honey 3
今週に入ってもう二度だ。
新しい少尉が出動すると、必ずと言っていいほど怪我をして帰ってくる。
それは捻挫だったり擦り傷だったりたんこぶだったり、重症とまではいかないけれど、いつもつまらぬ傷をこさえてきまりの悪そうな顔で医務室の扉を叩く。
あまりにも頻繁に訪ねてくるものだから、ドクターのひとりが廊下で行き合った彼女の上司を思わず呼び止めたくらいだった。
近頃はずいぶん危険な地へ赴かれるようで、船医の数を増やしてみてはと控えめながらも意見する古参の老医師に、赤犬は訝しげに眉根を寄せる。

「船医は十分足りちょるが…」
「はて…それにしてはいささか繁過ぎる気も…」
「何が…」
「ジョアナ少尉、と仰いましたか…動物系の。この程度じゃ艦の上では迷惑がかかるからと言って、今日もこちらにおいでに」

ご存じなかったので?と心配げに見上げる医師をよそに、赤犬は踵を返して己の執務室へと向かっていった。
その荒々しい足取りに老人は目を丸め、長い顎髭をさすった。怪我人が多く、医師の少ない船上で治療が受けられない、と言うわけではなかったらしい。
余計なことを言ったかなとひとりごち、段々と離れていく大きな赤い背中を見送った。


ことの次第を問い詰めようとした大将が彼女を見出だしたのは、結局それから四日後のことだった。いつもなら用もなく執務室に居座る少尉が、その間珍しく姿を見せなかったからだ。
本部の中でも艦の上でもなく、偉大なる航路のある島で任務にあたっていた赤犬は、戦場を走り抜ける黄色い猛獣を遠目に捉えて無意識にその姿を追った。
敵の刃を掻い潜り、味方の放つ銃弾を器用にすり抜けるジョアナは、相も変わらず縦横無尽に駆け回る。素早く確実に敵の足元を崩していく彼女の走りはいつも通りだ。
そのはずだったのに、彼はある違和感に気づいて目を細めた。瞬間、危うい具合に曲がった軌道の先でとてつもない轟音が響き渡る。

「あいつはっ…!」

舌打ちと同時に走り出した大将が駆け付けると、そこには意識を失ったジョアナがヒトの姿で倒れ伏していた。ぶつかられた薄汚い海賊も完全にのびていたが、厄介だったのはその男が手にしていた海楼石の盾だろう。
黄色の獣がそれにしたたかに頭を打ち付けるのを赤犬は見たのだ。

「散れ!」

大将の大音声に怯んだのは海賊ではなく海兵たちだった。
そのあとに何がくるのかわかっている彼らは、今まで向かい合っていた敵に目もくれず皆一様に退却した。
ぽかんと呆けた顔で立ち尽くす海賊どもが次に見たのは、赤と黒の大きな波だった。それがこの世での見納めになった。


赤犬は艦の治療室で腕を組み、少尉が目覚めるのを待っていた。妙に気の立っている彼の様子に船医たちは言われるまでもなくその場を離れて甲板で仕事をこなしていたから、静かな部屋には彼ら二人しかいなかった。
苛々と人差し指を動かし、奥歯を噛み締めて目の前の兵を無理矢理叩き起こしてしまいたいのをなんとか堪える。
そうしている内に彼女の瞼がふるりと震え、徐々に覚醒していくのに気づいた大将は腕組みを解くとベッドに近づいた。
上官の顔とそれに浮かぶ表情をぼんやりと認識した少尉の口から、弱々しい声が漏れる。
すみません、と言った。が、彼が聞きたいのはそんなことではない。
手負いの部下をそれ以上気遣うこともせず、赤犬は単刀直入に問い掛けた。

「何故目を閉じちょる」
「…あ…あの…」
「今までも何度かあるんじゃろうが、何故だ」

厳しい表情を崩さぬ赤犬はそれでも沸き上がる怒りを押さえて彼女を見下ろした。
小柄な身体をさらに縮こめて見上げるジョアナはひどく怯えた顔をしている。

彼女ほどのスピードで障害物にぶつかれば、その速さはやがては彼女自身を殺すことになる。
目を閉じて戦場に立つ馬鹿はどこにも居ないが、それをした上でひとの限界を越えた速度で駆け回る大馬鹿者はそれがどれほど危険なことなのかわかっていないらしい。
自分だけでなく味方の海兵までも巻き込むことになりかねないし、それでなくても戦力のひとりが自滅したら尻拭いをせねばならぬのはやはり周りの海兵だ。捨て置けと言ったところで、必ずひとりはこいつのために足を止めることになる。
彼自身がそうだったのだから。

「さっさと理由を言わんか」
「……て…」
「ああ?」
「こわくて…」

相手が何を言ったのか理解するまでほんの数秒を要したが、理解した途端に彼は呆れてため息をついた。
この少尉のことは気に入ってはいた。執務室に居座ることは別にしても、言われた仕事は必ずこなすからだ。そこいらの男どもより余程身軽だし、的確に敵を仕留めて戦果を上げる。
まだまだ若いが有能だ。動物系能力者は今の彼の隊には居ないから、貴重な人材でもある。育てがいもあるだろう。
しかし、とんだ見込み違いだったようだ。

「去れ。この艦に臆病者は要らん」
「ま、待ってください!それだけは駄目なんです!」
「煩い、敵を恐れて目も開けられんような兵は海軍に必要ないわ」
「海賊が恐いわけじゃないんです…」

迫りくる敵に恐怖を感じてのことではない。であれば、と問い返した赤犬に、ジョアナはぽつりぽつりとその胸の内を明かしていった。

元々運動能力が高く、身近に海兵もいた所為かいつしか自分も世のため人のために働きたいと思うようになった。
十五の頃に口にした悪魔の実のお陰で、入隊直後から方々の海で活躍することができた。
下っ端の時分から前線に駆り出され、戦うこと数十回。その度に敵を蹴散らし、鋭い爪を突き立てた。
ただ、どんな時でも急所は外した。彼女は例え相手がどんなに極悪非道の犯罪者だろうと、殺すことはしなかった。
悪人はこらしめて監獄へ。いつしか彼女の正義は「殺さずの」と形容されるようになっていった。

しかし実際はそうではなかった。
一度だけ、彼女はひとを殺めたことがある。
ある小さな島で、逃げ惑う丸腰の住民に暴虐の限りをつくし、こともあろうか子どもにまで襲いかかっていたあの海賊。
気づいた時には口の中に鉄の味が広がっていた。相手の喉笛に噛み付き、強靭な顎でもって首の骨を砕いた、らしい。食らい付いて決して離そうとしなかったのを、仲間が三人がかりで引き離したのだという。すべてが終わったあと、ひきつった顔の同僚からそう聞かされた。
己の能力がその持ち主の無意識下で引き起こした出来事に、彼女は恐怖を抱いた。
自分の奥底にある狂暴性や簡単にひとを殺めることができる力を心底恐れた。
それ以来、目を開けることができなくなった。目に入る光景に激昂し、いつまた我を忘れてしまうとも限らない。

「…何度かではなく、今までずっとか」
「はい…」
「周りも見ずにどうやって立ち回っていた」
「匂いと…見聞色の…」
「覇気か」

呆れた話だ。こんな不安定な覇気遣いが実地で戦うなど聞いたこともない。
中途半端な力で戦場に立つことほど危険なことはない。なおかつ、彼女は己の力に怯えている。
それに耐えられないのならやはりこの場を去るべきだ。彼女は海兵に向いていない。特に、徹底的な正義を掲げるこの大将の部隊には。

「どうしてそこまでして軍に居たがる、他にも生きていく道はあるじゃろう」
「ある人のため、です…」
「誰の」
「戦いで傷付き片足を失った…彼の足になる為です…」

八年前、大将を庇って大怪我をしたある海兵のことを瞬時に思い出した赤犬は目を丸めた。
髪の色も顔の作りもまるで違うのに、あのときのあの男と今のジョアナは驚くほどよく似ていた。半分は同じ血が流れているとは言え、今まで似ていると思ったことはなかったのに。

背後から迫る敵に気づいていないわけではなかったし、切られたところで自然系の彼にとったら避ける手間より眼前の敵をまず倒してしまいたかった。
よせばいいのに必死になって駆け付けた若い海兵は、大将に変わってその刃を足に受けた。下から振り上げられた白刃に腱も骨も断ち切られ、絶叫して地に伏した。
数時間後、ベッドに横たわる彼を見舞った赤犬は、失った片足の辺りを見つめて苦々しげに呟いた。
バカタレが、と。苦しそうに口の端を曲げたあの男は、あなたの為なら、と返した。
あの武器が海楼石で作られていたと知ったのは、それからさらに数時間の後だった。

その男の足となり、彼になり変わって多くの敵を捕まえ、ひとりでも多くの人々を助けたい。叶えられなかった彼の夢を、どうしても叶えてあげたいから。
ジョアナはそう言って大将を真っ直ぐに見つめた。
それを真正面から見返した赤犬は、もう一度ため息をついてキャップを目深に被り直す。

あの時、あの男は何と言った?
決して諦めません、まだ出来ます、半年お待ちください、必ず復帰します。
その通りにあの男はやり遂げた。現場に出ることは叶わなかったが、今でも彼は海兵だ。
その男とそっくり違わぬ意思の強い二つの瞳が、じっとこちらを見つめている。

「お前に兄貴ほどの根性があるかどうかはわからんが…」
「え…?」
「わしがその目を開けさせてやる、覚悟しておけ」

背を向けて立ち去る間際、大将が放った何かをジョアナは反射的に腕を伸ばして掴み取った。
掌を広げてみるとそれは金平糖の小袋で、開いた口から桃色のひとつが転がり落ちた。

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