子宮 | ナノ



男に生まれたかったと思った事はない。だが、女扱いされるのは我慢ならなかった。


たとえば与えられたランドセルが赤い事。機能的であるはずの制服が動きづらいスカートであること。一人称を「私」にしなくてはならないこと。常に庇護される対象として扱われること。我を失っているはずのあの男の拳が、目の前で止められること。自分という個体が、それらに易々と決定されていく事がどうしても怖かった。そこに意思はあるのか。失われていく無性の遺志は。自我は。アイデンティティは何処にある。

だから俺は女として生きることをやめた。拘束具でしかなかった制服から解放された卒業式の日以来、俺は一度もスカートに触れていない。髪も短く切ってしまったし、男のような名前はもともとだ。

そうしてしまえば、俺を男だと思い込む輩は大勢いた。ほらみら、人間を決定する物など所詮その程度なのだ。誰にも女を見せない。俺はそうやって生きることを決めた。



「で、結局何が言いたいんだお前は?」
「…離れろ」

俺を壁に押し付けて口角を上げる男、九十九屋真一。女を捨てた俺にとって、無理矢理に立ち位置を突き付けられるようなこの体勢は屈辱的だった。しかもよりによってこんな男に。至近距離で思い切り睨み上げても余裕綽々の表情をされるのが腹立たしくて、肩に掛かる手を振り落とせない非力な自分に苛々する。

「残念だけどな折原、それでもお前は女なんだよ」

にやり。得体の知れない笑みを浮かべる姿に、やはり直接会うべきではなかったと後悔する。どうせ会ったところで得られた情報はごく僅かだったのだ。大した特徴のない年上の男。情報屋などという生活リズムの不規則な仕事をしている癖に、やけに綺麗な白目をしている。それだけだ。あれだけ望んでいたのに、たったそれだけ!

「知って、るよ、それくらい。でも、それとこの状況は関係ないだろっ……」
「大いにあるんだな、それが」
「…何、っ!」

ぺろり、頬を舐められた。突然の行為に顔を背けることもできず、肌が粟立つ。まるで獲物を喰らう前の獣のようなそれがたまらなく厭だった。

「俺はお前が気に入った。そしてお前は女だ。ここから導きだされるのは何だ?」
「な、に」

男の、正真正銘の男の長い指が頬をなぞる。顎まで辿り着いたそれに顔を上げさせられ、あ、と思った時には唇を掠め取られていた。一瞬触れるか触れないかのそれはしかし俺の思考を奪うには十分で、目の前のやはり綺麗な瞳に呆然とする自分が映りこんでいた。

「ああ、初めてだったか?まあそんな格好してるんじゃ無理ないな」
「さいっ、てい…!」

ショックにずるずると座り込みそうになるが、男の手がそれを阻む。強い力で腰を掴まれてどうにも身動きがとれない。鼻先を掠めた華やかな香水。ブルガリブラック。浮き出た鎖骨は深く、飛び込めば溺れ死んでしまいそうだった。
「折原」

見つめた瞳の、虹彩が取り巻く一点が見透かしたような色を燈した。逃げなくては。ここにいてはいけない。頭の奥で警笛が鳴り響く。スカーレットが点滅している。ここにいては。男が笑う。まるで心臓の内側を柔らかく食まれたようだった。

「なあ折原、俺はさっきお前は女だと言ったな」
「離せっ!離せはなせっ!!」
「だがな、インターネットの利点は、相手の顔も名前も、お前が厭う性別すらも隠されるってことなんだよ」
「だから、なんだよっ…!」

いくら身体を捻っても抜け出せない。勘付いていたのに忘れていた。先回りして絡め取る。これが手管なのだと。チャットを媒介に、性別すら判然としない九十九屋真一と会話をした時から知っていたのだ。
身体を囲うように腕がまわる。そうやって俺を閉じ込めた男の、捕食者の眼に捨てたはずの火種が燻る。ゆっくりと焦がされていく感覚に、ああこれが、と悟った。

「俺は、そんな状況でお前を気に入った。なあ折原、賢いお前なら分かるだろう」



恋を知らない女だった。女であるという重荷から逃げ続ける、男にも成り切れない女だった。でもそれもとうとう終わりだ。逃げきれなかった。私は、捕まってしまった。女の私を見ているわけでは無いと、性別すら枷ではないと容易く言ってのけた、この男に。

「俺はお前を愛している」



退路は断たれた。檻の戸は閉じられて、二人を火取る熱の温度を知る。しかしこの閉塞を拒めない両手に嫌気が差して、誰がお前なんかと。という想いを込め、憎い憎い男の唇に噛み付いた。



子宮は口を噤んだまま