水分を含んだ重い空気が肌に纏わり付く。そのくせに空は晴れていて、黒のスラックスが太陽光を集めて温度を上げていた。駅前で受け取った宣伝のうちわはぬるつく風を揺らすばかりで、プリントされた涼しげなプール施設が苛立ちを誘う。隣に座る臨也がシャツの胸元をバタバタとやりながらずず、とレモンティーを吸い上げた。
「あっつ……」
「だろうな」
六月半ば、夏服に濃紺のカーディガンを羽織った臨也は見ているだけでも暑そうだ。扇いでも一向に改善されない不快感に、顔をしかめて溶けちゃいそうだと呟く。しかもさ、ただ溶けるだけじゃないんだよ。水よりも有毒な何かになるんだ。例えばそう水銀みたいに。
不満を言うのなら大人しく教室で本でも読んでいればいいものを、昼休みになる毎にこうして彼は俺を誘う。菓子パンがひとつ入った袋をぶらぶらさせて、ねえドタチン、屋上に行こうよ。でもそう言ってへらりと笑う顔が俺は結構好きだったりする。
臨也を見つけるのは簡単だ。まず教室を見て、それから静雄を探す。彼が何も破壊せず大人しくしていたら、後は大抵ここにいる。どうして屋上なのだ、と訊ねた事はないが、たぶんここが学校で最も高い場所だからだろう。臨也はそれが斜塔であろうが道路脇のブロックであろうがおそらく何でも上りたがる。前に一度フェンスの上を歩こうとしている所を止めたことがあった。知ってたか、落っこちそうな奴ほど高い所に行きたがるんだぞ。
ビルの向こう側に低く雲が見えた。梅雨というのはずっとさあさあと雨が降っているもので、こんな風に突然晴れたり降ったりしていただろうか。環境は変わってしまったのか、それとも幼い頃の風化した記憶は美化されているのか。容赦ない照り返しを受けてコンクリートがひかる。網膜に染みるそれにぐっと目をつむって瞬きを繰り返すと、隣の臨也が不思議そうにこちらを見た。
「…寝不足?」
行儀が悪いから止めろといつも言っているのに、飲みながら噛んでいたらしいストローから口を離して小首を傾げる。確かストローを噛む癖は何かを暗示しているのでは無かったっけ。どこかで誰かが言っていた。欲求不満、寂しさの表れ。信憑性の無い言葉なのに、そういった情報は必ず伝わるのだ。
「分かるか?」
「うん。ちょっと、隈できてる」
俺の目の辺りを指さして言う。耳元でパックを振ってもう中身が残っていないのを確認すると、昇降口に向かってそれを放り投げた。放物線を描く黄色が、地平線を分けるかのように青と灰色の屋上を飛んでいく。壁に当たって落ちるそれを見届けてから、最後の唐揚げを口にほうり込んだ。
「後で拾っておけよ」
もぐもぐと奥歯で咀嚼して、ご飯の入っていた上段を重ねてパチリ、と弁当の蓋を閉じる。一リットルの水筒に口をつけて、ごくり、麦茶を喉を鳴らして飲むと、臨也が微笑んだ。
「俺ね、ドタチンのいっぱい食べるとこ、好き」
今日の彼の昼食は行き掛けのコンビニエンスストアで買ったメロンパンだけだった。人よりも多く走り回っているはずなのに、どうしてそれで足りるのだろうか。いつだったか訊ねた時は、だってお腹空かないんだからしょうがないよ、と返された。その時に食べていたのはマドレーヌだった。
「お前はもっとマシな物を食べろ」
「えー…だってこれ、」
空の袋を裏向けて成分表をこちらに見せる。一緒にあの特徴的な匂いが鼻先をくすぐった。砂糖、チョコチップ、その他香料。
「435キロカロリーもあるよ」
「…そういう問題じゃないだろう」
むしろ更に悪い。あんなに空気の入った、腹の膨れなさそうな物の一体どこにそんな熱量が潜んでいるのか。吐きそうな程に甘ったるい一口を想像して、なるほど彼の言葉が蠱惑的なのはそのせいかと納得した。砂糖ばかり食べているから、舌先まで甘くなるのだ。
ふあ、と欠伸を噛み殺す。こうもゆったりとした時間を過ごしていれば、いくら蒸し暑くても目蓋が下がってしまいそうだ。その様子を臨也がじっと見つめている。白目が魚のように光って綺麗だった。
「そんなに眠い?」
「ああ」
ふうん、と彼はすこし黙った。それからゆっくりと瞬きをして、いそいそとこちらに近寄って来た。横に並んで、肩が触れる。見下げる形になった顔がにへらと笑った。
「肩を貸してあげようか、ドタチン」
カーディガン越しに互いの体温を感じる。こんな嫌な日に限って、くっついてみたくなるのはどうしてだろうな。臨也の肩に頭を置いた。自分よりもすこし低い位置に、首筋がぴんと突っ張る。
低い雲はすぐそこまで来ていた。一段と重くなる空気が頬を掠めて、どちらからともなく手を繋ぐ。汗ばんだ肌が触れ合っている場所からじわりじわりと溶けてしまいそうだった。それでもいいと思う。ふたり一緒くたになって、誰かに見つかる頃にはひとつの水溜まりになってしまえばいい。曇り空を映して銀色に煌めく、例えばそう、水銀みたいに。
「俺ね、他にもあるんだよ」
唐突に臨也が言った。何の事か分からずに黙っていると、袖から左手を引っ張り出して広げる。
「ドタチンの好きなとこ」
「…まだあるのか」
「うん。まずちゃんと人の話を聞くところでしょ、それから頼まれたら断れないところでしょ、手がしっかりして大きいところでしょ、」
それからそれから。一つ一つ指折り数え上げていく。細い指だった。みんなお前に無いものだな。心の中で呟いた。じゃあ彼にも自分にも備わっている物は何だろう。考えようとして、やめた。意味のない事に思えた。相手にしか持っていないものも、紫陽花ばかりが綺麗な梅雨も、俺達はいつも無い物ねだりばかりだ。斜め上から降る声を聞きながら目を閉じる。だからきっと、こんなじっとりした天気などはすぐに忘れてしまうのだ。いつか俺が今日の事を思い出そうとしても、すかすかのメロンパンとか、歯形のついたストローとか、それから決して乗せ心地が良いとはいえない尖った肩なんかばっかりを覚えているんだろう。それは残念ではなかったけど、寂しい気もした。できればみんな留めておきたいのだけれど。
まだあるんだけどね。臨也は絶え間なく話し続けている。放り出されていたうちわを手に取ったのか、そよそよとぬるい風が髪を揺らした。中身のないビニール袋がかさかさと音を立てる。眠気がさざ波のように押し寄せて、彼の声もぼんやりと遠くなった。睡魔に抗わなくてもいい瞬間というのはどうしてこうも幸せなんだろうか。緩やかに沈んでいく思考に身をまかせる。とくり、とくり、どちらのものか分からない心音が、耳の内側で鳴っていた。確かめるように名前を呼ぶ。いざや。上手く回らない舌の上で、それはうわ言のように響いた。
臨也は笑ったのだろうか。すぐ傍で、おやすみ、と聞こえた気がした。
距離感、ゼロ
企画提出
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