『関係者以外立ち入り禁止だ』
冷たいコンクリートを踏みつければ、鈍い音がゴッと生まれる。
鼻を擽るのは煙草独特の苦味ある匂い。数値が高ければ高い程強く香るそれは、禁煙者からすれば不愉快そのものでしかないだろう。
数本程度に吸うのならば僅か程度染み付く匂いだが、自身が居るこの位置まで匂いが伝ってきたと言う事は相手がヘビースモーカーである事を物語る。
その人物は微動だにしない。
まるで自分は関係ないと言わんばかりに。しかし自分に向けられている台詞だと理解してるのもまた事実。
剥げかけた床を蹴ってやれば、脆いそれは宙で一回転し線路の向こう側へと姿を眩ます。
ビュウ!
切り裂かれた空気が悲鳴をあげる。
真後ろから上がった何か。普通の人間ならば慌てて振り向くだろうがその人物は微動だにしなかった。
強いて言うのならば首を傾げる。ただそれだけ。
彼は小さく動いた。
横切ったのは瓦礫の破片。
本来目指すべき目標の人物に避けられたらしく、残念と言わんばかりに空気を切る。
しかし只ではいかないと言わんばかりか、靡く髪を数本切り裂いては彼方へと飛んでいった。
「責任者のあなたが壊してよいのですか?」
『いいんだよ。いまの此処は私のルールで決まっている』
「横暴」
そうつぶやいて此方を振り向いたのは一人の青年。整った顔つきは引き締まった雰囲気を醸し出し、僅かにつり上がる目は相手を威嚇するかのようにも感じられる。
黒いコートを羽織り映える水色の髪は目を引く物があった。
『なにしにきた』
「利き腕を無くしたあなたを笑いに」
クスリと笑みを浮かべる彼はどこか艶めいているようで、異性の目を引き寄せるに違いない。
が、ジンには効かないのか、鼻で笑っては煙草を揺らした。
『貴重な私の姿を拝んだんだ。それに見合うもん置いていってくれないと困るな』
なぁ?S級クラス犯罪者様よ?
そう返してやれば、彼の瞳がスゥと細められたのが分かる。ピリリとした冷たい威圧感がジンを襲う。が、本人は知らぬ顔。
右腕の無い袖が弱々しく揺れる。
持っていたそれをくわえ味わうように吸い込む。ゆるりと吐き出白い煙は唇の端からこぼれ静かに溶けてゆく。
「貴方がリニアステーションから離れたのが信じられず確認しに来たのです」
『向こうで確認したんだろ?わざわざこっちにくる必要なんて無かっただろう。暇なのか』
「貴方と違って忙しいですよ。頑なに離れようとしなかった貴方が、あっさり此方に来た事に疑っているのですよ……協会側からの命令で?」
『犯罪者に答えると?』
「思いませんね。だが、わざわざ向こうから私が来てやったのです。それなりには答えてくれると思っていますよ?ビジネスマン同士」
『元だろうクソ野郎。むしろ私達の邪魔立てばかりしおってからに』
「それはお互い様ですよ」
『あの場所に無かった似たものが見つかった。ただそれだけだ』
「以前聞いた台詞と同じです」
『覚えてねぇよ』
「あの組織には無かった。しかしジョウトで似たものを見つけた。だから脱退した。ーーと」
『随分詳しく覚えてんな』
「ええ、覚えてますよ。何せ貴方はポケモン協会直々の公認トレーナーなのですから」
『んな肩書きいらん』
「それでも私達にとっては危険人物。マークするのは当然でしょ?」
沈黙が生まれた。
カチンカチンと無機質に鳴り響く何か。
己の仕事をこなす為に動き出す長針は、同じ位置で同じ速度で左右に揺れている。ひび割れの入るガラスに折れた短針が無様な姿をさらけ出す。
激しく痛んだタイルは劣化しボロボロに崩れる。ゴミが転がるホームには二人以外の、人の姿は見られない。他のホームへと続く通路は、黒と黄色で色づけされたテープ。かかれる文字は立ち入り禁止。
「一部の噂では国際警察に捕まったと流れていました」
鼻で笑うジン。ゆっくりと振り向けば煙草を吸い込む仕草は昔と変わらない。
身長も体つきも、口調も性格も全て変わらない。
強いて言うならば着込む制服、これぐらいの変化だろう。
パチリと火花を生ませた蛍光灯が、ジンのピアスに反射する。
ピアスの数を増やしたか?
何気ない会話。
よくある会話。
どこにでもある普通な内容。
髪をきった?あぁ、それに近いだろう。
しかしフと思い出すのは、自身とジンの関係、立場、地位そしてあってはならない互いの認識の差。
廃れたホームを見回し感じる。住む世界が違うとーー。
「……………」
見えない何かを吸い込み、肺の中をぐるり回った所で緩やかに吐く。
近くに設けられていたベンチ。錆び付いた無様な姿を晒すそれへと腰掛けていたジン。いつの間に座って居たのだろうかと抱く疑問を捨て去り、彼は剥げたタイルをタシン!と叩いた。
「もう会うことのない貴方へのプレゼントです」
『あ?』
瞳に映る姿は昔と同じ不機嫌丸出しのトレーナー。
この静かな空間の中では、ジリジリと焼けていく煙草の音はやけに鮮明に聞こえる。
「貴方の元お友達が、イッシュ地方に潜伏中との情報がありました」
『……………信憑性がない』
「我が工作員から直接入った情報です。あの工作員達の情報の信用性が高い事は、貴方もいやと言うほど知っているでしょう?」
『ったく、寄越すんならもっと嬉しい情報寄越せ』
「おや?ではキキョウシティで有名な資産家の銀行IDが良かったですか」
げぇ。まるで異物を吐き出すかのように表情を崩したジン。
大金なんざで喜ぶのはてめぇら位だろが。
いらねーよ。
吐き捨てた言葉に彼はクスクスと笑う。
やはり貴方は変わってはいなかった。
どれだけ大金を積もうが、誰もが欲する地位をちらつかせどジンはそれに食いついては来なかった。
変わらない。
変わらない。
ジンを構成する根本的なもの全て、それらが全て変わっていなかった。
安心した。
胸を撫で下ろした。
懐かしいと抱いた。
変わらない相手、同時に変わらない信念。
そして何かを探し求める貪欲さ。
そのためならばと、手段を選ばない非道さは我が隊に所属する彼に似ているだろう。
『階段登ってすぐ右手側だ』
「…………」
『今は使われていない非常用階段がある。其処から出ていけ』
「随分とお優しいですね」
『てめぇが此処を出入りした映像が残るとめんどくせぇんだよ。言っとくが、金輪際此処に近寄るな』
「客としてでもですか?」
『足を洗ってからきやがれ』
「また明日来ますと言えば?」
『首根っこ掴んで国際警察に突きだしてやる』
怖いですね。
また彼は笑う。だが、その笑いの中からは純粋に何かを楽しんでいるように感じられる。
一通り笑い通した彼。
ずり落ちた看板を眺め小さく呟く。
ジンからの返事が無い。もとより期待はしていない。律儀に返す様な人物では無い事を分かっていた。
でもつい呟いてしまった。後悔はない。寧ろ清々しい何かを感じる。
ひび割れたタイルを再び蹴りつけた彼は、出口へと向かった。
降りてきた階段を上る音が響く。
カツンカツンと、遠ざかっていくそれを追いかけるや声をかけようとは思わない。ましてや今は赤の他人。今後一切関わる事はないだろうと安心する反面、彼が残していった情報がなんとも気がかりである。ゴン!
と鈍い音一つ。ジワジワと痛み出すそれに普通の人間ならば涙目となるだろうが、ぶつけた頭部をさする事なくジンが一息吐く。
『嬉しくねえ情報感謝感激だ……くそ野郎』
短くなっていく煙草。
もう吸えないと気づいたそれを足元へと捨てる。いまだに熱を帯びるそれを、遠慮なしに踏みつけてやった。
深く座り込む。
ストック分の煙草が切れていたのを思い出し、小さな舌打ちを零した。
誰もいない廃れたホーム。壊れても尚動き続ける長針が、ジンを見守る。
了
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