なつ | ナノ



油蝉が鳴いている。汗に濡れた襦袢がべたりと背に張り付いてどうにも気持ちが悪い。頭上からじりじりと照り付ける太陽が旋毛を焼いていた。玉の汗が一滴、蟀谷を滑り落ちて渇いた瓦に染みを作る。ざあと風が吹いて、蝉の声がぴたりと止む。顔を上げて、眼前に広がる江戸の町を見た。ひぐらしの時分にはまだ少し早かった。

「…こんなもんか」

もう何回目かも分からないが、袖で額を拭う。言い渡された仕事は先の強風でいくつか飛ばされた屋根瓦を修繕しておけというものだった。そろそろと立ち上がって首を巡らせる。見渡す限りに青く輝く瓦が並べられているのを確認して、どさりと屋根から飛び降りた。

「よっ、と……あ?」

他人よりも些か丈夫過ぎる身体は、これくらいの衝撃はどうともなく受け止めた。が、着地してからそこが屋根に上がった場所と違う事に気付く。高い所をうろうろとしているうちに感覚がずれてしまったのか、やっぱりちゃんと梯子をかけておけば良かった。

さて何処に降りたのかと辺りを見回すと、足元に菖蒲の長い葉が伸びている。踏まないように足をずらし、視線を持ち上げれば綺麗に剪定され青々と茂る桜、楓、梅。春には花が咲き乱れるのだろう、秋には紅葉も楽しめるのかもしれない。その下に凪いだ小さな池があり、眺めているうちに鹿威しが澄んだ音を立てる。小さいながらもそこは美しい庭だった。

「こんな所があったのか…」

ここの屋敷は決してだだ広いわけでは無い。ましてや自分が奉公しているのだから、見たことのない眺めなどないはずなのに、呆けたように突っ立っていると突然、耳元をかすめるものがあった。

「う、ぉっ!」

ジジジ…、と音をたててすぐ側を蝉が飛んで行く。近くの木に止まっていたのが飛び立ったらしい。羽音が遠ざかり黒茶に光る肢体が青空に吸い込まれて行くのを見上げると、まだ高い日がつきりと目に突き刺さった。ぱしぱしと瞬きをして、改めて今年の夏は暑いと思う。ついでにずぶずぶに濡れた襦袢も思い出した。ああくそ、さっさと日が暮れちまわねえかな。乱暴に髪を掻き上げて、果たしてここが何処なのか早く戻らなければと一歩踏み出す。

声を聞いたのはそんな時だった。

「暑いねぇ」

一瞬、空が話しかけてきたのかと思った。爽やか、というよりは、真っ直ぐに突き抜けて届くような声。

「な……」

びくりと身を強張らせて屋敷を振り返ると、痩せた男が日の光を避けるようにして柱に寄り掛かっているのが見えた。

「こんなに暑いんじゃあへばっちゃうね。道理で蜆汁ばかり食べさせられる訳だ、あれは精がつくというから」

口もとに笑みを浮かべながら男は続ける。暑いと口にしながらも汗などこれっぽっちもかいておらず、粋な格子縞の着物の袷もぴたりと閉じられている。格好だけを見ていれば随分と涼しげである。
見馴れぬ顔に誰だろうと訝しがるも、すぐに気が付いた。その男は、とても美しい顔立ちをしていた。この世のものとは思えぬほどとは言いすぎかもしれないが、他に出て来る言葉もない。彼は。途端に喉がからからに渇いた。この屋敷に寝起きする人間でこんなに器量のいい者を、自分は一人しか知らない。

「若旦那、様」

自分の主であるその人は、にこりと笑う。

「やあ」





お前のような粗忽者は決して近づいてはならないと番頭からきつくきつく言われていた奥の座敷、そこにこの店の若旦那がいて、それはそれは端麗なお顔をされているのだという話は聞いていた。お店の次の身代となる人だから幾許かの興味はあったものの、わざわざ言い付けに背く理由も無かったので関わらないようにしていたのに。足元を気にかけず飛び降りた自分はどうやらその座敷の正面の庭に降り立ってしまったようだ。これはまずいんじゃないだろうか。禁じられた場所に入ってしまった失態に怒鳴られる覚悟で恐る恐る居住まいを正すと、予想に反しその人は無邪気ともとれる様子で目を眇めた。

「珍しい髪だね」
「…え、」
「綺麗な色だ。南蛮の血でも入っているのかな」

柔らかな声だった。でもそれは聞き慣れたものとは程遠い、誰にも怒鳴らず怒鳴られず、遮られたこともないような響きの声だったから、あんたの方が余程に綺麗だよとは言えなかった。

「さ、あ。俺にも良く分からない、ので」

長らくの病弱で座敷にこもりっきり、美男でちやほやされ金ばかりは持った男は、さぞや気難しく手のかかるわがまま息子だと思っていた。しかし目の前に立つ彼は不躾な侵入者に怒りだす事もなく、穏やかな目でこちらを見つめている。さわりと葉擦れの音がした。状況にそぐわぬ言葉に、渇いた喉はまだ機能しない。

「屋根から降りてくるなんて驚いたよ。さっきから上でとんからやってたのは君だったのかな。

どうやら自分の瓦を修繕する音は下の座敷にまで響いていたらしい。もしやそれで眠りから起こしてしまったのだろうか、病とは縁の無かった自分には病人が日頃どのような暮らしをしているのか全く考えがつかなかった。とりあえずいつも死んだように眠っているのではないか、と予想を立ててみる。

「申し訳ございません、瓦を直してまして」

絞り出した声はびっくりする程硬かった。下手をすれば旦那様と相対している時よりも緊張しているかもしれない。それもこれも、彼の纏う浮世離れした空気にあるのだ。骨の出た、ほっそりとした指を頬に当てる。自分とそれ程違わない年のはずなのに、あの腕はどうだろう。そこらを跳ね回っている子供達の方がよっぽどしっかりしている気がする。

「別に構わないよ。でもそういうのは手代の仕事じゃないんじゃないの?」
「いや…手前は、身体は人一倍丈夫ですが手先は優れませんので。危ない仕事やら荷運びしか出来ませんし」

そう言うと若旦那はふうん、と視線を外した。その仕草もどこかはんなりとしている。雲が太陽を隠して、辺りがふっと暗くなった。彼の為だけにある池の、凪いだ水面にさくらの緑の葉が浮いている。先ほど屋敷の上から見た抜けるような青空と喧騒に揺れる江戸の町を思いだした。汗の匂いと砂埃と焼けた肌、それからここに咲いていた菖蒲。

蝉がけたたましく鳴きだした。そこで、自分がすっかりこの場所に陶然としていた事に気が付く。とんだ長居だ、修繕が終わっとさっさと番頭に伝えなければ今度こそ怒られるかもしれない。若旦那の怒りを買わなくて本当によかった。慌てて襟元を正す。

「あの、」
「じゃあ君は、他の人より仕事が少ないのかな」

遑する事を申し出ようするも、また遮られてしまう。その上口にする言葉はことごとく読めないものばかりだ。戻りたさにそわそわとつま先が落ち着かない。しかしなぜかその時だけ、人形めいた顔には光が差したように見えた。
早く早くと何も考えずに勢いで頷いてしまってから、相手の意図が分からずに首を捻る。当然であるがそこに彼のような上品さは生まれない。

「へえ、それは丁度いい。なら君、ああ名前はなんていうのかな。多少抜けても差し障りないんだよね?だったらこっそり此処に来てよ」
「…は?」
「ほら、見ての通り俺はここにずっといるだろう。世話の女中は何も話そうとしないし、全く暇でどうにかにりそうなんだ。君に相手をしてもらえば少しは楽しくなるかなと思うんだけど。ああでも他の奉公人には見つからないようにね、父に知れたら大事だ。あの人は俺をこの座敷に閉じ込めて喜んでいるから」

返事など聞かずとも当然だろうという口ぶりだ。急な話についていかれずに、一拍遅れて息を吸った。自分が、あの若旦那様の話し相手?学も礼儀も無いというのに、一体どうしてそんな大役が務まるものか。当惑する頭が動きを止めた。
鈍る頭にただはっきりと分かるのは、自分が途方もない面倒に巻き込まれた事と、このうつくしい男が大層酔狂だという事だけである。


「何か、言い付けられた仕事でもあるのかな」

一向に動こうとしない自分を不思議に思ったのか、若旦那が凭れていた柱から身体を離す。日向に一歩踏み出て、注ぐ日差しにぐっと目を細める。濡れ羽の髪が、その頬に色濃く影を落としている。これ程までに日の光が似合わない者を自分は初めて見た。

「…いえ、あの、」

逡巡する思考を纏め上げて、あいわかりました。そう言うと、ありがとう、とまたその顔に光がきらめいた。
どうして受けたのか、身分の高い彼の話を断る事ができなかったというのもある。しかしそれよりも、月の裏側で生きるような彼の様子に好奇心がわいたのだ。変わり映えのしない庭先に突然飛び込んだ異彩の蝶のように、それは強く心を引いた。

「ねえ、名前は?」

また日陰へと身を引いて、若い娘がそうするようにかくりと首を傾げてみせる。自分とはけっして交わらない道を歩む青年。


「…静雄と、いいます」
「静雄…しずお、ね。じゃあシズちゃんでいいかな」
「シっ…」
「あはは、どうしてそんな顔するのさ」

女子供のような響きに二の句が告げずはくはくと口を動かす。その様子を楽しそうに見つめていた若旦那は、これから親しくしていくのに呼び名は大事だろう?と得意げに指を振って笑った。

「よろしくね、シズちゃん」

「…はい」


油蝉が鳴いている。賑わう江戸の町に尾を引くように、午九つの鐘が鳴った。濡れた襦袢も照り付ける太陽もそのままに、ひとつ世界が動き出す。


時は文政八年、後に化政文化と呼ばれる町人達の爛熟期である。家斉公の治世は厳しい幕政を緩め、美人画や黄表紙、歌舞伎などに町人生活の風潮を次々と花開かせた。発展した町には常に華やいださざめきが満ち、通りは活気に溢れていた。
そんな江戸の片隅、まだ暑さは右肩上がりの七月の末の、埋もれては消え行くある日。青く輝く小さな庭で彼らは出逢った。陰が光を手招いたのか、光が陰に惹かれたのか。白南風に問へども答は蝉時雨に掻き消えたまま。


俺には知る由もなく、それは美しくも不毛な恋の始まりだった。