足元が大きく揺れた。
刹那その空間へと新たに生まれたのはけたたましい水音。
轟々と水音では聞いた事の無い凄まじい音を鳴らしたそれが、ホームの線路内へと流れ込んできた。制御出来ない予想不可能な水がその姿を突然現れた。自由自在にうねった激流が、勢い余ってホームへと飛び上がり移動中の乗客達へと襲いかかる。すぐそばに掲げられていた看板がベコン!と鈍い悲鳴を上げ凹む。
飛び散る雫は痛々しい上に激しく、そして冷たい。
浴びた水は正に滝のような威力があり、新たな悲鳴が上がる。
塗り替えられた阿鼻叫喚の世界の中で、激しく流れてゆく水が線路を独占する。
早く早くと激しさを増した人の波に、不味いと判断した山男は少年の名前を呼ぶ。
「其処から直ぐに離れなさい!」
少年が立っている直ぐ隣では激しくうねり流れる水が、嵩を増して徐々にその高さを上げてくるのが分かる。
また先ほどの様に荒ぶった水が少年を襲わないとは限らない。
早くその場から離れさせないと……。
早くしなさい!!
怒鳴り声にも近いそれが少年へと届いた。
其処で硬直していた体の縛りが無くなった様な気がした。
あの優しい山男の彼がそうまで言うのだから、事態は最悪な方面に向かっているのだと嫌でも分かる。ハッと息を飲み込んだ少年は、人の波に飲まれ姿が見えなくなった彼を最後に、意を決して混乱の中へと足を向けた。怪我をしたってよい。急いで彼と合流しなければ……。
人のうねりの中へと駆け出そうとした時だ。
影が少年の進路を塞ぐ。
振り向いた自身の後ろに誰かが立っていた為、乱れ狂う波へと飛び込む事が出来ない。
いつの間に立っていたのだろうか?
先ほどまでは居なかった筈なのに…。新たな恐怖が自身の心にしみこみ出すのが嫌でも分かる。
しかし、今は言われた通りに移動しなければ……。
「っ……あの!」
少年の真後ろで佇む影へと声をかける。
身長は自身よりも何センチかは大きい。
塾帰りのトレーナー達の年齢では無い。どちらかと言うとエリートトレーナーの年齢に近いのだろうか?
いや、今はそんな事を考えてる隙などない。この場に長居して危ないのは自身だけでは無い、この人だって危ないのだ。
早く非難しなければ……
「き…君も、い…こう!此処はっ………あ、ぶないから!」
佇む影が顔を上げるのが分かる。
何故そんな所に立っていたのかなんて知らない。だが、言葉が伝わったのなら話は早い。自身よりも少し大人なこの人を連れてあの中へ……
影が伸びる。
真っ直ぐ、真っ直ぐと伸びた影は2つで誰でもない自身へも向けられる。
それは二本の腕でゆっくりと自身に迫る。怖いのかな?
なら、自分がしっかり手を繋いであげないと。こんな中で一人で移動するなんて危ないし、誰だって怖いだろうから山男の友人に合流するまでは何とか……
「 」
「……………え?」
視界が傾いた。
ゆっくり、ゆっくりと、水平だった筈の世界はぐらりと傾き、見ていない筈の地下鉄の天井がその姿を晒す。
転ばないようにとしっかりついて居た足元は不安定で、安定感を求め後ろへと一歩引く。
されど其処には床が無い。
天井から移り変わったのは先ほどまでみていた筈の荒れ狂う人込み。
先ほど自分が寄っていた柱があって、其処には進路を塞ぐように人が立っていて……。
そう。人が立っていた。
自分の進路を塞いでいたその人物が立っていた。
柔らかそうなクリーム色だが、重力に逆らうように空へと逆立っている不思議な髪型。その中に紛れ込むのは音楽をより鮮明に聞けるように作られたヘッドホン。
そして白い眼帯とマスク装備と言う、まるで重度な病人の様な出で立ちに少年は目を見張る。
離れてゆく。自身と少年がゆっくりゆっくりと……。秒数なんて刻むよりもゆっくり。
「あ………」
浮遊。
足元が浮いている。不思議で初めてな感覚。
いや、違う。
これは………
耳元で囁くのは、激しく冷たい激流の笑い声。
手を伸ばし。いらっしゃい。とゲラゲラ笑う。
少年にはこの体勢を整える時間、そして打開策への脳の回転を持ち合わせて居なかった。
揺れる。
傾く。
静かに、静かに。
「ノボリィ!!」
アリアドスの子を散らす様な世界の中から、叫び、伸ばした手が届く事は無い。
目の前で起きた惨事にどうする事も出来ない彼は、叫ぶように呼ぶ。
しかし、激流に飲まれた少年には届かなかった。
了
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