白線 | ナノ


はっはっ、眼前から荒い息が聞こえる。池袋大橋で臨也を見つけてからかれこれ二十分以上。意識した途端に、肺がきりりと痛んだ。


手に持っている看板を振りかぶる。引き千切られた、ぶら下がった電飾が音をたて、臨也が鋭く振り返った。同時にそれが手を離れ、目の前のコートが翻る。横に跳躍した身体が、はためく裾が、路地裏に飛び込むのが、見えた。

看板が失速し、落下する。路地の前で、左足を軸に身体を回転させ、地に落ちる寸前の看板を、小路に蹴りいれた。
凹んだ物体が中を舞い、咄嗟に身を屈めた黒髪、臨也の頭上を通過する。すれすれで躱した彼のフードに手を伸ばし、掴んだ。爪先がコンクリートを掻く音が聞こえ、身体が傾く。相手の右手が動いた。

ナイフ。上体をのけ反らせる。銀色が閃き、尾を引いた。切り取られた自分の髪が、はらり、数本地に落ちる。空を切った右手を捻り上げた。勢いで壁に押し付ける。


がしゃん、奥で何かに激突した看板が、派手な音をたてた。


膝で胴を押して、身動きを封じる。ぎしりと手首が軋む感触。

「…放してくれないかな、痛いんだけど」
「黙れ」

赤い瞳がじっと睨み上げる。指の隙間から覗く手首は不健康で、こいつはほんとうに血が通っているのか、と頓着しそうになった。

「シズちゃん、君はそろそろ分別をつけるべきだよ。俺今日は仕事で来たんだよね。池袋は嫌だって言ったのに、向こうがどうしてもって言うからさあ。この場合俺に非は無いんじゃない?」
「うるせぇ。手前が視界に入る事が非なんだよ」
「なにそれ横暴」

どうにか抜け出そうと臨也が体を捻っている。またナイフを出されると面倒なので、もう片方の手も掴んでしまった。舌打ち。街頭が点滅し、車が通り過ぎていく音が遠くで聞こえる。
眉を寄せた臨也にぐっと顔を近づけた。嫌味なくらいに通った鼻筋を砕いてやりたい衝動に駆られるが、生憎両手は塞がっている。薄暗い場所で見る肌は青白くて、ぴんと張った首の筋がやけに綺麗だった。

「いっ……!」

がぶり、首筋に噛み付く。無遠慮に歯を立てたそこからは血が滲んだ。いや、嘘だ。本当は無遠慮なんかじゃない。
使えない両の手の代わりに噛み付いたのだと、思わせたかった。この行為が孕む色欲を悟られぬように、慎重に跡を残す。臨也が大きく身じろいだ。仄かな匂いは汗だろうか。血の味は蜜のようだ。何とも言えないものが喉元までせりあがる。興奮かもしれない、おかしいのは重々承知だ。

思い切り足を踏まれて顔を離した。すっかり息を整えた唇に欲心を抱くなど、誰が想像できただろう。くっきりとついた歯形が、白い肌を切り取り線のように赤く彩っている。

「シズちゃんがすると噛むとかそういう次元じゃないんだけど。骨ごと持ってかれそう」
「そのつもりでやってんだよ」

端正な顔が嫌悪に歪められた。自らの切れっ端しか与えようとしないこの男の全てを望むのは欲張りだろうか。シズちゃんさあ、と俺の内側など何もしらない赤い瞳が眇められる。

「いい加減諦めてくんない?こんなの、どっちの利益にもならないしさ」

ね?、と狡猾さをもった唇が吊り上がった。無言で拘束を緩めると、予想外だったのか動きが止まる。しかしそれは一瞬の事で、すぐに手首は抜き去られた。二人の距離が空く。

「シズちゃんから逃がしてくれるなんて珍しいね」

にやり、臨也が笑う。湿った風が狭い路地を吹き抜けた。それを追うようにして臨也も暗がりへと身を翻す。俺の手首とさして変わらない太さの彼の足首が、最後に見えて、消えた。


さっきの噛み跡はいつまで残るのだろうか。睦言を伴わない一方的な所有印が消える頃、きっとまた俺は臨也を追い詰めて同じ事をするのだろう。

「…逃がすつもりなんざねぇよ」

手の平にはまだ骨張った感触が温度を持っている。その脆弱な身体では俺から逃げ切れないと気付くのはいつだろうか。いつか臨也が足を止めると知っていながら、黙って無垢ともとれる笑顔を見つめている俺は、もしかしたらとても非道い男なのかもしれない。
だって仕様がないだろう?本当に望んでいるのは、無理矢理の降伏じゃあないんだ。嘘八百のお前の本当を、お前自身が認めないと意味がない。


どうして逃がすものか。狡いのは分かってる。だけれど、簡単に切り取り捨てられる感情の、その線引きの内側、まだ見ぬ甘やかな部分が、何としても俺は欲しいのだ。



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