ギアステーションの地下には過去に閉鎖されたホームが幾つも存在する。閉鎖し直ぐに穴を埋めようとしないのは、他のホーム内にて事故が発生した場合閉鎖されたホームから移動出来る事を想定しているからだ。電車自体走る事は出来なくも無いが、何年も整備されてないその線路の上に機械を乗せる訳にはいかない。こう言った閉鎖されたホームは数え切れない程ある。直ぐにでも整備し緊急時の為にと色々と手をつけたい所だが、グローバルハイリンク社の企画に参加した今のギアステーションの人の数では足りない。だが、いつかー。人手不足が解消されたその日には、あの閉鎖したホームに手をつけるさ。
作業員と会話を交わしていたジンを、駅員はふと思い出す。
Wi-Fi線を引くか引かないかで悩んでいたジン。ジンが就任したままのギアステーションの空気ならば、我関せず。と言ったものだろう。
だが、どれだけ荒っぽく口が悪かろうとジンがして来た行動一つ一つは、前駅長そして前サブウェイマスターと何一つ変わらない仕事への取り組み様。ジンをよく思って居なくとも、笑顔が一つまた一つ増えていくお客様に上がる声そしてよい方向へと向かっていくギアステーションの流れに、ジンに対する思いがゆっくりでは有るが変わっていった。
未だにジンを怖い人、荒い人だと抱く者は多いが、何かが吹っ切れたのか従業員の内数名がジンへと話しかけていく姿を見かけたことがある。
勤務中のジンは無口で、従業員が仕事外の無駄口をすればすぐさま近くの壁や机を蹴り上げ仕事をしろ!と激しく一喝する。しかし、休憩時間となればジン考案の喫煙所で時折駅員と言葉を交わす。
よくよく思い返せばジンは此処に来てから何も変わっていない。自身達が変わった。と言ってもいいだろう。
自身とてジンのいる駅長室へと向かった際、偶々廊下で出会った際本人が食べようとしていたシュークリームを半分分けて貰った。
休憩中だったらしくどこで買ってきた分からないそれを食べながら、ジンは書類を受け取り駅長室の向こうへと消えていったのを覚えている。
意外と甘いもの好きなんだと、ジンの外見に似合わないギャップについ笑みを零してしまったのは内緒だ。
そんなこんなで今、まるで忙しい現実を忘れるかの様に過去を思い出していた彼の頬を何かが撫でた。
ふと、その何かが気になり真っ直ぐ続く廊下から視線を滑らせれば、半開きの扉が彼の視界を埋める。
扉の隙間から顔を覗かせるのは薄暗い、明かりの無い階段。確かこの先には閉鎖されたホームがある筈だ。だが、扉は部外者が立ち入らない様にと鍵がかけられているのだがーー。
「(鍵がかかってない?)」
無理やりに壊した形跡はない。しっかりと錠は存在し、鍵で開けたのだと一目瞭然。では、誰が?
ここの鍵は臨時用として駅長が管理していた。つまり駅長代理であるジンが持っている。バトルの呼び出しが無い限り駅長室に籠もりっぱなしのトレーナーだ。彼の目を盗んで、鍵をとるなんて事は出来ない。
どう言う事か?
謎が深まるばかり。そんな彼の思考を遮る様に、ある音が耳へと届く。
一体どこからか?
半開きの扉の向こう側からだ。
よくよく耳をすませばどこかで聞いたことのある独特の音。しかも向こうから確実に此方へやってくるのが分かる。駅員の肌はには鳥肌ならぬポッポ肌。襲いかかる恐怖と言いようのない寒気に悲鳴を上げそうになった。
がーー、
「ーーえ?!」
『ーーん?』
薄暗く続く階段の向こう。耳障りな音を鳴らし扉を押して現れたのは駅長代理のジンだった。
『…………あれ?』
ふと怪訝な表情を浮かべたジン。ゆっくりと振り返り先ほど自身が登ってきたばかりの薄暗い階段を見下ろす。そして、あー。とめんどくさそうに逆立つ後ろ髪をかきあげれば、近くにいた駅員へと振り返る。
『今、何時?』
「は?………えと、8時を過ぎた辺りですが………」
左手首につける腕時計を見やる。其処にはデジタルとアナログの二種類で作られたデザインの時計。小さな液晶には秒数カウントされるそれと、隣にはホーホー秒針が一定リズムで回るアナログ時計。
時間は夜の8時。帰宅ラッシュピーク時であるこの時は、ステーション内は人で溢れかえっている。
同時にトラブルも一番起こりやすく、先ほど無線機でホドモエ線のトレイン内でお客さん同士の喧嘩があったと聞く。
『夜のか』
「あ、……はい」
ーーーそうか。
壁に背中を預け、ジャケットの中から小さな箱を取り出す。よくよく見るとそれはモノクロ二色のシンプルなシガレットケースで、慣れた手付きで煙草一本取り出す。
「(あ、れ?)」
そこでふと気付く。普段見慣れている駅長代理。煙草を取り出す動作はそのまま同じだが、ポケットやジャケット内から取り出す姿が異なる。普段ならばフレンドリーショップに陳列する姿そのままのデザインが顔を覗かせ、続いて使い捨てライターを抜き出す。
だが、今彼の目の前にいるジンは明らかにそれと異なる物を取り出したのだ。
シガレットケースなんて持っていただろうか?
先日見たジンと今目の前にいるジンを照らし合わせ間違い探しをする。
すると、注がれる視線に気づいたのか、ジンは何だ?と首を傾げるも間を空ける事なく、ああ、と呟いてはシガレットケースを小さく揺らし彼へと中身を向けた。
『吸いたいならはっきり言え』
「(ええ?!)」
いえ!そうじゃないです!
とはっきり言おうにもすでにケースから煙草を一本取り出し、ライターと共にこちらへと投げてきた。彼は慌ててそれを受け取りすぐさま駅長代理を見上げるも、明後日の方向を眺めながら煙草を吸い始める。
手の中に収まるそれに視線が行く。
白いフィルターの口元部分には、この煙草の名前であろう二文字のロゴが入っている。匂いを嗅げばミントのようなすっきりした香りが鼻を擽る。
メンソールだろうか?煙草を吸わない彼でも分かる位の匂いだ。メンソールであればそれ程強くは無いだろうと、慣れない手付きで煙草先端に火をつけ吸い込んだが後の祭り。
「うっ!ぶぇっ!」
きつい!
そして不味い!!
煙が気管を通じた瞬間、内部の壁を激しく刺激。まるで刃物で肉を突き刺すかのようなその痛みに彼は生理的涙を浮かべる。同時に、口内をぐるりと満たす煙は工業地帯に漂う煙を連想してしまう程のもの。
耐えきれず駅員は激しくむせてしまった。嗚咽混じりの激しい咳は、長い廊下に響き渡る程。
煙草が吸えない訳じゃない。ただ、予想していたものより遥かにきつかったそれに、彼はなんて物を吸っているのだろうかと抱くしかない。
「…うっげえ」
不味い。不味すぎる。
いくら煙草とはいえ、ここまで不味い煙草は初めてある。
以前先輩が吸っていた煙草を一本貰った事が、これほどまでに口内をかき乱す物は初めてだ。
いや、それ以前にこんな物がフレンドリーショップに売って有るのかと疑いたくなる。身体に毒だと言う事もあり、煙草を吸う人間はそれ程多くない。それ以前にショップに陳列煙草はタールが低く、吸いやすさ重視している為か、種類も数も多く並べられてはいない。
ヘビースモーカーであろうと、数値が押さえられている煙草を吸っている為、それ程問題はないと思っていた。だが、この煙草は論外だ。
「うぇ"…ジンさん、これ不味いです!」
こんな物にお金をつぎ込んで、1日何十本も吸ってーー金銭感覚だけじゃなく味覚まで可笑し過ぎる。
隣でフッと笑ったような気がした。
笑い事じゃないです。
やっと落ち着いてきた彼は、ゆっくりと息を吸い吐きこんでは呼吸を整える。
「せめて、数値低めにしたらーー」
どうですか?
そんな言葉が続く筈だった。
ふと、隣へと顔を上げるも其処にいる筈だったジンの姿がない。
あれ?ジンさん?
喉の違和感は未だにとれない。だが、今はそんな事言っている場合ではなかった。
ジンが居ない。
可笑しい。先ほどまでジンは彼の隣に居たのだ。
狭い廊下をぐるりと見渡す。
この廊下を抜ける為の扉はまだまだ先で、仮に彼へ何も言わず離れたとしてもその背中が視界へと映り込む筈だ。後ろの通路も同様。
「ジンさん!」
慌てて駅長代理の名前を呼ぶ。
彼は元々ジンに対しての苦手意識はそれ程持っていない。皆が皮肉を込め駅長"代理"と呼ぶ中、彼はジンの名前を呼ぶ。しかし返事は返ってこない。
手持ちポケモンの技で移動したのか?いや、だったらボール開閉音が鳴り隣にいる自身が気付く筈。
技の一つである高速移動を使える人間なんて勿論いやしない。
そうだ…煙草!
ハッと気付いた彼はついさっきジンから貰ったばかりの不味い煙草へと手をつけた。だが、そこでも可笑しな事に気付く。
今度は一口だけ吸った煙草が無い。
見上げていた視線を自身の足元へと切り替える。
ジンを探して気付かないうちに落としてしまったかと思いきやそうでもない。否、灰すら落ちて無かった。
慌てて受け取ったライターも見当たらない。
途端に見えない何かが彼に襲いかかる。
足元から這い上がる寒気。
同時に吹き出る冷や汗に、底の無い恐怖。
有り得ない。有り得ないと自身に言い聞かせるも、唾を飲み込んだ喉の違和感が彼の思考を嘲笑うかの様に妨げる。
「…ジンさ、ん」
凍りついたかのような体に鞭をうち、首を回す。
新たに視界へと入り込んだそれはジンが開けた扉。閉鎖されたホームへ向かう扉だ。
彼が最後に見た時より扉の開かれた幅が狭く見える。何だ。ここから降りていったのかと一息ついた彼だが、何か違和感を感じる。
これは、視線だ。誰かに見られているのかと息を吸い込んだと同時、半開きの目の前の扉の奥にそれはいた。
光の無い暗闇の向こう側、その中に存在する一つの目玉。
黒の中に浮かび上がる竜胆。
真っ直ぐ真っ直ぐに此方を見つめる目玉に彼の思考が止まった。
彼から逸らされる事がないその目玉は、ぐるりと周りへと視線が向けられる。
そして再び駅員へと向けられた瞬間、勢い良く扉が閉められた。
バタン!と激しい音と共に見えない衝撃波が彼に襲いかかる。
びくりと揺れた肩と同時、咄嗟に目を瞑ってしまった駅員だが飛んでいた思考が現実へと引き戻される。
「…………」
そして目の前で起きた全ての事が、駅員の脳内へと次々と流れ込んでる。
居たはずのジンがどこにも見あたらず、しかし、彼から一本貰ったキツい煙草の味は未だに口内に残っている。
そして続けざまに扉の向こうから此方を見つめるギョロ目。
全ての出来事を詰め終えた彼の顔は青白く、足元からこみ上げる震えが止まらない。
野太い悲鳴が上がるまで数秒もかからなかった。
了
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