珍しく静かな朝だと思いながら、私は目を覚ました。
目覚まし時計の無いこの世界で、代わりに私を起こすのは晋作さんの役目だった。
決して私から頼んだわけではないし、出来れば寝顔を覗くのはやめて欲しかったけれど、すっかりそれが日常となっていた今日この頃。
それなのに今朝は、彼が居ない。
珍しいこともあるものだと思いつつ、寝ぼけ眼をこすりながら私は厠に向かった。
浴衣のままでぼんやりと廊下を歩いていると、遠くからドタドタと落ち着きのない足取りが聞こえてくる。
朝から騒がしいなと思いながら、角を曲がったところで、私は晋作さんとぶつかった。
ぼんやりと気を抜いていた体は、真正面から衝撃を受けて後ろに倒れこみそうになる。きっと頭にたんこぶが出来るだろうなと、痛みを覚悟した。
けれど後頭部に訪れたのは痛みではなくて、温かい掌で包まれる感触だけ。
そしてそのまま、私は押し倒されるような格好で廊下に倒れた。
掌で支えられた頭は痛むこともなく、彼の体重も体に圧し掛かることはなかった。
ただ、唇が。
唇だけが、彼との衝突を避けられなかったようだった。
ファーストキスを持って行かれたなと思いながら、とりあえず事故としてノーカウントとすることにした。





そしてキスして





「事故だから大丈夫、って言ったんです」

私がそう答えると、桂さんは困ったような顔をした。
今朝の事故から晋作さんがおかしかった。よく変な人だとは思っていたけれど、いつにも増しておかしかった。
それに気付いたのは私だけではなく、桂さんもだったようで。夕飯の材料を2人で買いに行った帰り道に、こっそりと彼に何かあったのかと聞かれたところだった。

「あやねさんは、その、そう言う事があっても平気なのかな」

言いづらそうに桂さんが口を開く。

「そっ、それは平気というか、その、キスぐらいなら」

急に改まって聞かれたものだから、途端に恥ずかしくなる。

「きす?……未来では呼び方も、価値観も違うのか」

一人、なにか納得したように桂さんは頷いていた。
キスがそれほど一大事だとは思えないんだけどなと、考えながら歩いていると、藩邸が見えてきた。

「どうせ晋作のことだ。縁側で三味線でも弾いているだろうから、ちょっと説明してきてやってくれないかな」
「説明、ですか?」
「そう、あやねさんが平気な理由をね」

そうしないと晋作はしばらく立ち直れないだろうから。そう言って桂さんは、目を細めて笑う。
不思議に思いながらも、私は庭に足を向けた。
遠くから三味線の音が聞こえてくる。
その音は以前に聞いたものと違っていて、ずいぶんと音が外れているように思えた。
その外れた音色を聞きながら、縁側に向かうと、そこには思いつめた顔をした晋作さんが居た。
どうしてかは知らないけれど、しばらく立ち直れないという桂さんの言葉は、大げさでは無さそうだった。

「晋作さん」

声をかけたと同時に、彼が弾いた三味線の糸が一本、ブツンと切れた。
あまりのその驚きように、こちらの方が驚いてしまう。
そんなに力を入れなくてもいいのにと、思わず笑い声がこぼれた。

「あの、今朝のこと、桂さんに説明してくれって言われて」

そこまで聞いたところで、晋作さんは、何かショックを受けたような表情をしてから、顔を背けた。

「聞きたくないっ!」

そう言って、子供のように拗ねてみせる。
その態度を不思議に思いながら、私は彼の隣に腰掛けた。
平気そうにしている理由を説明してくれと言われたけれど、どうやらこの世界ではキスが一大事らしい。
晋作さんがこちらを振り向くのを静かに待っていると、顔の半分だけがこちらに向けられた。
その頬が紅いのは、夕日に照らされているせいだろうか。

「どうしてお前は、口吸いして平気で居られるんだっ!」
「口吸いっ?」
「あやねが口吸いに慣れてるなんて、いやだっ!」

その生々しい呼び方に、一気に顔が赤くなる。

「じっ、事故だから、仕方ないかなって。友達とふざけてキスしたこともあるし……」
「きす?」
「口吸いの、こと」

友達としたキスは頬っぺたにだったけれど、それはわざと付け加えなかった。
すると、それを聞いた晋作さんは、絶句する。
そして、未来は世も末だ、と意味の分からないことをうな垂れたようにして呟いた。
なんだか、キスに関しての認識は、この世界と違うような気がして焦ってしまう。挨拶代わりとは言えないけど、道端でそうしてるカップルだって居たし、決してここまで過剰反応するほどじゃないと思う。
この世界では、キスがどういう意味合いなのかと思い、私は首をかしげた。

「こっちの世界だと、キスってしないの?」

その言葉に晋作さんは、歯切りの悪い言葉で答える。

「口吸い、じゃなくて、キスは……恋仲にあっても最後だ」
「最後って何の?」
「いや、聞かなかったことにしてくれ!」

はっとしたように晋作さんは叫んだ。その顔は赤く、もう夕日のせいだとはとても思えなかった。

「その、この世界では違うかもしれないけど、未来ではキスってそんなに大変なことじゃないから、気にしてないよ」

いつまでたっても落ち着きのない晋作さんを、落ち着かせるために私はそう声をかけた。
100パーセント気にしてないと言ったら嘘だけれど、少なくとも彼をここまで思いつめさせるほど、気にしていないのは事実だった。
半分だけ向けられていた顔が、しっかりとこちらに向けられた。

「……気にしてない、か」

そう呟いたかと思うと、晋作さんの視線が途端に真剣みを帯びた。
かすかに細められた目元は、いつもの表情とは違っていて、見つめられるだけで顔が火照りそうになる。
その視線に居た堪れなくなって目を反らすと、晋作さんは私の顎に指先で触れた。
そしてゆっくりと顔を持ち上げられる。
そのまま鼻先が近付いてきたかと思うと、唇が触れそうな距離でそれはピタリと止まった。
今まで経験したことがない至近距離に、恥ずかしくて死んでしまいそうで、私はすっかり動けなくなる。
唇が触れそうな距離で、晋作さんの唇がゆっくりと開いた。

「このキスは、気にしてくれるか?」

何か言葉を口にしたら、きっと唇が触れてしまうだろう。
そのまま動けずに居た私の、答えを待たずに距離が詰められる。
そっと触れられた唇は優しいのに、向けられた視線の熱さに頭がとろけそうだった。
唇で唇を咬むように、柔らかく撫でられるその感覚に、耐えられなくて目を細める。
このキスは気にしてくれるか、なんて言われたものの。
とてもじゃないけれど、一生忘れられそうに無い。
そんなことをぼうっと思っていると、不意に、唇に彼の舌先が触れた。
濡れたそれに唇を撫でられて、私の体はビクとはねる。
その、思いがけない感覚に驚いて、私は晋作さんを両手で突き放した。

「しっ、晋作さんっ?」

目を白黒とさせる私を目にして、彼はきょとんとした顔をする。
まるで、舌で触れ合って当然だろうとでも、言いたげな顔だった。
確かに未来でもそう言うキスがあるのは知ってるけれど、当然のようにそうされるとは思ってもいなかったから。
私は口元を両手で隠すようにして、晋作さんを睨む。
でも、いくら睨もうとしても、顔に力が入らなくて、実際は情けない表情をしているはずだった。
そんな私の様子を、不思議そうに眺めていた晋作さんは、しばらくしてからケラケラと笑い出した。

「ああ、そうか!そういうことか!あやねには、まだこれは早かったか!」

何がそうかはしらないけれど、彼はえらく上機嫌だった。
先ほどまでの拗ねていた姿はどこへ行ったのだろうか、今度は私のほうが拗ねたい気分だと、人知れず思う。
そんな私を、晋作さんは自分の胸元に引き寄せた。
子供をあやすかのように、私の頭をよしよしと撫でる。
いまだによく状況がつかめないまま、私は何か言いたげな顔で、晋作さんに視線を向けた。
その視線に気付いたのか、彼は優しげな表情を浮かべて、声をひそめてこう囁いた。

「これからゆっくり覚えればいいさ」

どこか甘さすら感じる言葉に、私の頬は夕陽に染まる。





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