※メインの方の「白線」の元になった話なので、内容が似ています。
ちゃぷり。浴槽の縁にさざ波がぶつかり、砕けた。すらりとのびる彼女の白い足は乳白色の湯を揺らめかせる。
仕事で訪れた池袋。何か変わった事は無いかと当てもなくぶらつき、その後はいつも通り人外の力を発揮する男との追いかけっこ、のはずだったのに。
薄々感づいてはいたものの、本当に言われるとは思っていなかった。静雄は彼女を追いかけて来た。しかし、彼女に投げつけられた物はガードレールなどではなく、
(好きだ、だなんて)
直球過ぎる愛の告白。それが、彼女が恐れ続けたものとはつゆ知らず。
運よく逃げ切れたと思ったのも束の間、予報を無視して突如降り出した雨に打たれ、新宿の自宅に帰る頃には頭から爪先までぐっしょりと濡れ鼠になってしまった。
慌てて風呂を沸かしているとくしゃみが飛び出し、これで風邪を引いたら完璧にシズちゃんのせいだ、と一人毒づく。
と同時に、最後に見た彼が脳裏に浮かんだ。何で逃げるんだよ、と叫ぶ姿、寄せられた眉。
(そんなの、逃げるしかないよ)
自分を、と彼女は思う。自分を形成しているものの大部分は人間愛ではないのだろうか。
だからもし、それを覆すような感情、不特定多数ではなくたった一人、それも唯一愛さなかった人間を愛してしまった時、自分はどうなってしまうのだろう。自分らしさを失って、それでもまだ平常心を保てるだろうか。
『腕に蚊が止まった時にさ、そこに力を入れると吸い針が固定されて、蚊は動けなくなっちゃうんだよ』
昔友人から聞いた言葉を思いだした。あれを聞いた時静雄ももう一人の友人も同意していて、知らないのは自分ひとりだった。
後日試すと、蚊は簡単に飛んで行った。自分は言い出しっぺのあのひょろい男にさえ筋力が劣っていたのだ。腕にはただむず痒さだけが残されて、その事実はどうしようもなく女の無力を示していた。
浴槽を満たしていく湯を見つめ、両手で顔を覆う。彼女は彼以外の人間を愛している。そんな言い訳も、もう通じない。濡れた髪が頬に張り付いた。自身にすら聡い彼女はしかし、自らを騙す事に長けていなかった。
(す、き)
これまでの生き様もプライドも捨てて胸に飛び込む覚悟など生憎持ち合わせていない。持ってはいないのだ。
彼女はまだ机を飛び越え廊下を駆けて彼と戯れたあの日々からまだ踏み出せないでいる。当然のように毎回彼と顔を合わせる権利を有していた過去が恨めしい。
しかし、彼は踏み込んだのだ。彼女が震える指先で引いた白線を、いとも容易く飛び越えた。
凪いだ水面に、入浴剤の封を切る。ぼとりと波紋を広げたそれは、すぐに色を残し溶けていった。
染まっていく浴槽のどこにも、彼を拒む術は見当たらない。
乳白色の湯にゆっくり浸かると左手にぴりりと痛みが走った。
見れば甲が擦り剥けている。そういえば逃げる途中にコンクリートで擦ったかもしれない。赤くなったそこが水に触れないようにして、足を組みかえる。
彼の手首程しかない彼女の足首。これでは逃げ切ることも振り払うこともできないだろう。やがては捕らえられて、もう抜け出せない。
そうして自分が自分じゃなくなっていくのが怖い。彼は笑うだろうか。受け止めてくれるだろうか。
答は初めから知っているのだ。あの男の覚悟は自分よりも余程強い。
差し延べられた手を前に、選択肢は一つしかないように思えた。
左手の傷は浅く、やがて消えてしまうだろう。しかしその痛みは、彼女の背中を押してくれる。
あと、もう少しだけ。
幸せにしたいのだと
君は言う
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