ただいま | ナノ



※来神時代
※折原さんちがすごく貧乏


若者達が屯する西口公園を抜けて劇場通りに入ると、喧騒はめっきりと遠くなった。左手に提げたビニール袋がしゃかしゃか音をたてる。どこかで虫が鳴いていた。
初夏の夜というのは案外気持ちが良いもので、ここ数日はコンビニで夜食を調達した帰りにわざと遠回りするのが日課になっていた。芸術劇場裏の真っ白なテラスの横を一人でゆっくりと歩いていると、まるで自分が喧嘩や暴力とは無縁の人間に思えてくるのだ。
空を見上げると星が光っている。何となしに数えてみる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、おしまい。ああやっぱりここは都会だ。

テラスに座り込んでいる少女が見えたのはそんな時だった。

「……?」

家出娘だろうか。彼女達が劇的に増加する夏休みにはまだ早いが、まあこの町ではよくある事である。しかし少女の姿がよく見えるにつれて、どうやらそうではないらしい事に気が付いた。夜の街に飛び出すにしては少女の着ている水色のパーカーは子供っぽいし、何より、その真面目そうなお下げ髪には見覚えがある。

「……おい」

足音が近づいても少女はぴくりとも動かない。時計に目をやるともう十一時を過ぎていた。
さすがに無視して通り過ぎる訳にもいかず、歩道より何段か高くなったテラスにうずくまる細い肩に声をかける。こんな夜更けに何をしているのだろうか。いくらあの兄を持つといえども彼女はまだ小学生だというのに。

「おい、こら、マイル」

名前を呼ばれた事に反応したのか、膝頭に押し付けられていた顔がゆっくりとこちらに向けられる。額でも小突いてやろうと覗き込んだ頬が、幽霊のように青白くてぎょっとした。

「……静雄さん」

兄と同じ赤い瞳が小さく見開かれる。眼鏡はかけていない。こうして見ると九瑠璃とそっくりだった。どう言葉を続けたものか考えあぐねていると、また視線を膝小僧へと落としてしまう。ハーフパンツから折れそうな足首が覗いていた。

「どうした、こんな時間に」

出来る限りの優しい声を出すと、視線を上げないまま別に、と返された。普段ならこの時点で苛ついて立ち去るのだが、なぜか心は凪いでいる。夜の散歩がそうさせたのか。勿論泣いているガキを放っておけないというのもあった。
こんな危ない場所で話すのも何だし、ひとまずあいつの家に帰らせよう思って口を開く。開こうとした時だった。
きゅるるる、と何とも間の抜けた音が辺りに鳴り響いた。

「あ……」

素早く腹を押さえる舞流。少し耳が赤い。腹減ってんのか?と尋ねると、もごもごと小声で晩御飯食べてないと言う。日付が変わるまでもう一時間もないというのに、信じられない。自分ならとっくに動けなくなっている。

「晩飯食ってないって…どうしたんだ。クルリと喧嘩したのか?それともあれか、また臨也の野郎が何かし…」
「違う!!」

非難の色を乗せて兄の名前を出すと、激しい口調で遮られた。少女がぐん!と首を振ったせいで、二つに結ばれた毛先が鞭のように風を切る。

「な…」

はったとこちらを見据える眼に言葉を失う。コンビニの袋が滑り落ちそうになって、慌てて指に力を入れた。しかし幼い瞳はみるみるうちに透明な滴を膨らませて、どうにかそれをやり過ごそうとしたのか少女は瞬きを繰り返す。
首を振り振り涙をこらえる姿に、いよいよこれは面倒な事になったと思いながらその丸い頭に手を置いた。ぽんぽんとあやす様に二回叩く。彼女の方が高い位置に座っているので、身を屈めずとも届いた。

「あー…わりぃ事言ったか俺…」
「何でもない…ちょっと喧嘩しただけ」

やっぱり喧嘩したんじゃないか。口には出さずにそっとため息をつく。一見ドライに思えても彼ら兄妹は何だかんだいって一緒に暮らしているし、聞いた話では両親ともに死んでいるらしく、三人ぽっちなのだ。仲が悪いようには思えない。第一舞流やその兄が声を荒げて喧嘩している所なんて想像もつかなかった。

「なんで喧嘩したんだ」

尋ねると、返事をせずにまた俯いてしまった。そのまま何も言わない。頭に置いたてのひらから、じんわりと子供の体温が伝わってきた。三分か、それ以上か、長くない歌を一曲口ずさむくらいの間そうやっていると、舞流は小さく息を吸い込んだ。ブレスのように短く、鋭い呼吸だった。

「うちは貧乏だから」
「ああ」
「イザ兄がバイトしても生活はかつかつで」
「ああ」
「三人もいると食費もかかるし」
「それで食べなかったのか?」

吸った息を使い尽くしてしまったように、少女はまた黙り込んだ。それでは臨也も困るだろう。極端な行動に、いくら苦しくてもメシ抜きじゃできる事もできねぇぞと思わず咎めるような口調になってしまう。
そうすると舞流はきつく唇を噛み締めて、小さなこぶしをぎゅっと握った。イザ兄は、と弱々しい声で漏らす。

「イザ兄は、静雄さんと同じ事言ってた。自分の体損ねたら何にもならないって」
「だろうな」

小癪だがあいつの言っていることは正しい。普段の様子からは考えられないが、それも彼女達を思ってのことだろう。
舞流もそれが分からない程馬鹿ではないはずだ。なのにその顔は晴れなかった。なにか吐き出すように唇がわなないている。

「でも、毎日テーブルには私とクル姉のお皿しかなくて、イザ兄はって聞いたら外で食べてきたって、いっつもそれで」

夕飯ぎりぎりまでバイト入れてるくせに、嘘ばっかり!
掠れた語尾はそれでも強い響きを持っていた。最後の言葉を皮切りに、ぽたりと少女の瞳から雫が落ちる。たちまちそれは小雨になり、膝にいくつもの染みができ、喉の奥でしゃくりあげるのが聞こえーー終いにはうわあああんと声を上げて泣き出した。今まで我慢していたのだろう子供らしい泣き方に戸惑って、とりあえず頭に乗せた手を動かす。くそ、こんなガキにまで心配かけやがって。そんな事情があるのなら今日だって丸々三十分も追いかけ回さなかった、変な所でプライドの高いあいつは筋金入りのノミ野郎だ。
舞流は一向に泣き止もうとしない。誰かが来れば面倒な事になる。そういえば、と思い出してコンビニ袋を漁った。

「おら、食え」

差し出したのは今しがた自分用に買ったワッフルだ。舞流は一瞬きょとんとしたものの、やはり空腹には抗えなかったのか受け取るなりはむり、とかぶりついた。口いっぱいに頬張って、鼻をすすりながら咀嚼する。喉につまらせないように背中を叩いてやった。鼻先をくすぐる甘い匂いに、どうしてかもらい泣きしてしまいそうだった。
三口で押し込んで、舞流は頭を下げる。大分落ち着いたようらしい。水でも差し出してやりたいが、生憎持ち合わせていない。袋を覗き込んで中身を確認した。十二個入りのチョコレート菓子が一箱、明日の朝食べる予定のお握りが三つ、幽にと買ったサンドイッチ六切れ入り一パック。怖いくらいに三の倍数だ。すんすんと鼻を鳴らす少女を見る。これも何かの星回りか。

「なあマイル、明日の朝は何食うんだ」
「え…、晩の残りのお味噌汁」
「それだけか?」
「うん」

ずい、と手に持った袋を突き出す。きょとんとこちらを見る舞瑠にやる、と言うと慌てて返そうとしたので無理矢理に押し付けた。

「いいから、取っとけ」
「でも……」
「ガキが遠慮なんかするんじゃねえよ」

華奢な腕がぎゅっと袋を抱きしめるのを見届けて、そろそろ帰るぞと声をかける。舞流はこっくりと頷いて、弾みをつけてテラスから飛び降りた。


静まりかえった道に二人分の足音が響いている。夏の夜風が心地好い。舞流の腕の中で、ビニール袋がくらげのように揺れている。歩くにつれしだいに喧騒が近くなる。大通りに通じる道の先からネオンの光がちらつきはじめた所で、遠く横断歩道の向こうに、人混みに紛れてよく知った人影が見えた。きょろきょろとあちら側を見回して、誰かを探すように路地裏を覗きこんでいる。信号は赤だ。斜め下で、小さく息を飲む音が聞こえた。

「あのよマイル、ウチは男二人だろう」

人影はまだこちらに気が付かない。路地裏からひょっこりと少女が顔を見せた。臨也が何か尋ねる。少女が首を振る。

「だからよ、親父もお袋も、手前らがみたいなのが来るつったら、晩飯くらい大喜びでこしらえると思うんだよ。例えうぜぇ蟲が一匹混ざっててもな」

舞流がこちらを見る。大きな瞳が夜空を映して輝いていた。車道の信号が変わる。青から黄色。

「いつでも食べに来いや。茶碗くらいは用意しといてやるからよ」
「静雄さ…」

赤。イルミネーションが点るように、こちらに向いた信号が一斉に青く光った。最後まで言わせずにその背を押す。突然の事に前につんのめって、それでも自分の意図を理解したのか舞流は真っ直ぐに走り出した。

「イザ兄ー!クル姉ー!」

少女のお下げが跳ねる。臨也が振り返り、走る少女を認めて、マイル、と呼んだ。こちらなど目に入らないようだった。九瑠璃が駆け寄って、妹を抱きしめる。臨也がゆっくりと近づいて、二人の頭に手を置いた。足早に通り過ぎる人々の真ん中で、そうやって彼らは寄り添っていた。

臨也がこちらに背を向ける。その両側に双子が並んで、仲良く歩き出した。空には星が光っている。ひとつ、ふたつ、みっつ。
舞流が振り向いた。後の二人は気付いていない。振り向いて、笑う。口の動きだけで少女は言った。
ありがと、静雄さん。

よっつ。おしまい。



ばいはいただいままたあした



(ったく…もうこんなことするなよな)
(ごめんねイザ兄)
(ていうか何その袋何そのおにぎり)
(貰っちゃった)
(誰に!?おい誰に貰ったんだマイルまさか変な事されてないだろうな?)
(夕飯も誘われたんだよー!クル姉も一緒に行こうね!)
(…行……)
(ちょっと待て駄目だって!そんなの兄ちゃん許さないからな!)