緩やかに降り始めた雪は、路上へと積もる前に溶けてゆく。
重く暗い色を含ませた雲は、ライモンシティの上空を覆い尽くし晴れる様子は無い。
そういえば、今日1日中雪だと朝の天気予報を思い出す。いくら此処が地下鉄とは言え、雪の積もり具合によっては地上へと上がる階段周辺の雪掻きをしなくてはならない。
しかし、出勤時に見た感じではそう言った様子は見受けられなった。
しばらくは大丈夫だろうと、廊下を曲がれば見慣れた同僚の背中が視界へと写り込む。
「おはようさん」
そう声を駆けてやれば振り向いた彼はおはようございますと礼儀正しく返してきた。
「クラウドさん随分と早いですね」
「そう言うお前さんも早いじゃないか?」
出勤時間までにまだ一時間も早いぞ?
持っていた鞄をガサリと揺らして見せれば、そっくりそのままお返ししますと苦笑を浮かべた。
カツリと革靴を鳴らせば、着いていた雪が一定の間隔をあけながら廊下に足跡を描く。
ふと気付いた。
自身達の作り出した足跡とは別の足跡。薄暗い廊下を照らす照明の元、控えめに存在を主張する雫達にクラウドは呆れた声を上げた。
「なんや、考える事はみな同じか」
仕事熱心な奴等やの。ボリボリと剃ったばかりの顎に手を当てるも、あなたもじゃないですか。と、隣を歩く駅員が抱くが口にしないのは、余計な事を言わない。と言う後輩ならではの控えめな思考故からに違いない。
何故一時間も早く従業員達が出勤しているのか?
昨日地下鉄内を混乱させた水漏れ事件。あの事件の処理業務をすべく早い時間帯に出勤しているらしい。たった1日だけで仕事が終わるはずもなく、膨大な量の作業を済ませるべく早い時間にやってきたと見れる。今回の件に関しての書類に業者への連絡など、やるべき事は沢山ある。
残業をしたくないのか、はたまたただ単に仕事熱心なのか?
どちらにしろ早く済ませたいと言う意志は同じらしい。
「そういえば、一般車両用の線路はどうなっとるんや?」
「目に見える傷んだ箇所を応急処置している所です。詳しい補強工事は線路一本に付き一週間近くかかるらしいので、一つ一つ線路を封鎖しながらの運行になりますね」
水漏れした箇所がチラホラと確認され、其処だけを修理するかと思えばそうでもない。何せ此処ギアステーションが創設されて何十年以上も経っている。昔と今の先端技術と言う物は明らかに差がある。
線路によってはまだ大丈夫な所もあれば、ガタが来ている場所もあるに違いない。昨日、駅長代理が不在となった中事務所へと送られてきたFAXには、これから数ヶ月程かけて線路の補強工事が入ると言う協会からの連絡事項だった。
本来ならば、こういった連絡はジンが行うべき仕事なのだが、生憎当の本人は今回の事件で片腕を失ってしまった。
元々失った腕、右腕が義手であると聞いた時に命の別状は無いだろうと抱くもののやはり気分的には宜しくない。一部の従業員達の話では病院に搬送されたと噂されている。
もしかしたら今日は出勤出来ないかも知れない。
そうなったら自分達がやれる事を全力で、取り組まなくてはならないな。
「あの人から連絡何も入っとらんよな?」
「……ええ。僕は何も」
ったく、本当に自分勝手な人やーー
そう悪態をつくクラウドだったが、その台詞は途中でぷつりと途切れてしまった。
クラウドさん?
どうかしましたか?と不審に思った彼は先輩が見つめる先へと中心点を切り替える。
驚愕
その単語しか当てはまる物が無かった。
何故?
何故も何もつい先ほどまで噂していた人物が其処に居るから。しかし忘れては居ない無だろうか?その人物は右腕を失って、搬送されたと噂されたあの人の背中。
「何してんのあんた!」
つい叫んでしまったクラウド。その言葉がじわりじわりと人気のない廊下へと響いていくのが分かる。
何だと言わんばかりに振り向いたその人物は、相変わらず不機嫌に先端が短くなっている煙草。
ぴょこん。
効果音をあげるかのように顔を出した二人の存在。研修生のユキとスミだ。自身達の指導者であるクラウドに気が付いたのか、慌てて頭を下げるがそんな場合ではない。
「なんであんたが此処に居るんや!?」
噂では搬送されたと聞いている。駅長代理の右腕は義手で、今回の事件で壊れたと聞く。片腕の無い状態ではバトル所か普通の業務すら行えないのは目に見えている。暫くは休むのだろうと、これから増える仕事量に頭を悩ませていた矢先のジンの出現。
どういうことだ?
「あんた、病院に運ばれたんとちゃうんか……」
『私が……?いつの話だ』
「その、………昨日の件で、です」
おずおずと控えめに述べる駅員に、ジンがああ…。と興味なさそうに零した。くわえていた煙草を左手で掴めば、携帯灰皿を頭に乗せたポワルンがそれを差し出す。
『昨日はサブウェイのドクターの元にいた』
「なんでドクターの元に…?」
『一般病院にあの状態でいって見ろ?明らかにマスコミのネタになるじゃねーか』
いくら病院とは言え、其処には様々な人が集まる場所。サラリーマンもいればOL、保育士などと数え切れない職業につく人たちがやってくる。
只でさえ緊急患者は目を引きやすい。それが今のギアステーションを統括する人間ならば、好き勝手な噂が波のように広がりネタを欲するマスコミの耳へと届くだろう。駅長代理として就任以来、取材を断り続けている今そう簡単に自身のネタを掴ませる訳には行かない。
「ずっと医務室に居たのですか?」
『まさか。業者、トレイン協会と連絡していた』
「一体どこで…」
『あ?駅長室に決まってんだろ』
他にどこがあるよ?と、おちそうになっていた煙草の灰をポワルンが差し出した携帯灰皿へと落とす。小さな振動を与えてやれば蓋は簡単に閉まり、満足そうな声を上げる。
駅長室。
そういえば、昨日はバタバタしており駅長室に近づいた覚えは無い。駅長代理が駅長室にいると言う話を聞いていない為、誰一人として駅長室に向かった人が居ないと言う事になる。
「せめて連絡一つ入れて下さればーー」
自分達が、と言いかけた所で彼は気づいた。
自分達と駅長代理の関係の悪さ。
隣にいるクラウドもそれに気付いたらしく、ばつが悪そうに視線を泳がせて居る。今になって思い出す。
気まずい雰囲気が辺りを漂う。
『…………』
ハァと重々しいため息が零れる。誰のものか?
ジンからだ。
『スミ、その書類は事務所の奴らに渡してこい。ユキのファイルも清掃担当の主任へ渡せ』
話は内線で通してある。
そう言ってはジャケットの内側に入れていた煙草を取り出すジンに、二人の研修生は顔を見合わせた。そして再び駅長代理を見上げれば何かいいたげな視線を送る。
さっさと行け、仕事の邪魔だろうが。
一本だけとなった左手がシッシッと払われる。眉を寄せる二人研修生のユキとスミ。
納得いかないと言いたげな2人は、互いにコクリと頷いては指導者であるクラウド達へと向き直る。
「……!」
「…うっおっ……なんやっ」
2人の研修生にギッと睨みつけられたクラウド達。
何故睨みつけられたのかはわからないが、間が悪いと言わんばかりの眼力だ。少しだけ後ずさる2人に社交辞令な礼を一つ。そして間をあけることなく2人は走り去って行った。
なにやら後味の悪い気持ちが胸を支配する。
『こんな早い時間帯に出勤しても、ボーナスが増える事無いぞ』
カチリと鳴るのは無機質な物ならではの音。煙草をくわえながら、手持ちの黒いジッポで火をつける。火のついた煙草はジリジリと音を鳴らし、筒を黒く塗りつぶしていく。
『給料も特別上がる訳でも無ければ手当ても出ないぞ』
お前ら分かって来てんのか…?
フーっと吹かれた白い煙。何かを描く前にそれは溶けてゆくのが分かる。
「給料の為に早くくるか」
噛み付く様にジンに突っかかるクラウドに、隣にいた駅員は冷や汗をかく。
彼ら古株組は仮とは言え上司であるジンに噛み付く姿をよく見かける。普段は遠目や駅員同士の話伝いに聞くもののこうやって間近で見ると心臓に悪い。
「足を運んでくれるお客さんの為や。只でさえ今回の件で業務が増えたんや、さっさと終わらせるに限るやろ」
その為に早く出勤しただけや。
何か文句でもあるんか?
そう突っかかっていくクラウドに、「クラウドさん…」と弱々しく制止にかかる。
流石に古株組のひとりがクビなんてことになってしまえば、業務にも支障が出るのは明白。出来るだけジンを刺激しないようにと割り込んだ彼だったが……。
…………フッ
鼻で笑うジン。
大先輩を馬鹿にされたと抱いた彼の胸には怒りがこみ上げる。
が……
『仕事熱心とは随分物好きな奴だ』
駅長代理の事だ。
相変わらず皮肉な事を言うのだと思っていた。が、
今回それがない。
クラウドもクラウドで言い返す気満々らしかった様子。しかし帰って来たのは予想外な台詞。
まるでマメパトが豆鉄砲くらっかかのようにポカンとする。
消耗品のそれを吸って、また吐く。
立ち上がる煙と戯れる様にポワルンがぐるりと一回りすれば、くわえていた煙草を手に取る。
白い煙は相変わらず己の存在を主張する。しかしそれを払うジン。
革靴ではないブーツがゴツリと奏でては、緩やかに背を向けた。
ゴッゴッ。と、鈍いそれをあげては歩いていく。灰皿を使って欲しいのか、やけにしつこく飛び回るポワルンに『五月蝿い』とかけた。
ハッ!とする。
「あんたどこ行くんや!」
ゴッゴッゴ。
変わらない鈍い音鳴らす。
左手を払うように『用があるなら駅長室に来い』とだけ残し、ジンは歩き去っていった。
残された駅員達。何も言い返さない先輩に気付いたのか、彼はクラウドさん…と顔を覗き込む。
変わらず皮肉しか出てこないと思っていた。いや、確かに今のジンが言った台詞も皮肉である。
黙って仕事だけしていろ社蓄共
口しか動かせれないのかお前は
普段のジンならばこうは言うだろう。しかし、思っていたのと違うのだ。
口論すると予測した。だが、そうではなかった。区切ったのだ。
自分から。
「…………」
言い返す気満々だったのだろうが、それが無い。歯切れの悪い。
そんな表情をする。
ジンの姿が見えなくなった頃にクラウドが歩き出す。慌てて彼も追いかけた。
「さっさと仕事するで!」
「うぇ?!」
早足でスタッフルームへと足を運ぶ彼についていくしかない。いきなりどうしたのかと困惑する彼に気づいてか、クラウドは答えた。
「片腕の無い仮上司に仕事なんて任せてみ!遅い、終わらないしか無いやろ」
わいらに仕事が回ってくる前にさっさと片付けるで!
慌ただしく扉を開き、スタッフルームの向こうへ。
「……………」
チラリとジンが消えて行った廊下を見やる。
やはり其処には誰もおらず、綺麗に清掃された床に僅かに天井が映し出される。
「?」
ふわりと何かが自身の足元を抜ける。
何だろう?ポケモンかな?と見下ろすも、其処には誰も居ない。周りを見渡せど影所か気配すら感じないのだ。
気のせいか
先輩の後を追いかけるように、スタッフルームの向こう側へと消えてゆく。
タシ…タシ………タシタシ
姿はない。影もない。しかし、廊下を駆ける音が山びこを生み出す。
それに気付く人は
誰も居ない。
了
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