタンをテーブルに運ぶ。臨也はありがと、とひとこと言うと、ばさばさとチーズを振りかけた。

「昼から仕事が入ってるんだが、どうする」
「これ食べたら帰るよ」

どんな時でも、誰かと食べるのはいいことだ。パスタを口に入れる。臨也が嫌がるからとピーマンはいれなかったが、あの苦みがないとやっぱりもの足りない。会話のない食事のようなものか。カリカリに焼けたベーコンを、フォークでつき刺した。
ナポリタンは、いつでもなつかしい味がする。


「今日はどこに行くの」
「二丁目の新しく建ったビル、わかるか?」
「ああ、知ってるよ」

甘いトマトケチャップ。たまねぎ。特に子供の頃たくさん食べたというわけではないが、やっぱりなつかしい。向かい合う臨也を見た。たとえナポリタンを食べていても、彼はいつでもあたらしい。一歩先を歩いているようだ。遠いようにみえて手を伸ばせば届きそうな一歩を。その距離は門田にとって心地好かった。臨也もそうであればいいと思う。

「ごちそうさまでした」

手を合わせて臨也が言う。その日はそれでさよならだった。いつもの事だ。



臨也は毎回コーヒーを残していく。というか、いれただけで満足するらしい。もう癖のようなもので、門田の部屋に来るたびにまずドリップコーヒーをいれる。ぽたりぽたりと落ちる雫を見つめて、ある程度たまったら氷水で冷やす。温かかったそれがすっかりアイスコーヒーになった所でグラスにそそぎ、一口飲んで、テーブルに置く。
それでもう彼のコーヒーへの興味は無くなってしまう。だからいつも彼の帰った後にはなみなみとグラスにつがれたコーヒーが残されていて、つくづく勿体ないやつだと思う。

こんなこともあった。
ある時臨也は、無造作に机に投げたされていた本を適当に開いたページから読みはじめた。そんな読み方で内容がわかるのかと思っていたら、しばらくすると途中で読むのを止めてしまう。それっきりその本は閉じられたままだった。そんな事が何度かあって、どうしてかと気になって尋ねると「結末があるなんてつまんないでしょ」と言われた。「人生の結末だってわからないのに」とも言っていた。彼はやはり理解できそうにない。


「また雨だねえ」

読んでいた本を途中でぱたりと閉じて、臨也は窓の外を見つめた。ここのところよく雨が続いていて、そのせいか彼も頻繁に顔をみせる。


「晴れてる方が好きだな。雨は憂鬱になるよ」

そう言って立ちあがる。憂うつな日にわざわざ会いにくるということが、臨也にとってどれくらいの意味を持つのか、門田はわかっているつもりだ。だからといって自分ではどうもしない。初めて門田に話しかけたのも、いつの間にかこの部屋を訪れるようになったのも、能動的なのはいつも臨也の方だった。
臨也は立ったまま腕を組んで、きょろきょろと辺りを見回す。

「何かゲームしたいな。ドタチンの家、なんかないの?」
「何かって…どういうのだ?」
「なんでもいいよ。テレビゲームでもボードゲームでも、トランプでもいい」

あいにく門田の家にそんなものはなかった。それを告げると、「じゃあ今度持ってくるね」と笑った。彼が暇を持て余すなんて珍しい。二人は、この部屋でいつでもひとりひとりを過ごしていた。腕をほどく。雰囲気から察するに今日はもう帰るらしい。二人分のサラダを用意するべきか迷っていた門田は、器をひとつ、棚に戻した。


学生時代、屋上に立った臨也がグラウンドを見下ろして、魚の群れみたいだといった事がある。見ればどこかのクラスがマラソンをしていて、生徒達がぞろぞろと連なって走る様子はなる程それに見えなくもない。門田は以前テレビで見た、イワシの群れを思い出した。
その日は晴れていた。クジラのような大きな雲が、ゆったりと青空を横切っていた。地面にイワシで空にクジラなら、水面はどちらだろうと、考えたことを覚えている。

ばさり、と臨也がコートを羽織る。窓の外ではまだ雨の音がしていた。どうして今さらそんな昔の事を思い出したのか。この部屋で暇を持て余す臨也が、酸素を欲しているように見えたからか。浮かぶでもなく沈むでもない場所に、息苦しくなって。
もしかしたら、こいつはこの関係を変えたいのかもしれない。そう思ったが、口には出さなかった。この距離を崩すべきなのか、門田にはわからない。踏み出すのはいつも臨也だ。


「ねえドタチン、太陽がでてるのに雨が降るのをどういうか知ってる?」

玄関で靴をはきながら、臨也がたずねた。知らなかったので首を横にふる。

「狐の嫁入りっていうんだって」

じゃあねと言って、門田に背を向ける。うまく嘘をつくという点では彼は狐にそっくりだ。ドアを開けて、臨也は紺色の傘をさした。臨也と傘、というのはあまり結びつかない。なんというか、彼は土砂降りでもわざと傘をたたんでしまうような気がしていた。
ドアが閉まる。かちゃり。その音を最後に、門田はひとりになった。ひとりきりの昼食は、少し淋しい。



「傘もってくるの、忘れちゃった」

止むかなと思ってたんだけど、と言って臨也は椅子を立った。まばらに降る雨が窓を濡らしている。晴れと雨のあいだのような天気が今朝から続いていた。

帰るのか。初めて、そう声をかけた。ここしばらくは晴れた日が続いていたから、彼に会うのも久しぶりだった。今日も臨也はコーヒーを残して、本を途中で諦めている。昼飯は食べなかった。
コートを着た臨也が振り返る。

「帰らないでほしい?」

臨也は曖昧に笑って、逆に聞き返した。純粋に答えを欲しがる瞳がこちらを見ている。彼がどちらを望んでいるのか、門田には分からなかった。このままの距離がいいのか、それとも引き留めたいのか。しばらく考えてから、ゆっくりと言い聞かせるように口をひらく。

「お前の好きなようにすればいい」

それを聞いて、一瞬、臨也は傷ついたような顔をした。その表情はすぐに引っ込められたが、門田は見逃さなかった。え、と思う。え、どっちがいいんだ。

「なら、帰るよ」

何とも思っていない普通の表情でそう言って、くるりと門田に背を向けた。まるで帰る以外の選択肢が思いつかないというように、引き止めるなどありえないようにドアノブを握る。狐だ、と思った。かちゃり、ばたん。
静かな部屋で目を閉じた。もしかして、臨也は門田に選んでほしかったのだろうか。帰るよ、と言ったときの顔。踏み出すのはいつも臨也だった。扉の向こうに消えた背中を描く。なぜだか自分がひどく残酷に感じた。

リビングに戻ると、テーブルにまたコーヒーがぽつねんと置かれていた。つけっぱなしのテレビから、正午を知らせる番組が始まる。臨也が門田の部屋でこの番組を最後までみたことは一度もなかった。沈黙をまもるコーヒーを手にとって、一口飲む。濃くておいしかった。
不意に、こんなおいしい物を残していくのは彼にとって損だと分かった。思ったのではない。決然と、分かったのだ。飲みさしのコーヒーも、軽く引かれたままの椅子も、終わりまでたどり着かない本も、全部ぜんぶ駄目だと分かった。帰らないでほしいと、思った。

まだ間に合うだろうか。衝動的に家を飛び出した。間に合ってほしい。雨つぶが額に触れる。あちこちに視線をすべらせて、見慣れたコートを探す。すれ違った知り合いがおどろいたように声をかけてきたが、構っている暇はなかった。横断歩道の先に目をこらす。
見つけた。信号がかわると同時に走りだす。人の間を泳ぐようにすり抜けていく痩身に追いついて、腕を掴んだ。臨也が振り向く。
間に合った。ああよかった。ぜいぜいと息を乱した門田を見て、臨也はびっくりした顔をした。雨が頬に水滴をつくる。向かいあった門田にもそれは落ちてきて、すぐにおなじになった。びっくりした顔のまま、臨也が口を開く。どうして。

「お前を――」

引き留めにきた。頬をぬらしたまま言うと、臨也は目を丸くしたまま二回ほどまばたきをして、そっか、とだけ言った。もう一度、こんどは真面目な顔にもどってそっかと呟く。それから、その白い、端正な顔にゆっくりと笑みが広がった。

「なら、帰るよ」

きみのいえに。


まだ雨は止まないからと、近くにあったコンビニに入ってビニール傘を買った。既にふたりの肩はすっかり濡れてしまっていたけど、そんなことはどうでもよかった。門田がたくさん並んだそれらに手を伸ばすと、いちばん透明なやつにしてねと臨也が言った。門田はどれも同じじゃないのか、と思ったがやっぱりそんなことはどうでもいいことだった。
ひとつの傘にふたりで入る。一本五百円のそれは大人二人には少し狭くて、門田の肩がはみ出した。臨也はというと子供のようにくるくると柄を回しながらしきりに上を見上げている。つられて門田も見る。透明なビニール越しに、まだらに晴れた空があった。狐。そういえば雨の日に空を見上げたのは初めてかもしれない。次々に水滴が降ってきて、傘のてっぺんではじけた。雨の日の空は綺麗だった。いちばん透明なやつにしてね。
上を見て歩いていたせいで、臨也が前につんのめった。門田は笑いながら視線を戻し、その腕をひっぱる。



部屋の前で傘をたたむ。半開きになっているドアに苦笑がこぼれた。まったくらしくなくあわてていたのだ。正午。ドアを開ける。ただいま、と臨也が言った。






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