演題 | ナノ


何度も何度も、絵を描いていた。それは両親や自分の顔であったり、虹のかかる空であったり、草原を歩く犬であったり、いかにも幼い子供が描きそうな陳腐でつまらないものであったがそれを、水色のスモックを着た自分は幾枚もスケッチブックに残していた。

やがてクレヨンは握れないくらいに短くなって、色鉛筆を手に取った。逆上がりが出来るようになって、筆を使うことも覚えた。もう人の顔を描くことは止めていた。風景、主に自分の住む街ばかり描いていたので白と黒色は直ぐに無くなった。色鉛筆は灰色ばかりが擦り減った。

自分は絵が上手いらしい、と気が付いたのは何時だっただろうか。とにかく夏休みの公募作品には必ずといっていいほど入選し、周りから勧められて美術を学んだ。その道の大学にも進んだ。それでも自分から人を描く事はせずに、同輩達が必死になってモデルを探しているのにも興味が持てなかった。

街を描いた。ビルを描いた。ビルの窓に反射する街路樹を描いた。ネオンを、ネオンに照らされるコンクリイトを描いた。都会を題材にするわけだから、もちろん人は描く。しかし彼らはもの言わぬ物体に過ぎず、ただそこに写り込んでいるだけだった。絵を見た朋輩はこう言った。「まるでゴウストタウンだ」。その通りだと思った。
「そんなに生き生きと街を描くのに、どうして君は人を描こうとしないんだ」そう尋ねられた事は何度もある。その度に自分は同じ答えを返す。「描こうとしないんじゃない。描けないんだ」。質問者達はこぞって首を捻っていたけれど、それは事実だ。自分にはどうしたって、人間の肌の上に浮かぶあからさまな感情を表現する方法が分からなかった。描き手の言うとおりの表情を、ポウズをしていても、そんなお綺麗な上澄みの部分だけを描くのは絵の具とキャンパスの無駄遣いに思えた。かといって、彼らの内側に渦巻く得体の知れない情感を引き摺り出すのはためらわれた。なぜならそれは絵筆を介して画描きにまで染むからだ。染み込んで、蝕むからだ。
今思えば自分は人間が嫌いだったのだろう。恐怖さえも感じていたのかもしれない。

ずっと昔の小学校の授業で、新任の教師に「お友達と組になってお互いの顔を描いてあげましょう」と言われたことがあった。その時既にに変わり者だった自分は、一人取り残され仕方なくその教師と組むことになった。黙々と肌色を混ぜる自分に、向かい合った彼女は言った。「可哀相に」。
彼女の憐憫は筆を伝って身体中に散らばった。哀れな子供への同情とそれを庇う自己への陶酔に満ちた声音に、恐れ慄いた自分はその教師の顔を描く事がどうしても出来なかった。叱られて、それでも。結局は淡いピンクのブラウスと銀の細いチェインを巻いた首だけが、彼女の似顔絵となった。



「なあ折原、もう少し笑ってくれないか」

声をかけると、椅子に座った青年は緩慢に顔を上げてこちらを見る。窓の光が彼の闇色の髪に明るい輪を作り出していた。白いカッターシャツが眩しい。街は今日も晴れている。


「ずっと笑ってろって?本読んだまま?」
「モデルっていうのはそういうものだ」

キャンパスにはおおまかな彼が描き出されていた。まだ表情のない白紙の彼と、彼が持つ本と、その後ろの大きな窓枠。モデルなんて、と渋る彼に頼み込んで描いたものだ。
しかし、このままではせっかくの絵が不機嫌な一枚になってしまう。それを伝えると、彼は怒ったようにどうせ描けやしないくせに、と呟いた。

「お前さ、なんで人間は描かないの」
「今描いてるじゃないか」
「さっきから進んでるようには見えないんだけど」

気づいていたのか。事実、三十分ほど前から手は止まっている。彼の顔はいつまで経ってものっぺらぼうのままだった。膝の上に乗せられた本はもう終わりに近づいていて、描きはじめた時とは左右のページ数が随分変わってしまっている。
どうして苦手な人物画を描こうと思ったのかは分からない。彼の顔立ちや雰囲気があまり人間を感じさせなかったというのも要因の一つだったが、予想に反して彼はずっと人間らしく拗ねてしまった。それが表現出来ずに手が止まる。いつもは可愛いと思うつっけんどんな表情も今の自分には恐れるべき対象に見えていた。

「あのさあ、」

動こうとしない手に痺れを切らしたのか、焦れたように彼が口を開く。眉を寄せて、読みかけの本をぱたりと閉じた。表紙が赤い。

「九十九屋が思ってる通りの俺を描けばいいんじゃないの」
「…それは正確なデッサンとは言わないだろう」

至極真面目に返すと、彼は不思議そうに首を傾げた。窓の向こうにビルが見える。爽やかな朝だ。思考が逃げる。あのさあ、

「お前だって普段は見たままを描いてないだろ。喜んでる街を表現するとか言ってるのはどこの誰だよ」

頭が引き戻される。驚いた。彼がそんな事を言うとは思っていなかったのだ。見たままの彼?キャンパスに目を落とす。そこには顔の無い光を浴びる青年があった。改めて見ればそれは、自分の知る彼によく似た作り物だ。驚いた。正確に描こうとするあまり自分は恋人を見失っていた。
消しゴムを手にとって、窓枠の向こうに描かれたビルを消す。本を読んでいる時の彼は都会からは離れて穏やかだったから、この朝の白い光だけを入れようと思った。

「なあ折原」
「なに?」
「お前は人間が好きか?」

彼は当然のように、そうだよ、と言った。綺麗な所も醜いところも全部引っくるめて愛していると言った。それから、赤い、びろうどのような本の表紙を指でなぞった。
立ち上がって、その指を柔く掴む。万人を愛する事など、自分には到底真似できない。ただ、たった一人の感情ならば受け止められるような気がした。受け止めなければならない気がした。厭うものも愛するものも引っくるめて全て、それが彼に繋がっているのなら好きになれる。

「なあ、こっちに来てくれないか」
「絵はいいのかよ」
「構図は描けたから、もういい。後はお前の顔だけだ」

手を引いて、隣に座らせる。少し空けられた距離を埋めるように腕を回して、そのまま脇腹で小さく手を動かした。いわゆるこちょこちょというやつだ。どうやら弱かったらしい、彼はびくりとして身を捩った。

「な、にすんだよ…!」
「いや、こうしたら笑うかと思ってな」
「…馬鹿じゃないのお前」

ため息が首筋に落ちる。むすりとして本を開く様子をしばらく見つめて、やっぱり笑った顔が一番可愛いなと思った。もっとも、彼が自分に笑いかける事など滅多にないのだけれど。

自分は人間という生き物がどうにも苦手で、しかし愛しいその真赤の瞳を通して見た彼らなら、これまでよりもすこし愛すべきものに思えるのだ。

紙を捲る音が静かに響く。長い睫毛はまた並んだ文字に没頭してしまった。それがつまらなくて、本に添えられた手を重ねる。

「折原」
「さっきからな、にっ…」

顔を上げたのを見計らって口付けた。ほんのちょっとだけ触れて、ぽかんとした頬を指でつく。じんわりと赤くなっていく耳を楽しんだ。馬鹿じゃないの、さっさと描けよ!そう声を上げてそっぽを向こうとする頬を捕まえた。
俺が思ってるお前はこんな感じなんだが、どう思う?尋ねればきっと鉛筆をへし折られてしまうだろう。宥めるように髪を撫でる。生まれて初めての愛すべき肖像を完成させる為にはそれだけは御免だったから、黙って、その細い肩を抱き寄せた。

「とびきりに描いてやるよ」



クライスレリアーナ

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