あやねが目を覚ましたとき、そこは薄暗い路地裏だった。
すっかり陽が落ちているところからして、数時間は気を失っていたらしい。未だにぼんやりとした頭のまま、あやねは辺りの様子をうかがった。
先ほどの老人に、年若そうな男が二人。場所は、狭く薄暗い路地裏。分かることは、それだけだった。
状況がよくつかめないままではあったが、頭に受けた痛みと、今の自分の状態から、悪い想像ばかりが頭に浮かぶ。
あやねの両腕は後ろ手で縛られており、口元は布で覆われていた。口を動かして助けを呼ぼうとするも、きつく縛られていて動かせない。
能天気な彼女にですら察しが着く、誰がどう見ても危険な状況だった。ごくりと生唾を飲み込む。
ふと、目を覚ましたあやねに、あの老人が気付いた。

「ああ、目が覚めたようだね。良かった」

死んだかと思ったと、悪びれも無く笑う。

「お嬢ちゃんの服装はトンチキだからね。すぐに分かったよ、地元の人間じゃないって」

そう言われて、あやねは自分の服装を思い出した。高杉が用意してくれた着物ではなく、今日は制服に身を包んでいることを。
それが何か関係があるのかと、混乱した瞳で見つめるあやねに老人は優しく微笑む。

「お嬢ちゃん、旅行に行く時は男装をしたっていいぐらいなんだよ。そんな風に、いかにも旅行者ですって格好をしてちゃ駄目だ。今度から、お気を付け。そうでないと、こんな風に、忘八に連れ去られてしまう」

そんな機会は二度とないだろうけどね。そう付け加えて老人が笑うと、若い男達もつられたように笑った。
ぼう、はち。耳慣れない言葉に、あやねの不安は一層駆り立てられた。それをよそに、一人の若い男が老人に話しかける。

「この女、どうしますか」
「そうだね。新町か島原だと足が着くかもしれん。吉原にしようか。別嬪さんはどこでだって喜んで買い取って貰える」
「はあ、江戸ですか。また途中で死にはしませんかね」

死という言葉を耳にした途端、あやねの背筋に冷たい物が走った。

「君達が折檻しなければ大丈夫だろう」

何の感情も無い瞳で老人は答えた。
彼らが何者なのか、あやねにもうっすら分かってきた。
少なくとも彼らは人を殺してしまっても何も思わないのだ。彼らにとって人間は物と一緒なのだろう。ただ、売り買いされるだけの物。間違えて殺してしまっても、物だから何も感じない、何も思わない、思えない。
きっと、口を拘束する布が無ければ、あやねは叫んでいた。あまりの恐ろしさに、耐えかねて。

「ところで君達、この間の伊勢参りでは何人ほどだったかね」

ふと思い出したかのように、老人は男達に訊ねる。

「はぁ、すみません。あの時は二人、捕まえはしたんですが」
「捕まえはした、とは?」

途端に、老人の表情が険しくなる。その様子を見て、男達は罰が悪そうに視線をそらした。がたいの良い男二人が、老人の一睨みで小さくなる。たいそう不思議で、滑稽だった。そして、しばらくしてからようやく、一人の男が言い辛そうに口を開く。

「……途中で逃げられました」
「そうかそうか!それは良かった!」

瞬間。空から場違いな声が降ってきた。
真っ黒な空を、その場に居た全員が見上げる。
目に入ったのは、鮮やか過ぎる赤と橙を身にまとう、一つの影。
派手な着物をひるがえしながら、その影は屋根から地面へと飛び降りた。

「誰だ、なんだお前は!」
「ああ俺かい?梅之助ってんだ」
「誰が名を名乗れと」

途端、一瞬で抜かれた日本刀が、男の喉元にあてがわれる。

「なに、礼はいらんぞ。自分を殺した男の名ぐらい、覚えておきたいだろうからな」

すべてが綺麗だった。
地面に横たわったままのあやねの目に、それは美しく映った。
決して綺麗な振る舞いではない。何もかもが目茶苦茶な、至極実戦向きなその振る舞いに、目を奪われたのだ。
後ろから斬りかかられれば振り向きもせずに後ろ足で蹴り飛ばし、正面から男が討とうとすれば、それを峰で力任せに払い落とす。そして刀を落とし逃げようとする男の首めがけて、斬る。それが峰打ちで無ければ、それは綺麗に首が落ちたことだろう。
首を峰で打たれた男は、その場に崩れ落ちた。

「ひっ」

蛙のような潰れた声を上げて、老人は逃げようとする。もう一人の男は、肺を蹴られたのか地面にうずくまったまま動けないままだ。その様子を一瞥してから、無様に逃げ惑う老人に斬りかかる。
骨の砕ける音がした。
悲鳴すら上げぬまま、老人は地面に倒れた。
その動かなくなった様子を確認してから、彼は刀を鞘に納める。
そして、あやねの方へ振り向こうとした時だった。

「死ね」

不意に、静かな声が辺りに響く。
その声は、先ほどまでうずくまっていたもう一人の男から発せられたらしい。彼が鞘を納める瞬間を見計らっていたのだろう。恥も義も礼も、何もかも忘れた男が斬りかかろうとする。
けれども、彼には全てが遅過ぎた。
鞘を逆さに返し、刀を握り込み、斬りかかる。
その所作は、先程までの目茶苦茶な振る舞いとは相反していた。まるで、居合いの手本のようなその素早さと美しさに、あやねは見惚れた。

「遅い」

派手な着物を翻し、斬りかかる男を真正面から討つ。
高杉の姿は、大輪に咲く花のように艶やかだった。

*

気の抜けたように呆然とするあやねを背負いながら、高杉は暗闇を進んでいた。何も言わずに現れ、何も聞かぬまま彼女を担ぎ、帰路を辿っている。
ずいぶんと藩邸からの距離があったようで、未だに町並みは見慣れぬものばかりだ。
路地裏から助け出した後も、あやねは泣きもわめきもしなかった。ただひたすら呆然とするだけで、それが逆に高杉の心を痛ませる。

「なぁ、あやね。お前にひとつ、面白い話をしてやろう」

ぽつりと、高杉が呟いた。

「古い友人の話だ。そいつにな、好きな女が出来たんだと。それもただの女じゃないぞ。奇怪な服を着て、無駄に肌を露出させて、どこからともなく現れた女だ。そいつも初めは好奇心で近付いたんだが、どうも途中から様子がおかしくなってな。どうやら、すっかりその女にいかれちまったらしい」

そこまで耳にして、どこかで聞き覚えがあると、あやねはぼんやりと思った。

「それでまぁ、話は省くが、二人は恋仲になった。奇怪な服を着た女も、そいつに言われて着物を着るようになったらしい。それは、よかったんだがな。それである日のことだ。その女が、以前着ていた奇怪な服を着たんだと。そいつも、少し前まで当たり前のように目にしてた格好だ。もちろん見慣れてるはずだった。だけど、恋仲になってから見てみると、全然違ってな。奇怪な服を見ながら、そいつはこんなことを考えたらしい」

それから少し押し黙って、高杉は言葉を続けた。

「あいつはあんなに足を出して町中を歩くのか?通りすがりに何人の男に肌を見せる気なんだ?ああもうその格好で小五郎に近付くな!」

あ。と、あやねはそこで気付き、少しだけ、笑った。

「こら、笑い事じゃないんだぞ!」

小さな笑い声を耳にして、安堵した表情を高杉は浮かべる。

「それでそいつは考えた。どうやって奇怪な服から着替えさせようかと。どうやらその女は、自分だけ着物だったのを気にして着替えたと言うんだ。それを聞いてそいつは、いいことを思いついたわけだ。一人だけ着物が嫌だと言うなら、その女も洋装にさせればいいって。単純だと思うだろ?」

男ってのは惚れたら馬鹿になる生き物でな。と言って笑う。

「それで善は急げと、そいつはさっさと仕事を終わらせて洋服を買いに出掛けたわけだ。でもな、そこで問題が発生した。女物の洋服が、どこにも置いてない。どうやら全部、特注で作らねばならんらしい。早くても出来上がるのは数日後なんだと。そいつは困った。本当に困った。数日も我慢出来るか、って店で叫んだほどだ」

その様子が、あやねにはあっさりと想像出来た。

「でも出来ない物は仕方ないからな。そいつは大人しく家に帰った。それで着物に着替えてから、大福とやらを買いに行ったっきり帰って来ない女を迎えに行ったんだ。それで、おわり。どうだ、男ってのは馬鹿だとよく分かる話だろう」
「……どうして、その男の人は、着物に着替えたの?」

そこでようやく口を開いたあやねに、高杉は答える。
赤と橙の、鮮やかな色合いをした着物が夜風に揺れていた。

「俺が着物を着ていれば、あやねも着物を着るかと思ってな!」

そう言って振り返った彼の、屈託の無い笑顔を見て彼女は思う。
ああ、艶やかな人。





20101010


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