好きなら | ナノ



トマト 向日葵 カシオペア


「臨也、おい起きろ」

クラスメイト達がそれぞれ話しながら教室を出ていく中、一人机に突っ伏して眠る彼に声をかける。聞こえているのかいないのか全くの無反応だ。仕方ないので教科書を小脇に抱えてその肩を揺すると、うーんと寝起きの声とともにゆっくりと顔を上げた。

「ほら、次音楽だぞ。いつまでも寝てるんじゃない」
「うー…」

撫でるような調子で軽く頭を叩く。とろん、と半分しか開いていない目で俺の顔と教科書を交互に見た臨也は、しかしまた腕に顔を埋ずめてしまった。

「さぼる…」
「おいこら臨也、おい!」

ぱしんと後頭部をぶっても、あーとかうーとかの生返事しか返ってこない。こうなってしまえばもう何を言っても無駄だとよく分かっている門田は、ため息をつくとずり落ちた教科書を抱え直した。見回すと他の生徒達はもう出てしまったらしく、教卓の上にぽつねんと部屋の鍵が置かれてあるだけだった。はたしてこれは閉めていくべきなのか。盗難の防止の為に移動時に施錠するのはクラスの決まりなのだが、臨也を中に残したまま鍵を閉めるのは気が引ける。かといって開けっ放しは良くない。悩んでもう一度、今度は深い深いため息をついた。他の人ならばこんな時さっさと閉めて行ってしまうのだろう。きっと、そんな事を考えるのは自分だけなのだ。
ちら、と微動だにしない頭を見遣る。放っていこう。そう思って、何気なく視線を彼の腕の下敷きになっているノートへと滑らせた。これまでの授業も寝ていたから当然だが、ほぼ真っ白だ。そんな中で唯一端に何か小さく書いてあるのが目についた。興味をそそられて覗き込む。

トマト、向日葵、カシオペア。紙にはそう書いてあった。何だろうと首を捻ったところで、チャイムが鳴る。ああもう、どうにでもなれ。


音楽はこれまでちゃんと出席していたし、遅れて行くのも面倒だし。適当に理由を作りながら臨也の前の席に座る。もう一度ノートを覗いた。トマト、向日葵、カシオペア。逆さまから見ても、やっぱりそう書いてある。関係のなさげな言葉に小首を傾げた。さっきは天体授業だったから、教科書には有名な星がたくさん並べられていた。別段それについて特別に教師が話していた覚えはないが、カシオペアはきっとそこから来たのだろう。では向日葵はどうだろう。トマトは。

臨也の思考は飛び飛びで、外から見ている分にはついて行けない事も多い。立ち上がって窓を開けた。途端に風が吹き込み、誰かのノートがぱらぱらとめくれる。見上げた空にはぽっかりと白い雲が浮かんでいた。初夏、というのはいいものだ。一番透き通った、気持ちのいい季節だと思う。初夏。小さく声に出してみる。嬉しいような、くすぐったいような感覚だった。青春、ともほんの少し似ている。
春のくせに、と静雄は言うだろうか。夏なのに春とか、訳分かんねえ。思わず笑みが零れた。一際強い風が吹いて、前髪が額に落ちる。臨也はきっと真面目な顔でそれを聞いて、そのあとにっこり笑うのだろう。前髪を払った。そうだね、ドタチン。

今週の日曜日、臨也は静雄の家に行くそうだ。なんでも静雄が先日女生徒から告白されたのを知った臨也が慌てて約束を取り付けたらしい。彼の力を恐れず、さらに断られても諦めない気の強い少女の出現に臨也は面白いくらいに動揺していた。女は寄って来ないから安心だと思ってたのに、という何ともに失礼な事を口走り、そんな女は首を掻き切ってやるから!と叫んだのには門田も呆れてしまった。嫉妬にしたって随分と重い愛情だ。突飛な発想という点では門田は未だに彼を理解できない。
眠ったままの臨也を見る。青春。厳しい夏も、甘い春も手にしたいと思うのは欲張りだろうか。

「そんなに焦るんならさっさと告白でもすればいいのにな」

静雄はいいやつだ。理不尽な暴力は絶対に奮わないし、臨也と追いかけっこをしている時を除けばむしろ優しい気性をしている。彼なら臨也も……と考えて、これでは丸っきり男親の心境じゃないかと苦笑した。こんな考え方をしていれば、今はべたべたと引っ付いてくる臨也もいつか俺を厭うようになってしまうんだろうか。ふと不安になる。静雄と臨也と、静雄に告白した哀れな少女。メロドラマのような展開になりつつある彼らを門田は何とも言えない気持ちで見守っていた。初夏は厳しい暑さへと向かう。トマト、向日葵、カシオペア。子というものは、得てして親の知らない間に成長するものだ。


これがもし、と門田は思う。これがもし、トマト、キャベツ、ひき肉と書いてあったなら、或いはオリオン、シリウス、カシオペアでも構わない。それなら自分は、こんなにも彼を気にかける事は無かっただろう。トマト、向日葵、カシオペア。これだからいけないのだ。三つの単語は紙端から浮き上がり、風に乗って門田の周りをぐるぐる回る。なんの繋がりも無いそれらは今にもばらばらとくずれてしまいそうで、その不安定さは臨也とよく似ていた。彼は一体どんな顔でこれを書いたのだろう。星々の中でカシオペアが彼の心を奪ったように、その薄い筆跡は門田を惹きつけた。

日曜日。臨也が、静雄の為にトマトを切る所を想像する。
まな板の上に置かれた真っ赤なトマト。夏の光を浴びて水滴が輝き、すぐ側の窓辺の花瓶には向日葵が一輪だけ咲いている。みずみずしい、ぴんと張った皮を彼の手が押さえた。綺麗に切り揃えられた桜色の爪。静かに包丁が入り、二つに分かれたトマトからは果汁が溢れて彼の指先を濡らすのだ。その綺麗な一瞬を、向日葵が見つめている。彼がどんな料理にそれを使うかは分からない。なんにせよ、そのトマトはさぞかし甘いだろう。


耳を澄ませると、微かに歌声が聞こえた。音楽室のクラスメイト達だろう、聞き覚えのあるメロディーが風に運ばれてくる。いっそこのまま、彼の薄い文字も吹き消してくれればいいと思った。門田以外の誰かが、それを目にする前に。その文字越しに、彼に心を奪われる前に。
次々と門田の知らない表情を見せるようになった臨也を目の前にして、寂しくないわけがない。今考えただけでも、心臓の真ん中を人差し指で突かれたような痛みが走るのだ。だからこの時だけ。夏がやってくるまでの間だけ、彼は誰にも渡してやらない。春も夏も今の俺にはいらないから、これくらいの欲張りは許してくれないだろうか。

トマト、向日葵、カシオペア。臨也が起きたら尋ねてやろう。これにはどんな意味があるんだ?お前はどんな気持ちでこれを書いたんだ?
そうやって独占するのだ。臨也があの静雄に、やがて静雄が臨也に向けるかもしれない感情を、父親だって娘に持つ権利はあるだろう。なあ?


好きなら嫉妬するに決まっ




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