御伽噺 | ナノ



シーツに包まっている瞬間が好きだ。眠りに落ちる時でも目覚めたばかりの時でも構わない。大丈夫、何も心配することはない。そう言われた気持ちになる。着ているものをみんな脱ぎ捨てて、誰かの腕に全てを委ねている時は尚更。もっとも、そんな事をしたのは一人だけだが。これまでは他人に気を許すなんて有り得なかった。商談中であろうがベットの中であろうが変わらずに心はフル装備で生きてきたのだ。そう、これまでは。


目を覚ますと隣にあったはずの体温が消えていた。床に落ちた衣服を拾う事もせずに、目だけを動かしてその元凶を探すと、すぐ近くでパソコンを開いている後ろ姿が目に入る。それにしても相変わらず物の少ない部屋だ。今使われているデスク、自分のいるダブルベッド、クローゼットと本棚。目立った家具はそれだけだ。上半身を起こすとやわらかなシーツが素肌を滑る。明かりを落とした部屋で光るディスプレイは青白く、壁や天井に朧げな模様を作り出していた。

「起きたのか?」

男がこちらを向く。頷くと笑って、額にキスを落とされた。ひんやりとした冷たい感触から、じわり、熱が広がっていく。

「何してんの」
「ん?ああ、ちょっと調べ物だ」

ふーん。つまらなそうにに返事をして、再びベットへと身を沈める。男は苦笑すると、はしたなく露わになった胸元を隠すようにシーツを引き上げまた背を向けてしまった。こうやって会うのは久しぶりだというのに。こっそりと唇を尖らせた。窓の外では雨音が響いていて、見上げた天井はほの青く揺らめいている。大きな水槽みたいだ、と思った。深海と表現するには、この部屋はすこし整然としすぎている。

静かな水槽にカタカタと響くキーボードの音。それを鳴らすのと同じ指で、ついさっき自分は暴かれていたのだと思うと、どうしようもない羞恥と優越を感じた。それはもちろん今現在彼を独占しているキーボードに対して、である。今はそっちばかり見ているけれど、一番大切なのは私なんでしょう?そこまで考えて口元が緩んだ。二十数年の人生のなかでもまさか無機物に嫉妬する日が来るとは思っていなかった。ああ自分はばかみたいにこの男に夢中なのだ。
これまで出逢った誰よりも、どの人間よりも。目が合えばそれだけで呼吸を忘れて、喉がからからに渇いてしまう程に。

熟れて溶けるような一刻前をつらつらと思い返せば途端に彼の声が聞きたくなった。いつもは素直に受け止められない愛を囁いて欲しくなって、今日こそは自分も言えるだろうかと下手くそな呼吸のまま、いまだ背を向けている男へと口を開く。

九十九屋

声はでなかった。その代わりに空気だけがごぼりと吐き出されて、慌てて口を閉ざす。心臓がどくどくと脈打っていた。なんてこと。呼吸だけではなく、どうやら自分は男の名を呼ぶことすら上手く出来ないらしい。
まるで稚拙な子供の恋のようだ。もう何もかもを見せ合って、恥ずかしい事などみんなしてしまった間柄だというのに、動揺に胸がぎゅうと締め付けられる。

それにくらべて彼は、今は色情など微塵も感じさせない涼しげな顔でディスプレイに集中しているけれど、普段の二人きりの彼は、まるで林檎に歯を立てるかのごとく易々とその言葉を形作ってみせる。それが悔しくて羨ましくて、ほんの少し悲しかった。男が与えてくれたものを、自分はまだ何一つ返せていない。

もう一度。なけなしの勇気を振り絞って口を開く。ごぼり。また失敗して、酸素だけが水面へと昇った。息ができなくて、吐くばっかりで、胸が苦しくなる。例えば声を無くした人魚姫はこんな気持ちだったのだろうか。伝えるべき言葉を前にして、何一つ口にできないもどかしさ。青い天井が揺らめく。途切れることを知らない雨音はとうの昔にこの部屋を世界から切り離してしまった。

男を見つめる女。ゆっくりと瞳を閉じる。シーツは白波のように波打って彼女の二本の足を隠した。水槽の人魚。次に空気を吐き出せば死んでしまう、そんな気さえしていた。
閉じた瞼の裏に泡となって消えた姿を描いた。彼女はどんな気持ちで短剣を握ったのだろう。残酷な話だ。例え王子を殺したとしても、その先彼女はまた海の底で生きていかなければならない。どちらを選んでも一人ぼっちで、声を失ったまま。最愛の人の死に泣き叫ぶことも、呆然とその名を口にすることすらも出来ずに。

ベッドサイドには無造作にコートが置かれていた。それに忍ばされているナイフを思い出して、本当にぴったりじゃないかと自嘲する。自分一人に与えられた、これは何の試練なのか。
彼を奪われてはいけない。魔法使いの掲げた条件。隣国の姫と結婚してしまう王子と、それを分かっていながら彼の幸せを選んで消えた、哀れな哀れなお姫様!

小道具は全て揃っている。唯一違っているのは主役の二人。男は愚かな王子ではなかったし、自分は魔法使いに頼るお姫様などではなかった。

目を開けて、喉を震わせる。上昇していく酸素。やっぱり呼吸はできなくて、息はもう絶え絶えで。でも悲劇だなんて絶対に嫌だった。限界が近づいて、魚みたいに口をぱくぱくさせる。と、まるで狙ったようなタイミングで彼が振り向いて、そうして、笑った。

「どうした」

頬に手が添えられる。その瞬間、魔法にかかったように息のつき先を思い出した。突然の事に驚いて瞬きを繰り返すと、男の目元が優しく緩む。満たされていく二つの肺。
ざまあみろ。はじける泡に心のなかで舌を出した。唇をほどく。裸足のまま、声は喉を駆け登った。今まで言えなかった言葉。あのね、あのね、

「すき」



おとぎ話を舞う