あきa | ナノ



「ああちょっと、この酒樽を台所に運んどいておくれ。今晩は旦那様のお客様がいらっしゃるからね。あんたも粗相の無いように奥に引っ込んどくんだよ、ただでさえ忙しいんだから。それから縁先に座布団が干してあるから、集めて客間に片しておいとくれ。それが終わったら蔵で若旦那の使ってらした火鉢を出して、縁側で日に当てておきな。手焙り用の小さいやつだよ。間違っても傷つけたりしないように。分かったね?」

矢継ぎ早にそう言うと、女中頭は一呼吸の間も置かずに踵を返して行ってしまった。言い付けられた仕事を頭の中で反芻し、積み置かれた酒樽を抱える。折原屋の奉公人は全員が住み込みだから、日頃から食事には手間がかかる。そこへ大事な客が来るとなれば、台所女中達がてんてこ舞いするのも仕方なかった。他の男達は店の方へ出てしまっているから、用心棒兼雑用係の静雄もこんな時はにわかに忙しくなる。慌ただしい空気は嫌いではない。うんと働いた後の飯は、たとえ縁の欠けた茶碗に盛ってあっても美味いものだ。

「…しっかし、こんな日に限って臨也が病気ときた」

口に出して呟くと、思いがけずその声が廊下に響いて慌てて口を閉じた。
あの夏の日から、臨也とは二度顔を合わせている。青年のせがむままに町の流行りやお店の様子などのたわいない話をする折に、臨也は何度か敬語を止めてほしいと言った。こうしてる間くらい、俺に立場を忘れさせてよ。そう言って伏せられた睫毛の上に、どんな感情が乗っていたのか静雄には分からない。それでも、言われてしまえば従うより他なかった。

そういう訳で、ちょっとの躊躇いを感じながらも静雄はこの若旦那を呼び捨てにしているのである。しかし、事情を知らない他の者にそんな非礼を聞かれるのは宜しくない。咎められないように、独り言にも気をつけておくべきだろう。

勝手口の前に酒樽を置くと、中ではきゃらきゃらと明るい話し声が響いていた。台所女中の二人である。同じお店に奉公する身としては珍しいことに、彼女達は双子で先程の女中頭ともう一人のおしゃべりな下女とともに屋敷の奥を切り回している。

水瓶で手を洗うとひんやりと冷たい。ここ数日は暑さで寝苦しいことも無かった。新しい空気を目一杯吸い込む。肺が清潔に満たされていく。秋が来たのだ。
さあ次は座敷の片付けだと厨に背を向けると、それまで続いていたお喋りがぴたりと止んだ。女中頭が入ってきたのだろう。来客の準備やら病人の看病やらで忙しいせいか、後ろ背に感じる空気はぴりぴりと震えている。
そういえば、臨也はどうしているのだろう。彼の身の回りの一切を取り仕切っている女中頭も、今日はまめまめしく看病してはいられないから、寝ているのか。それとも高熱に魘されて苦しんでいるかもしれない。考え出すと急に心配になる。後で顔だけでも見に行ってやるかな、と思った。





「あ、シズちゃんいらっしゃーい。どうしたの?暇なの?」

大急ぎで仕事を終わらせ、人目を盗んで裏から入り込んだ奥の座敷。そこで臨也はのんびりと菓子を食っていた。胸中の読めない涼しげな顔で布団の上から手を振って、実に優雅な暮らしぶりである。てっきり熱で苦しんでいると思っていたから拍子抜けした。

「…全然元気そうじゃねえか」

「これくらい慣れっこだからね。熱はあるんだよ?今朝はかなり苦しかったし、しんどーい」

「………」

この男、役者さながらの器量と虚弱さばかりが目について儚げに見えるが、口を開けば何とも小憎たらしくなる。わざわざ気を張って来るんじゃなかった。美味そうに栗羊羹を口に運ぶ様子を見て、もう二度と心配などすまいと思った。

「なあにシズちゃん黙りこくって。あ、もしかしてこれ食べたい?」

「いらねーよ」

「またまた。目が釘付けだよ」

臨也はにやりと口の端を吊り上げると、その表情がまたいらやしい程に似合っているのだが、書き物机の横に置いてある小さな湯呑みを手に取った。持ち上げた時に風鈴のような音が鳴る。何かと思えばさいころが一つ入っていた。臨也は笑ったままで、俺に中が見えないようにしてそれを振った。チリンチリン、涼やかな音色がする。そこで、彼が何をしようとしているのか分かった。

「…俺は賭け事は嫌いだ」

「そう?俺は好きだよ」

湯呑みを揺らしていた手首を返す。陶器はくるりと反転して、飲み口を下に畳へと置かれた。中のさいころは勿論見えない。

「さあシズちゃん、丁か半か」

予想通り、丁半である。さいころを振った目が奇数か偶数かを予想する、単純な賭博だ。静雄にはこういう道楽が魅力的とは思えず、これまでに手を出した事は無かった。しかし、お遊びのようなやり方でも臨也は愉しそうにこちらを見ている。すぐ近くにさいころが用意してある辺りからもどうやら好きというのは本当らしい。こちらが何か言うまで相手も動きそうになかったので、仕方なく丁、と答えた。臨也が湯呑みを取り去る。

「ああ、シズちゃんの勝ちだね」

現れた目は一だった。負けても臨也は大して悔しそうな顔をせずに、膝の上で羊羹を一口切り分けてこちらに差し出す。賭けの代償のつもりらしい。甘い匂い。口に入れると、やわらかい栗が舌の上でとろけるように甘かった。

「うまいな」

「だろう?日本橋の老舗で売っていてね、知り合いに頼んで毎年買ってきてもらうんだ」

父や女中頭は良い顔をしないだろうから、いつもこっそり持ってきてもらうんだけど。そう言って臨也は庭を見た。静雄が入った時に唐紙を開け放したせいで青々とした庭木が良く見える。紅葉が色づくにはまだ少し早いようで、夏の名残を引き摺る風が座敷を通り過ぎた。
臨也が目を細める。そろそろ戻ろうかと口を開いた所で、廊下の方で足音がした。
びくり、肩がはねる。女中頭が様子を見に来たのか。計ったように臨也と静雄は顔を見合わせた。まずい。脱兎のごとく畳を蹴って、足音を立てずに庭に飛び降りる。草履を履く暇は無く裸足だ。静かに素早く障子を閉めた所で、入れと答える臨也の声が聞こえた。心臓がばくばくと脈打っている。
どうやら気付かれなかったようで、女中頭は二言三言交わしただけで戻っていった。遠ざかる足音にほっと息をつく。草履を突っかけると、足の裏についた砂がちくちく痛んだ。すぐ内側で人が動く気配がする。挨拶くらいしてから戻ろうと思い片手でぞんざいに唐紙を開けた。

「おい臨也、俺はもう――」

言いかけて、言葉はぶつりと途切れた。座敷側から今まさに襖を開けようと手を伸ばしていたのは、臨也ではなかった。

「!?」

反射的にその場に身を屈める。ばっちり目が合ってしまったからどう考えても無駄なのだが、身体が勝手に動いた。しかし、この体勢は小さく丸まっているだけで相手からは丸見えだろう。やましい者ですと自ら公言しているようなものだ。
ぱたと音がして、誰かがこちらを見下ろす気配がする。頭っから怒鳴られるのを覚悟して首を縮める。
ところが、予想に反してその「誰か」はぶっと盛大に吹き出した。

「ぶっ、は、はは、あっはははは!!ば、ばかじゃないのシズちゃん!な、なにその格好、それじゃあ頭隠して尻隠さずどころかっ、ふっ、頭も隠れてないから!あははっ、おかしっ、はっ、あはっ、はぁっ、ひゅっ」

「あー臨也落ち着いてちゃんと呼吸して。はい吸ってー」

思わず顔を上げれば、目の前には腹を抱えている臨也。と、その背をさすっている浅葱色の着物の男がいた。というか、よくよく見れば静雄は彼を知っていた。こんなに近距離で会うのは初めてだが、何度かここへ来ている町医者だ。どうやら先程の女中頭は彼を連れる為に来たらしい。
男は、若旦那の寝間を荒っぽく開け広げた奉公人を咎めるでもなく君面白いねえと呑気に笑っている。
思えば初めて臨也に会った時も叱られる覚悟でいたのだ。それがどこで間違ってこんな事になったのか。ひいひいと息を整える臨也を見て、静雄はあの日自分が引き付けられた、浮世離れしたうつくしい姿は彼の片側でしかなかったのだと気付かされた。
しかし、と静雄は思う。しかし、或いはこれが彼の本当なのかもしれない。何を考えているのか分からない、影のある表情よりも、大口を開けて笑っている方が余程人間らしい。

ようよう息を落ち着けて、また取り澄ました顔に戻った臨也を見て、そう思った。