stand by
はじめて彼女に出会ったとき、それはそれは驚いたものだった。
まん丸に丸められた目がこちらを見つめ、その視線にふと気づいて何の気なしに見返したその途端、彼女は突然ぽろぽろと涙をこぼしてその場に座り込んだ。
ぎょっとして呆気に取られたおれの目の前で、広場のど真ん中で、ほかにも沢山の海兵が居たあの中で、彼女はおれだけを見つめていた。


二日目。
そう、本部に配属されてまだ二日しか経っていない。いや、正味で言うと十数時間ほどだ。なのに何なんだこの嫌な雰囲気は。

ダルメシアン大尉はうんざりしながらため息をついた。支部から本部への栄転で、彼のキャリアはこれまで以上に輝かしいものになるはずだった。もしかしたらあのクソ不味い実を食ったときが頂点で、あとは転がり落ちて行くだけだったのかも…。
そう考えてしまうほど、彼にとって昨日は散々な一日だった。しかし今日の午前いっぱいはもっと酷かった。すれ違う人びとが、それこそ将官レベルのお偉方から下っ端三等兵にいたるまで、皆一様に彼を見やってひそひそ声で囁き合う。彼はその能力のお陰かかなり耳がいい。この広い食堂でも、がやがやと騒がしい中にひそめられた彼の名前を何度も聞き取っていた。決して被害妄想などではない。

「お、有名人。昨日は…」
「煩い黙れ」

同期の顔馴染みがにやけて近づいて来るのもこれで何度目かわからない。数年ぶりに顔を合わせた彼らが「久しぶり」でもなく「元気か」でもなく、決まって「昨日は」と言ってくるたびに大尉の眉間には深い溝が刻まれていった。

そもそもの始まりはこうだ。
このたびの転属で新しい隊の連中との紹介も一通り済み、さて軽く巡邏にでも行こうかというところでそれは起こった。昨日の朝の話だ。
同じように艦へ乗り込む兵士たちが大勢集まるオリス広場で乗船待ちをしていたとき、目の端に映った誰かがじっとこちらを見ていることに気づいた。そして単に振り返った。彼がしたのはそれだけだ。
こちらを見ていたのはひとりの女将校だった。コートの肩章でこの本部の大佐だとわかったが、それ以上のことはこのときには気づけなかった。何故なら彼女はその驚いた表情で固まったまま大粒の涙をこぼし、ぺたりとその場に座り込んでしまったからだ。

面食らったのはこちらだった。まったく面識のない女にいきなり泣かれて驚かない男など居ないだろう。見知った相手でもまごつくのに、名も知らぬ女にあんな態度を取られたら、正直どうしたらいいのかわからない。
幸いにも、すぐに副官らしい男が傍に跪いてハンカチを差し出し、彼女の視線はこちらからそれた。大尉も自分の艦へ乗り込んだ。それ以来あの大佐を見かける機会はなかったが、周りからの視線が痛いほど突き刺さるようになったのはこのときからだった。

ジョアナ大佐、と聞いてもピンとこなかったのに、「女王様」という異名を聞いてはっとした。それなら何度も耳にしたことがある。彼が属した支部にも噂が届いてきていた。
そのご大層な異名はひとえに彼女の愛用する武器に由来する。鞭遣いの女王。数種類の鞭を巧みに使いこなし、捕縛した海賊は数しれず。数メートルもある長いのをことのほか好み、空を切るように振るわれたそれに足元を払われ皮膚を切り裂かれ首根っこを絡め取られた犯罪者どもは苦痛に悲鳴を上げる。
長い黒髪をきちりと結い上げ、どんなときでもポーカーフェイス、薄い唇に深く赤い口紅を引き、同じ色のヒール、黒い革手袋、丸く束ねて腰に引っ掛けた鞭がトレードマークの女王様は絶大な人気を誇っていた。男女問わず、一部大変熱心に崇拝するファンもいるらしい。是非一度大佐殿に鞭打たれたい、と夢見心地に語る輩が幾人もいる、とかなんとか。

その女王様を泣かせた男として、大尉の噂はいっぺんに本部中を駆け巡った。ひそひそと囁かれるのも迷惑だが、好色そうににやけてサムズアップされるのと、無言でギラギラと睨みつけられるのにはいい加減参っていた。繰り返すようだがまだ配属二日目だ。この先一体どうすればいいのやら。

「よっ、色男」
「煩いっつってんだろうが!」
「あらら、上官に対してその態度?」

口調の割に可笑しそうに顔を歪めた長身の男に、顔を青ざめさせた大尉が箸を手にしたまま立ち上がって敬礼した。
クザン中将のことは名前も顔も逸話も知っている、何度か言葉を交わしたこともあったけれど咄嗟に声までは思い出せなかった。これ以上立場を悪くするのは非常にマズい、どうするんだおれ…。
まあ座んなさいよ、と気にする風でもない中将が先に目の前の椅子へ腰を下ろし、相変わらず面白そうに笑っている。弱り顔の大尉は大きな体を縮こませて座り直し、失礼しました、と相手の目も見られずに呟いた。

「一体何があったのよ?皆興味津々だわ」
「何もありません、あれが初対面なんです…私もまったく心当たりがなくて…」
「へえ、てっきりあの女王様の昔の男なのかと…」
「とんでもない、会ったことも話したこともないのにどうしてあんな…」

ふーん、と返す中将は気楽そうに茶をすすり、そうそう、と言ってコートの胸ポケットから封筒を取り出した。
宛名もなければ封もしていない、何の変哲もない茶封筒を受け取った大尉が私に?と問うが、どうやらそうではないらしい。黒眼鏡の奥の目を細めた中将はどこかひとの悪い笑みを浮かべ、まるで内密の話をするかのようにダルメシアンに顔を近づけた。

「ちょっとお使いを頼まれてくんない?」
「は、ァ…何でしょう…?」
「それをね、四階のある部屋まで届けて欲しいのよ。階段出てすぐ左に折れて、突き当たりから二つ手前の扉ね。必ず部屋の主に直接手渡ししてちょうだい、極秘なのよコレ」

じゃ、よろしく、と言って中将は颯爽と立ち去った。残された大尉はどう見ても極秘には見えない封筒を手にしたまま、何故自分なのか何故彼が直接行かないのか、考えても答えの出ない疑問を次々と浮かべては頭を抱えた。


十分後。
廊下ですれ違ういくつもの視線を無視したダルメシアン大尉が階段を踏みしめ、四階へと向かう。言われた通りに訪れた扉を叩いてはみたけれど、ばたばたと忙しない音が響いてくるだけでこちらに対する応答はなかった。
少し間を開け、もう一度ノックし、今度はクザン中将の使いだと告げるとようやっとどうぞ、という声が聞こえる。聞こえたのは女性の声だったが、事務官か誰かだろうとそれほど深く考えもせず足を踏み入れた。しかし事務官ではなかった。部屋の主、ジョアナ大佐本人の声だったのだ。あのグラサンノッポが、と思わず言いかけて飲み込み、咳払いをして直立不動の姿勢を取る。

「お…お忙しいところ失礼いたします、クザン中将よりお届け物です…」
「中将が私に?何かしら」
「は、極秘だとか…必ず手渡しするようにと…」
「そう、ありがとう」

噂通り、ニコリともせず彼女は封筒を受け取った。椅子に腰掛けたまま、大尉のことをちらと一目見ただけで、昨日のような反応を見せることは一切なかった。
彼女だとわかったとき、また厄介なことになるぞと来るべき衝撃に備えて奥歯を噛み締めていた彼は拍子抜けして棒立ちになった。これだけ?ともう少しで口にするところだった。そんな大尉を怪訝そうに見上げ、分厚い資料を脇によけた大佐は眼鏡に手を伸ばすと今度は封筒に目を向ける。

「まだ何か?」
「いえ…」

ほんとうに、これだけだ。
これだけになるはずだった。
肩の力を抜いた大尉が扉のノブに触れるか触れないかというそのとき、何処から出たのかもわからないほど素っ頓狂な声が後ろから聞こえ、反射的に振り返ってしまったのだ。

「ちょっと、あなた…ダルメシアン大尉と言うの…?」
「は、はあ、そうですが…」
「き…きのうの…?」
「ええ、はい…」
「でも…昨日はあなた…え?え…?」

ああそうか、だから気づかなかったのか。
先ほどのなんでもないような態度は、彼の素顔を大佐が知らなかったからだ。それもそうだ、昨日久しぶりに会った同期たちと能力云々の話をしていたとき、彼はこちらではなく…

「これですよね、昨日見たのは」
「…フィフィ……」

そう考えもせず半獣型に姿を変えた大尉はびたりと動きを止め、何故こうしてしまったのだろうかとひどく後悔した。そのまま立ち去るか人型で居るべきだったのに。
椅子から立ち上がり、じっと彼を見つめる大佐の両目いっぱいにまたしても大粒の涙が溜まっていた。今にもこぼれ落ちそうな、と思った瞬間つるりと頬を伝った雫が顎からデスクへぽたりと落ちた。

それで、フィフィって何だ…?

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