月夜にまた
 同じ黒であっても、星ひとつ見えない夜空よりも吸い込まれそうなほどに暗い海の方がよほど恐ろしく、そして身近だった。

 船首が水を切るよりほかに波は立たず、信じがたく凪いだ海原はまるで死んだ湖のように静かで不気味で、それがこの辺りの海域の特徴だと知ってはいても内心穏やかではいられない。初めて凪の帯を行く若い兵たちはもとより、幾度も経験のある佐官連中ですら常よりも余分に気を張り詰めているのは、ここではその経験も常識もあまり役には立たないことを知っているからだ。
 日没から数時間、所々で見え隠れしていた星空は今では完全に分厚い雲に覆われている。ろくに速力を上げることもできずにのろのろと進む艦の上からでは、何処を見渡そうとも寄る辺となる月の光も丘の灯りも見出すことはできなかった。指針の番をする航海士くらいは行く先の何もかもを見通していてもらいたいものだが、舵の傍らでその任に当たる大尉は時計の針ばかりを気にして一向に落ち着かない様子であった。あと半刻ほど、真夜中までには抜けられるはずだ、というのが彼の見立てであったし、ほとんどのクルーも概ねそのように見当を付けていた。その間何事も起こらないようにと誰もが願い、しかしあまりにも変化のないさまがことのほか息苦しく、いっそ何かが起これば、それも目まぐるしく次々と見舞われれば、と馬鹿げたことを考える者も少なくはなかった。
 そうして言葉にはせずとも皆が頭の端に思い浮かべたのは、「あの歌がちらとでも聞こえてくれば」というわずかな希望と多大なる諦めだった。あれは荒れた海でしか聞こえないのだ。そもそも嵐の中でかすかに聞こえるそれが何かの歌声なのか、単に吹き荒ぶ風の鳴く音なのかも定かではない。だからそれよりは、と誰かが呟き、また別の一人が少なくとも、と囁いた。少なくとも、怪しげな歌声や己自身よりも信ずるべきものが二つある。ひとつは大尉が持つ永久指針と、この艦の責任者がかの大将黄猿であるということだ。

 はたして午前零時を目前に艦は凪の帯を抜け、まともな風と波とのお陰で至極順調な航海を続けていた。あと二、三時間もすれば日が昇る。その頃には目的の島も見えてくるだろうと大尉が一息つきかけた時、隣で舵を握る少尉が不意に訝しげな声を上げた。これは、と言ったきり黙り込み、暗闇を見渡して眉根を寄せる。同じように気づいた幾人かが船端に駆け寄ったその瞬間、何かに乗り上げたかのような大きな衝撃と轟音とが艦全体を揺るがした。座礁したのであればそのまま止まるだろう、しかし奇妙なことに艦は進み続け、それどころか速度を上げたり下げたりとまるで出鱈目な走り方をする。進路を外れて大きく舳先が傾きかけては元へと戻るのは何か特殊な海流の所為か、それとも意思を持った何者かの仕業か。何であれ潜って確かめようかと逸る一人が縁に足を掛けたところで突然動きが止まり、あとは端から何事もなかったかのような静けさを取り戻した。何かは過ぎ去ったらしい、何なのかはわからないが。
 そう一通りの報告を受けた大将はいつものように気楽に微笑み、規定通りに、とだけ言って手にしていた新聞を再び広げた。何処だったかねえとひとりごち、規定通りにと困惑気味に復唱する大尉には目もくれず読みかけの記事を探す。一時停泊、艦に異常がないか確認、ほかに何か指示が要るかい?
 は、と短く敬礼した大尉の足音が遠ざかっていったあと、目新しい出来事のない紙面に飽きたところで大将はうんと伸びをした。時計をちらと見上げて頬杖をつき、しばらくは黙念として締め切ったままの窓の外を眺める。あの程度であればまず艦に異常はないだろう。何かがあるとすれば──十中八九はそうだと分かってはいたが、この艦の外、未だ暗い海の中にある。
 それを確かめるために彼は腰を上げ、扉を開いて人気のない甲板へと足を向けた。作業は衝撃の強かった左舷船首や船底付近で行われていて、全ての確認が終わるまでは余程のことがない限りこちらへは来ないはずだ。次の報告までの時間を見積もりながら煙草に火をつけ、雲の切れはじめた夜空を仰いで一口目を吸い込み細く吐き出す。少し風が強まった。青白い煙も独特な香りも留まることなく掻き消され、暗闇と潮の香りとが瞬く間に押し寄せる。彼はその一本を吸い切るまでの間、ずっと暗い海を眺めていた。時折船尾の灯りの届かぬ所で何か白いものが閃き、まるで煙のように波間へと消えてゆくのを見つけたからだった。これ以上近づこうとはせず、けれども離れがたいとでも言いたげに幾度も翻るそれが、単なる魚の鰭でも皆が噂するような得体の知れぬ何かでもないと彼だけは知っていた。だからボルサリーノは火を消し身を屈め、船縁に肘をついて一呼吸置くと静かに口を開いた。出ておいで、の一言では寄り付かず、他は誰も居ないから、と言ってようやく灯りの下へ姿を現わす。さざ波立つ水面から濡れた暗い色の髪と白い鼻先が覗き、薄い唇と顎とが次第に見え、波に揺られるがまま上下する肩と胸元までが夜気に晒される。魚ではない、ひとりの、女の人魚が彼を見上げて揺蕩っていた。

「さっき艦を止めたの、まさか君じゃあないよねェ」
「いいえ、大きなエイの群れが通り過ぎていったので、それかと」
「エイ?これが乗り上げるほどのか〜い?」
「はい、物凄く大きな……寝ぼけていたのかもしれません。危険な種ではないです」

 この知らせは操舵室にも伝えてやった方がいいのかもしれない。しかし彼は通信機を自室に忘れてきていたし、もとより船外に問題がなければしばらくは艦を動かすつもりもなかった。肘をついたまま海面を見下ろし、口をつぐんで一心にこちらを見つめる彼女をとっくりと眺め、彼もまた何も言わずに口元をわずかに緩める。
 この二年の間、彼はジョアナの気配や歌声には何度も気がついていたが、こうして顔を合わせるのはあの日以来のことだった。あの日、二度と目にすることはないと思っていた彼女の姿は、仄暗い灯りの下ではほとんど変わったところがないように見える。ただ一つ、髪は、と言いかけ、後ろで結えているだけだと気づいて彼はいつも通りの笑みを浮かべた。

「あの、ボルサリーノさん……」
「ひとに寄るなって言ったよねェ」
「はい、でもあなたは……」
「わっしも含めてだよォ、ひとってのはァ」

 この艦にどれだけの兵が乗り込んでいると思っているのか。姿は見えなくとも気配を感じ取ることが出来る連中は彼の他にもいるし、ただでさえジョアナの歌声を聞いたという者が大勢いた。気味悪がっているだけなら放っておくが、その内確かめようと言う者が出てこないとも限らない。
 仮にクルーに姿を見られたとしても、海中であれば無論逃げ切ることは出来るだろう。けれどいつ何処に人魚が現れるのか、それが間違いのないことだと何某かに伝わればどうなるのかは想像に難くない。

「君は死んだことになってるけどねェ、見つかったとなりゃあ話は別だ」
「それはどうして……」
「ああそうかァ、全部言ってるヒマが無かったんだったねェ。あのあと君を探してるってのがこっちに来たもんだから、そういう事にしといたんだよォ」
「そうでしたか……あれから二年も経ちますけど、まだ探そうとするでしょうか」
「さァ……『二年も』と思うか『二年しか』と思うかはひとによるだろうねェ。それに元の飼い主だけじゃあねえ、相場は下がるが女の人魚ってのは股が割れてもそれなりの値が付くだろう」

 知らないはずはないがと続け、しかしそれを理由に捨てられた彼女にとっては価値など見出しようもなかったのかもしれないと思い至る。種の違いだけで忌諱されることもあるのだから尚更だ。とは言えひとに近づいて良いことなど何もないと、十数年前にその身に降りかかった出来事を思い出さなければいずれまた酷い目に遭うだろう。

「君はひとに捕まってああなったよねェ。折角自由になったんだ、いつまでもこんな艦に張り付いていないで、何処へでも行けばいいじゃあねえか」
「行きたい所が思いつかないんです。何処に何があるのかもあまり知らなくて……」
「だからって海に出るたびこうも寄ってこられるとねェ……とにかく、わっしもあれらと同じなんだから、もう来るのはこれっきりにしときなァ」
「もし同じだったら、彼らに引き渡すか売るかしていたんじゃないでしょうか……でもあなたは助けてくれました」
「そりゃあ売りはしねえが……今でも丘に上げたくてしょうがねえってことだよォ。わっしにとっちゃあ、まだ二年なんでねェ」

 忘れるには短すぎる上にこれまで幾度もジョアナの歌声を耳にした。大時化の中かすかに聞こえてきたそれは、はじめは忘れたくないがための幻聴かと思ったくらいだ。そのうち嵐の時に限らず、歌声が聞こえなくとも時折彼女の気配を感じるようになった。彼が何のために手放したのか、何故手を尽くして彼女の存在を隠したのか、知ったことではないとでも言わんばかりに何度も彼女は現れたのだ。海中深くに潜っていれば誰であれ──彼であっても、そう易々と手を出すことなど出来ないというのに。
 そう思うと苛立ちを覚えるくらいだったが、逃したのも未だ求めるのも彼の勝手であったし、意を汲むことをせず近づいてくるからと言って腹を立てるのは筋違いな話だった。そもそもわけなど何一つ話していなかったのだから。彼は彼のしたいようにしてきたし、ジョアナもまたそうしているだけだ。

「確かに拾って助けはしたけどねェ、ありゃあ下心があったからだ。恩を感じることはねえんだよォ」
「でも逃してくれて……だから、あなたがそうしたいなら……」
「ンー、そいつぁやっぱり無理だねェ。君のことは好きだよォ、ジョアナ。ずうっと手元に置いときたいし、何処にも行かせたくはねえんだけども、そうするとあの時逃した意味が無くなっちまうからねェ」
「ほんとうに……本当に私がそちらに行くのは駄目ですか?あの……あれから私、歩くことにも少し慣れたんですよ」
「……歩く?」
「はい、まだ長い時間は難しいですけど、もっと練習したら……」

 ジョアナの言葉を遮ったのは突然の眩い光だった。あまりにも強烈な光に彼女は思わず顔を背け手を翳し、しかしその手首がぎりりと掴まれたと感じた瞬間、物凄い力でもって身体ごと海面から引き上げられた。痛みと眩しさとで細められた彼女の目に、今の今まで高く見上げていた男の顔が間近に映る。

「丘に上がったってことかい」
「え……」
「それとも郷に帰ったのかァ?」
「いいえ……あの……」
「じゃあそこらの島に上がって歩き回ったってことだよねえ、その足で」

 口元だけの笑みは絶やさず、しかし眼鏡越しの両の目は冷たく彼女を見据えた。喉元に張り付く幾筋かの髪も波間に溶け込んでいた二股の尾鰭も、互いの息遣いさえ感じ取れるこの距離でならよく見える。
 ジョアナはもう一方の腕を力の限り伸ばし、強く握り締められた彼の手にやっとのことで指を掛け手首を掴んだ。相手の表情を窺う余裕もなく硬く目を瞑り、それでも何とか声を絞り出して言葉を繋げる。

「ひとが……居ない島です……」
「君の足で歩けるほどの陸地があるんなら、たとえ無人島でもまったくひとが寄り付かないとは言えないよねェ」
「すぐに……逃げられるところにしか……」
「海の中に居たって顔を出してりゃこうして捕まっちまうんだから、その足で逃げ切れるわきゃねえよなァ。この艦に着いてきてたんならそれなりに厄介な連中を見てきただろォ?君がああいう手合いから逃げられるとは思えねえが、海中ならまだ何とかなるじゃねえか。なのにどうしてここから上がろうとするかねェ……」

 そう言って彼は深いため息をひとつ吐き、わずかの間を置いてジョアナの手首を放した。縋る彼女の手が、指の先が、彼の腕から滑り落ち、激しい水飛沫が上がる。その大きな水音が届くよりも先に彼は船上へと戻り、白く泡立つ水面を見下ろしながら乾いた首の後ろを摩った。そのまま逃げて行けば良いがと思い、しかし躊躇う様子もなく旋回して浮かび上がった彼女の顔を見た時、もういっそのこと、と彼は腹を決めて微笑んだ。それを言えばジョアナに枷を嵌めるのも同然だと分かってはいたが、きっと彼女の方では気にも留めないだろう。

「ごめんなさい……私、あなたに……」
「ねえジョアナ、もし君が恩を返したいと思っているなら……それか、わっしを想う気持ちがあるんなら、わっしのために生きちゃあくれねえか」
「え……」
「わっしはねェ、この海の何処かで、君が好きなように生きてると思いてえんだよォ。狭い水槽の中でただ生かされてるだなんて、そんなのは御免だねェ」
「……何処かでないといけませんか?」
「そりゃあ、君の生存が知れたら危うくなるのは君だけじゃあないからねェ。死亡報告したのはわっしなんだ、隣に君が居たら色々とマズいでしょう。だから……」

 また他の誰かに囚われるくらいなら、広い海の何処かでひとり、この想いに縛られて生きていけばいい。どれだけ離れていようが孤独だろうが、君を想う者がそれを望んでいるのだと、ずっと忘れずに生きていればいい。

「だから……何処へ行ってもいいし、島に上がりたいならそうすりゃいいが、まずは君の身の安全だァ。何をするにしても気を抜かないように、わっしの言ったことォ忘れないようにねェ」
「はい、それは必ず……あの、もし仰るように私の好きにさせていただけるなら、時々またこちらに来てもよろしいでしょうか」
「……話ィ聞いてたかい?」
「あなたの隣が駄目でも、ここからお顔だけでも見たいんです。今までみたいに遠くから……こんなに近くには寄りませんから、時々、暗い時に、他のひとには見つからないようにするので……」

 測り違えたな、と彼はため息まじりに呟き、ジョアナから視線を外して少し考え込むように遠くを眺めた。彼女の好意にこちらの思惑を上乗せしたところで、言うがままというわけにはいかないらしい。それほどの気概があるとは思えなかったが、と彼は苦笑し、しかしこうして会話をすることなどほとんどなかったのだから、あの日々だけで彼女を知った気になるのもおかしな話だと思い直す。

「参ったねェ……これだけ言っても君がそうしたいんなら、もう止めようがないよねェ」
「じゃあ……」
「そうだねェ……まあ、こうして沖に停泊するなんてなァ、そうはないけどもォ」
「よかった……ありがとうございます」
「あァ、ジョアナ、どうせ来るってんなら、今度は月のある時に出てきなァ」
「え?あ、はい、わかりました」

 これまでとは矛盾した彼の物言いにジョアナは首を傾げ、それでもこれきりではないのだと思うと自然と笑みが溢れた。彼にもそう見えた気がしたが、何せこの艦の灯りだけでは彼女の表情も美しい藍色の髪も満足に見ることは出来なかった。これを外したところで、と眼鏡を押し上げかけた時、彼はふと顔を上げて振り返り、向こうから近づく気配に意識を傾け耳をそばだてた。それが大将の部屋の扉を叩くまであと数十秒、彼は視線を戻して再び海面を見下ろしたが、ジョアナの姿はとうに闇夜の波間に紛れて跡形もなく消えていた。薄く笑んだ彼は緩慢な手つきで煙草を取り出し、誰かが呼ばわる声にのんびりと応えながら火をつけ甲板をあとにした。

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