夏至の夜の夢 | ナノ




※男子校


扉を開けた途端いっそ寒すぎる程の冷気を感じて、蒸し暑い廊下との温度差にぶるり、と体を震わせる。クーラーの温度設定が自由なのは生徒会室の特権だが、いくらなんでも低すぎやしないか。
いつもは賑やかな部屋には珍しく、今日は先客は一人しかいない。艶やかな黒髪をみとめて胸が躍った。

「臨也さん」

名前を呼ばれて初めて気付いたのか、臨也さんはこちらを見てああ、と笑った。彼と二人っきりになれるなんて今日は運がいい。教室でも生徒会室でも臨也さんにべったりな書記、帝人の姿を思い浮かべた。羨ましい限りである。たかがクラスが違うというだけで一緒にいられないなんて、学校というのは何て不公平な組織なのか!
そんな俺の心情など露知らず、臨也さんはふぁぁと欠伸を零した。ちらりと犬歯が覗く。目の端には涙の粒が浮かんでいた。うん、やっぱり運がいい。

「正臣くん一人?新羅は?」
「ああ、職員室寄るとか言ってたと思いますけど」
「そう。…あー、俺も行けば良かった」

ここわかんないんだよね、と言ってシャープペンの背でノートを叩く。その横には数学の問題集が置かれていて、ああそういえばテストが近かったんだと嫌々ながらに思い出した。

「九十九屋に聞いても良いんだけど、なんか癪だし。新羅なら分かるかなあ」

そう呟いて、臨也さんはさらさらと図を書き始めた。くるりと円を引く指先が見蕩れる程美しい。なるほどさすが美人だ、どこをとっても文句なしの満点である。

「分かる?」
「いえ、さっぱり」

だろうねーと言ってちょっと笑う臨也さんは、綺麗だ。俺の頭には数式はさっぱり入って来ないけれど、彼に関する情報ならきっと逃さない自信がある。小犬のように側に寄る帝人にも、あれこれとちょっかいをかける会長にも負けやしない。頬杖をつきぱらぱらとノートを捲っている彼を見て思った。

「臨也さんコーヒー飲みます?」
「あ、うん。お願い」

部屋の片隅にはポットが置かれていて、ラックから彼と自分のマグカップを取りお湯を注ぐ。インスタントコーヒーを入れて、ミルクと砂糖を一つ。澄ました顔をして実はブラックが飲めないなんて、生徒会に入らなければ知る事はなかっただろう。
すっかり彼の好みを覚えてしまった頭で役得を噛み締めていると、ガラリとドアが開いた。

「ごめんごめん遅れた…ってあれ、二人だけ?」

もう一人の会計、新羅さんだ。ぱちぱちと目を瞬かせて、なんだ急いで来て損したよと椅子に座る。臨也さんが諦めたようにノートを閉じた。

「プリント貰いに行ってたんだけどさ、怒られたよ。先月の会計報告書さっさと出せって」

愚痴混じりに新羅さんが言うと、臨也さんは顔をしかめてそれはあのバカに言ってくれる?と隣の机を指差した。今は主が不在のその机には、会長承認が必要な書類が束になって置かれている。臨也さんが整理したのだろう、それを見た新羅さんは納得したように頷いた。
マグカップを渡すついでに、その束の一番上の紙を手に取る。生徒会の文化祭発表について、という題が打たれていた。書き込むスペースはまだ真っ白だ。

「これもさっさと決めちゃわなきゃ駄目ですよね」

この学校では毎年の文化祭で生徒会が劇をする決まりになっている。しかし自分達は文化祭自体の準備も受け持っているので、練習するには放課後は勿論休日まで丸潰れになるという非常に迷惑な行事だ。今年も何度か話合ってはみたものの、上手く纏まらずまだ演目すら決まっていない。

「もう分かり易くて楽なのでいいんじゃないですか?白雪姫とか」
「人数足りないし、しかも男ばっかじゃ無理だろ」

すかさず臨也さんの突っ込みが入る。個人的には彼が白雪姫の役でも全然構わなかったが、以前の話し合いで会長が似たような事を言って、暫く臨也さんに口を聞いて貰えなかったという前例があったので止めた。第一に無理矢理女装などを強要すれば、臨也さんと親しい門田さんに何を言われるか分かったものじゃない。ちなみにこれも会長には前例がある(あの時の門田さんは本当に怖かった)。なまじどちらも沸点が高いせいで争いは表面化しなかったが、あれ以来二人の間ではずっと冷戦状態が続いていた。

「参加者を募集するっていうのは?僕あれやりたいなー、夏の夜の夢。最近セルティってばシェイクスピアに凝っててさ、やっぱり女の子は恋愛物が好きだよねああもう可愛いなぁ!」
「…で、その恋愛物を男子校でどう演じろって?俺、女役募集なんて告知したくないから」
「配役は別に変えても問題無いさ。男四人の痴情のもつれでも」
「余計嫌だわ!」

完全に自分の世界に入っている新羅さんと、音を立ててコーヒーカップを机に置く臨也さん。そんな二人を見ながら、俺はその案について考えを巡らせていた。
夏の夜の夢。二人の男に愛される、貴族の娘はやはり臨也さんだろう。ハーミア。薄絹のドレスを纏ったその人を思い浮かべる。厳格な彼女の父はさしずめ門田さんか。彼女を追いかけて森に入る男はきっと静雄さんだ。彼の事だから、標識を片手に婚約者を探すかもしれない。
ああでも、それなら。彼女の父と仲の悪いライサンダーは、彼になってしまうのではないか。ちら、と書類の積まれた机に目を向ける。ハーミアの手を取り森へ逃げ、やがては彼女と結ばれるあの男は!
九十九屋ならば駆け落ちも企てかねない。やめろやめろ、そんな結末はハッピーエンドじゃない。ぶんぶんと首を振って、自分に都合の悪い方へと動き出す妄想を慌てて打ち消した。臨也さんが不思議そうにこちらを見る。その唇が俺の名前を紡ぐ。ハーミア。美しい娘。

「臨也さん」
「なに?」
「ドレス、着てみませんか」

言ってから、怒らせたかな、と思った。しかし彼は微笑んだ。そうまるで、妖精達の祝福を受けたあのヒロインのように。

「じゃあ、ライサンダーは誰なのかな」


渡しはしない。
それでも、俺ですと言えない自分は、まだ臆病なのだ。


妖精は言いました。
「はてさて、なんと馬鹿者ばかりでござろうか、人間というものは!」



サマーナイトロマンス



Idea Thanks! 架咲さま