bouquet | ナノ


「あー…いらっしゃい」

ドアを開けた彼はすこし驚いた顔をしていた。開けた時からその顔だったということは、取り付けられた魚眼レンズ越しに来訪者を確認していたのかもしれない。凸レンズに歪められた自分はどんな顔をしていたのだろうか。別に彼の目にどう映ろうが気にならないが、少なくとも恋人に見せたいようなものでは無いはずだ。

臨也は珍しいねとでも言いたげに僕を見つめていたが、左手に提げられたビニール袋からゼリーやらポカリやらが覗いているのに気付いて合点のいったような表情になった。

「ドタチンに聞いたの?」
「メールがきたよ。臨也が風邪引いたからポカリ買って行って何か食べさせてやってくれって。自分も寝込んでるくせにさ、君達は何なの?三歳児と母親なの?」
「あはは、それはちょっと過保護過ぎるよねー。でも俺にうつしたのもドタチンだよ?」

臨也が少し笑う。熱のせいか目の粘膜が赤く潤んでいるのが見えた。門田は一昨日から学校を休んでいて、臨也が熱を出したのは昨日の晩らしい。普段から接触過多な二人だからうつされても不思議はないだろう。外気に触れたためか臨也がぶるりと身体を震わせた。
中に入るとカーテンは全て閉じられていて、電気ばかりが煌々と点っている。換気されない不健康な部屋で彼は息をしていた。

「熱測った?」
「んー…八度ちょっと」
「重症じゃないか」

締め切られた部屋がますます澱んで見えてくる。覚束ない足でソファーに腰掛けた臨也は、ついでにあの化け物にも広めておけば良かった、と袋を漁り取り出したプリンを片手に悪態をついた。病を感じさせないはっきりした物言いは流石と言うべきだろうか。しかしその額にはいささか間の抜けた冷却シートが貼られており、今まで眠っていたのか後ろ髪が跳ねている。それがやけに人間臭くて、ああ彼は人間だったっけ、と当たり前の事を思った。僕達は高校生なんだっけ。どうしてか不思議だった。

「まあ馬鹿と筋肉は風邪引かないって言うし。ああどっちも該当してるじゃないか、最悪だよ。あと新羅、俺このプリン嫌なんだけど」
「知らないよ」

気怠げに焼プリンを持ち上げて、よく回る口を動かす。人がせっかく高い方を買って来てやったというのに、酷い言い草だ。(因みに後日門田に聞いたところ、彼が好きなのはプリン本体ではなく例の一つ百円のプリンの底のツメを折ってプッチンする動作らしい。道理で静雄のプリンを嬉々として机の上にぶちまけていた訳である。あの迷惑千万な行為は彼の好事であったのだ)ノートをコピーさせてやらないでおこうかな。

「ふらふらするし気分悪いし、憂鬱だよ。何かの嫌がらせとしか思えない」
「日頃の行いのせいだね」

今プリン食べる気分じゃないんだよ。我が儘な台詞を右から左に、放り出されたそれを冷蔵庫に収めた。コップにポカリを注いで、一緒に買った桃の缶詰も皿にあける。もしこれが門田ならば林檎の一つでも剥いてやるのかもしれないが、生憎僕はそんな面倒見の良さなど持ち合わせていない。
背中にじっと視線を感じたので、もう寝てなよ、と声をかける。頷いた気配はしたのに動こうとしない彼が気になって振り向くと、何故か口を尖らせていた。

「どうせ俺がいない方が学校は平和なんだろ」

何を今更、当然の事を不満げに言う臨也はしかしどこか寂しそうな顔をしていた。俺がいなくても世界はまわるんだろう、と言いたかったのかもしれない。あの高い臨也がそんなことを思うなんて、風邪を引いて人恋しくなっているのだろうか。それとも熱から転がり出た小さな本音、不安なのか。何も言わないでいると、彼は立ち上がってさっさと寝室に行ってしまった。

ガムシロップがこぼれないように慎重に運ぶ。自分はどうも昔からこういう食べ物が苦手で、それは確実に幼い頃の環境や酔狂な父親が影響しているのだが、シロップに浸されて保存されている様子がどうしてもホルマリンに漬かっている様に見えてしまうのだ。甘い蜜に沈む果実の肉片。まったくもって毒されている。食べる気なんて起こらないのである。
しかしそんな事を露とも思わない臨也は、(もちろん思わない方が良いに決まっているが)それを好む。もしかすると、彼ならばホルマリンでさえもペろりと飲み干してしまうかもしれないと思った。毒を以って毒を制す。きっと彼はホルムアルデヒドよりも有毒だろうから。

「はい、自分で食べれるよね」
「どーも」

窓を開けてやると、夕暮れの突き刺すような赤が差し込んだ。ベットに座る彼にその色が移ってしまいそうで慌ててカーテンを引く。自分には、その作りもののような白い頬が彼になくてはならない物のように思えていた。
紅を引いたような真赤の唇が桜桃を食む。甘いシロップに潤うそこは完璧で、人の身体はかくも美しく有れる物なのかと息を呑んだ。奉られた聖女の像のような姿に偶像崇拝、という言葉が浮かぶ。確かに祈りたくもなるだろう。
優れた彫刻家は彫るべき材質の中に「理想」が見えるというが、まさに彼は生み出されるべき理想ではないのだろうか。当然それは外見だけの話であるが、思わずそんな下らない事を考えた。朱に染まる部屋で、彼は静雄以上にヒューマニティからは遠のいている。
でもそれは、彼自身がわざとそうしている様にも見えた。だってこの少年は、整った唇で自分がいなければ平和だなんてそんな自虐的な言葉を吐くのだ。怯えてるんだろう。一人ぼっちの嫌われ者にはもう疲れたんだろう。

「ねえ臨也」
「…何?」

近づいて、ぬるんだ冷却シートを剥がしてやる。彼はそうやって外面を盾に生きているけど、見てくれが良かろうが中身が悪かろうが、結局のところ単純明快、僕らは友人なのだ。もう寝る、と臨也はベットに倒れ込んだ。ああ薬を飲ませないと。彼を見つめていても何も得るものは無いのに、そんなことよりも心配して看病してやるのが友達ってものだろう?

「知ってるかい、」

選りすぐられた上等な遺伝子の集まった君と、そんな君を取り巻く世界。その白い額も、擦り傷もエタノールの匂いも。グラウンドも怒声もため息もこの街もビルも空も風も花も歌も、きっとみんなが愛しているんだろうね。静雄も門田も、他にも君を取り巻く多くの人達が。
ねえ知ってるかい臨也。周りを見渡してごらん。ちゃんとその目を覗き込んでくれる人は、意外とたくさんいるんじゃないのかな。捻くれた君はそれでもどうしようもなくこの世界を愛しているんだろう。そしてそれと同じくらい、君は世界から愛されているんだよ。
「僕は君がきらいだよ」

そう言ってやったら、彼は驚いた顔をして、そしてゆっくりと口元を綻ばせた。

「知ってる」

音もなく花びらが開いていく。その蜜が有毒だとしても、臨也は美しく笑うのだ。他の友人達がこの彼を見たことがあるのかは分からないが、もしも無いのならば人生で大きく損をしている。そう思わせるような笑み。そうやって皆君が好きなんだ。だから一人くらいそうじゃない奴がいたっていいだろう、ねえ?

僕らがもう少し真っ直ぐに生きていけたならば、臨也もわざわざ嫌われ者を選ばずに済んだのかもしれない。静雄だって穏やかな生活が送れたかもしれない。でも仕方ないだろう、僕らはまだ若いのだ。馬鹿も無茶もするし、何だって平気で言ってみせるのに簡単に傷がつく。そうして生きている。

「ねえ臨也」
「何?」
「おやすみのキスをしてあげようか」

冗談じゃない、悪夢を見させる気かい?今度こそ彼は声を立てて笑った。花弁が舞うようだった。
身を屈めて額に口付ける。滑らかな前髪越しに伝わる体温はまだ少し高かった。君は生きているんだよ。

「おやすみ」


窓から入る茜色がほんのりと彼を染めている。何だ、どうってこと無いじゃないかと思った。人間臭くても、君は幾分綺麗だよ。