honey
 カリカリと何かをかじる音。
 扉を開けて聞こえたそれに、赤犬大将の眉間の皺がいつもより余分に深く刻まれた。この海軍本部で鼠を見かけたことなどついぞなかったし、リスか、とも考えたが己の執務室に小動物が紛れ込むことなどまずないだろうと思い直す。念のため今来た廊下を振り返ってみても生き物の気配はひとを含めてまるでない。間違いなく部屋の中からの音だった。
 訝しげに眉根を寄せたまま彼は自室に足を踏み入れ、扉を背にした馬鹿でかいソファを回り込んで見下ろした。ほとんど瞼の閉じ掛かった女がひとり、肘掛けにもたれてまどろんでいる。

「おい」
「……ン?」
「ここをどこじゃと……」
「……おにいちゃん」
「ああ?」

 ふにゃりと微笑んだ見知らぬ女に赤犬の動きは完全に固まった。そのまま頭を傾け、どうやら本当に寝入ってしまったらしい。小柄な身体を更に縮めて安らかな寝息を立てている女をまじまじと見ても、彼にはまったく覚えのない顔だった。女、というより少女と表現した方がいいような、まるで化粧っ気のない幼さの残る顔と癖のある蜂蜜色の短い髪の所為か、年端もいかぬ少年に見えなくもない。だが声は女のそれだった。
 そこまでを至って冷静に考えた赤犬は、しかしこれは一体、と自問せずにはいられなかった。一体、こいつはここで何を?少なくとも、こんなに年の離れた妹など自分には居ないはずだ。己の知る限りでは。彼は考えうる限りの可能性を思い浮かべては片っ端からそれを打ち消していった。どれも現実味に欠けていて、思わず馬鹿馬鹿しいと呟きながら指先で目頭を押さえる。存外疲れているのかも。ここのところろくに眠っていなかったから。
 ぱらぱらと何かが床に跳ね返った微かな物音に気づき、赤犬は再び彼女に視線を戻した。握りしめていた小袋からこぼれ落ちたらしいそれが、よくよく見ると小さな砂糖菓子なのだとわかって彼は更に怪訝そうな顔をする。いびつな星形の金平糖がいくつも散らばり、テーブルの向こう側まで広がっていく様にとうとうため息をつく。

「アンソニー!」

 職務外で面倒なことが起こったときの常で、赤犬は彼の事務官を呼んだ。これで起きれば好都合だとばかりに声を張り上げ、小脇に抱えていた書類の束をどさりとデスクに放る。どこからか迷い込んだ子供の相手をしている暇などない。早急にしかるべきところへ連絡させ、引き取りに来させなければ。
 どこに居ても大将の呼び掛けにすぐさま応じる優秀な事務官は、一分と経たぬ内に扉を開いて上官の前に姿を見せた。彼の呼吸がずいぶんと乱れているのは、階下でつい先程まで人事局の職員と話し込んでいたのをいい加減に切り上げ走ってきたからだ。

「すみません……何か、ご用でしょうか……」
「迷子だ」
「は?」

 赤犬が顎の先を上向けてソファを指し示すと、それを見た事務官もまた一切の動きを止めた。呼吸すらも一瞬止まったようだった。ただ大将と違ったのは最初の衝撃から抜け出た途端に眉を吊り上げ、手にしていたファイルで勢いよく相手の頭頂をはたいたという点だろう。日頃穏やかな物腰の事務官が手を、しかも見ず知らずの女に対して躊躇なく振り下ろしたのを見た赤犬が、鍔に隠れたところで目を丸くしたのは無理からぬことだった。

「お、おい……」
「起きろ馬鹿者!」
「いっ、たー……」

 見ず知らず、ではないらしい。互いに名を呼び合い、何してる、何よと二人ともがずいぶんな剣幕で捲し立てている。細い手首をいくらか乱暴に掴んで立たせ、むくれてそっぽを向く頬を両手で挟んで無理矢理視線を合わせようとする事務官に、少し落ち着け、と赤犬が思わず声をかける。

「ジョアナ、お前ここがどこなのかわかっているのか?!」
「トニーの職場でしょ……」
「赤犬大将の執務室、だ!勝手に入り込んで居眠りできるような場所じゃない!」
「だって夜勤明けでそのまま来たんだもん」

 毛布の代わりに引っ掛けていたクリーム色のコートの下は、見慣れた軍の制服だった。となるとどこからか紛れ込んだ子供というわけではないらしいが、それにしても兵士のひとりにはとても見えなかった。立たされてなお小さい身体は華奢すぎて、武器のひとつも満足に扱えそうにない。近頃はそれほど人手不足なのだろうかと大将はため息をつき、今はとにかくこの場を正常に戻したいと両手を広げて指の関節を不気味に鳴らす。

「さて……」
「だいたい急すぎるだろう!おれだってさっき知らされたんだぞ!」
「知らないよそんなの、そっちの手違いじゃない!」
「お前ら、ええ加減にせんか!」

 二人の頭を掴んだ大将は遥か上から彼らを見下ろし、片方の青ざめた顔ともう片方の呆けた顔とを順繰りに睨み付けた。口をぱくぱく開けてものを言おうとする事務官の方へもう一度視線を戻し、それで、と静かに問い掛ける。

「あ……も、申し訳ございません……」
「こいつは誰だ」
「は、はい……彼女は名をジョアナと申します、G-1支部の准尉で……」
「本日付で本部に転属になりました。合わせて一階級上がりましたんで、今日から少尉です」
「そうらしいのです……それで、その……」
「妹なんです、このひとの」

 半分ですけど、と大将の威圧感に物怖じせず答える妹に、ちょっと黙ってなさいと慌てて兄が制止する。半分?と問い返す赤犬に、母親が違うんですよ、と言葉を続けるジョアナのからりとした笑い顔はますますトニーを弱らせた。別に隠していたわけではないけれど、大将の耳に入れるほどでもない私的なことをペラペラと喋ってしまうなんて。この執務室でそういった話題が上がることは一度としてなかったし、そもそもこの部屋の主は他人の身の上話には一切興味を示さない。この年若い妹は、目の前で厳しい表情を崩さない男が一体何者なのか、ちゃんとわかっているのだろうか。普通ならこうも気安く話しかけられる相手ではないのに。
 兄の憂慮もどこへやら、もはや眠気のすっ飛んだジョアナは大将に向かってひどく落胆した表情を見せ、こともあろうか聞いてくださいよ、などとのたまった。トニーの顔からさらに血の気が引いていく。

「あーあ、うちの兄っていっつもこうなんですよ。一番に見せたかったからここに来たのに」
「何をそんなに見せたかったんじゃあ?」
「これです、これ!」

 大将のでかい左手からすり抜けたジョアナは、先程まで枕代わりにしていたものを肘掛けから取り上げると大将の目の前でそれを広げた。いまだ右手に掴まれたままの兄にもよく見えるように掲げた真新しいコートの背面には、正義の二文字が黒々と縫い取られている。

「今日から海軍本部の将校なの!」

 翻った白いコートの後ろから満面の笑みを覗かせた妹を見て、トニーは頭を抱えた。入隊したことすら反対だったのに、とうとうこんなところまで来てしまった。握りしめたままのファイルの中身を出来ることなら裁断破棄してしまいたかったが、結局は彼女の新しい上官に──彼の上官でもある赤犬大将に、新米少尉の異動命令書を渡したのだった。

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