ゆめゆめ | ナノ



鍵盤に両手を置く。息を吸い込み、止めた。指先に神経を集中させて、息を吸う、手首がしなる、人差し指を、落とす。

始めの一音が響いた瞬間、周りから音が消え去った。黒と、白と、俺の腕だけがそこにある。手元は見ない。十年以上触れてきた鍵盤は、決して裏切らないから。指に合わせて流れるように美しく振り下ろされるハンマーが弦を打ち、緩急をつけた旋律がゆったりと歌いだす。

穏やかな曲は苦手だった。生来の性格が影響しているのかもしれないが、音が柔らかくならないのだ。チャイコフスキーもドビュッシーも、あの人のようにはどうしても弾けなかった。そう、あの人。
俺に、音を感情に任せすぎていると言った。その通りだ。
だからコンクールも絶対に力いっぱい弾く曲ばかり選んでいた。でも、今回は違う。この曲は、特別なのだ。

穏やかなクレッシェンド。心が融けて腕を伝うのを感じる。最果てまで辿り着いたそれはキーに触れた途端音へと昇華した。強くなり過ぎないように、慎重に。一続きのメロディをはみ出すのは大罪だ。
転調。イ長調からロ長調へ。ピウ・アニマート。コン・パッショーネ。曲は最大の見せ場へと続く。フォルティッシモ!さあ出番だ。力を入れ、手を前に滑らせる。


「だめ。そこの左手はもっと小さく」

突然、降った声に体が強張った。それはピアノしか通さなかった鼓膜を揺らして、集中の糸を断ち切る。小指があるべき黒鍵を逃して不恰好な音を立てた。

「メロディ以外が大き過ぎ。小指以外は伴奏だよ」

振り向けば、声の主が壁に寄り掛かるようにして立っている。いつの間に入って来たのだろう、気が付かなかった。

「…臨也」

名前を呼べば、ちょっと笑って肩を竦める。

「臨也先生、ね。もう高一なんだから、敬語も覚えてよ」
「別にいいって自分で言ったんだろうが」
「それ何年前?俺を未だに呼び捨てにしてるの、シズちゃんくらいだよ」

こちらに近寄って、俺の横に立つ。背筋のぴんと伸びた姿勢には品があり、彼が持って生まれたものは音楽の才だけではない事を感じさせた。そんな立ち姿は、短気で粗暴で、よく怖がられた自分には逆立ちしたって真似できないだろう。

お前、そんな乱暴なのにピアノなんか弾けんのかよ、壊しちまうんじゃねーの。周囲からはいつもそう言われていた。他で悔しさを紛らそうにも勉強は苦手だったし、小学生のできるスポーツは団体競技ばかりでとても熱中できそうにはない。それならばと練習に打ち込んだ。皮肉な事だが、俺のテクニックは彼らのおかげで上達したと思っている。
それに、上手くなれば彼に褒めてもらえた。「すごいね」と嬉しそうな顔を向けられることが何よりの幸せだった。

親に手を引かれてこのピアノ教室を訪れたのは十歳の時。それまで通っていた子供向けスクールの癖が抜け切らず、俺は担当講師に対して中々「ですます」を付けることができないでいた。そんな俺に、「じゃあ俺の事は臨也でいいよ。ねえシズちゃん、友達から始めようか」と言ったのがこの人だ。今思えば告白みたいな台詞だ。思わず顔が熱くなる。

「でもさ、随分上手くなったよね。俺はてっきりまた力強い曲を弾きたがると思ってたけど」

件の彼は俺の気など知らずに、この曲にしてよかったね、と無邪気に目を細めている。こんな表情をするとぐっと若く見えた。自分と一回り以上も離れているとは到底思えなくなる。

折原臨也はたくさんの賞を受賞したピアニストだった。あちこちの雑誌で取り上げられ、期待の新人だと囁かれていた、らしい。七年前、事故に遭うまでは。それ以来この人の左手には軽い麻痺が残った。生活には困らなくても、ピアノを弾く事はもうできない。どんなに悲しかっただろうか、辛かっただろうか。俺はその時の彼を知らないけど、想像することならできる。

「どうしても、これが弾きたかったから」

コンクールの自由曲に選んだのは、愛の夢第三番。有名な曲だ。もうずっと練習していた。腕が痛みを訴えても。音を弱く保ち続けられずにいつも渋い顔をされていたけど、それでも上手くなりたかった。だってこの曲は。

「俺、その曲好きなんだよね」

知ってる。声は喉元までせり上がって消えた。事故に遭った次の日、この人はリサイタルでこれを弾く予定だった。愛の夢。俺は、それを知ってこれをを決めたのだ。この人の愛した曲。この人の夢。教え子である自分の弾いたものがコンクールで認められれば、それが叶う気がした。今はもう鍵盤を駆けることのないその指に、上手く動かない彼の手の代わりに指輪を嵌める資格を与えられられる、そんな気がしていたのだ。まあもちろんそれは傲慢で、昔の彼にはこれっぽっちも及ばないのだろうけど。

風が吹き込んで、カーテンを翻す。床とピアノに光が窓の形の模様を作っていた。張り詰めた細い弦は、ピアニスト達の生命線のようだ。
なぜだか、この人の曲が聴きたいと思った。無理を承知でも、この人の愛したメロディが知りたくなった。

「俺さ、シズちゃんには期待してるんだよね」

ドルチェ。唇から落ちる声は相も変わらず美しい。彼の言葉を五線譜に書き写したら、それだけで曲ができてしまうのではないだろうか。

「そりゃあここに通ってる子はみんな頑張って欲しいけど、やっぱり俺はシズちゃんに一番頑張って欲しい」

このコンクールに優勝したら、言うつもりだった。あなたが好きです。ずっとずっと、あなたが好きでした。あなたにとってはまだ只の生徒かもしれないけれど。でもいつか、あなたを超えられる日が来たら。瞳の奥で止まったメロディを、もう一度響かせられる事ができたなら。

「シズちゃんが誰よりも上手なピアニストになるのが、俺の夢だよ」
「……はい」

今は、そう答えるのが精一杯だった。あなたにとっては生徒でも、俺は。それはまだ口に出せない。一月後、優勝したら。彼の左手をとって、真っ直ぐに目を見て、言おう。
もう一度弾いてよ。彼が笑う。荘厳さを持ったグランドピアノの横にその姿は本当に綺麗で、なぜだか誇らしくなった。なあ、誰か聞いてくれよ。俺は、この人が好きなんだよ。


鍵盤に両手を置く。息を吸い込み、止めた。指先に神経を集中させて、息を吸う、手首がしなる、人差し指を、落とす。

先生。あなたの夢を叶えられたなら、俺の夢も聞いてくれるだろうか。あなたの隣にいたい。あなたの指の代わりになりたい。

転調。イ長調からロ長調へ。俺からあなたへ。とめどない感情の音は伝わるだろうか。八十八鍵に願いをこめた。
この演奏は、ただ一人の為にある。



あれにせよ。これにせよ。夢はあるわ。



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