初めて装束に袖を通した時の感覚が忘れられず、卵とは言え自身も忍者の一人に数えられるのが凄く凄く嬉しかった。
ここでは私は自由に動き回ってよいのだと送られた父上が言っていた。
これでむらの奴らから白々しい目で見られなくなると言う安心の裏腹に、いつもいつも泣きじゃくる私を慰めてくれる父上と母上に抱きつく事が出来なくなると言う寂しさが私の胸辺りでジワジワと疼いた。
でも、送ってくれた父上が去り際に「立派な忍者になれ。その力はお前の糧となる」と言い私は訳が分からずうんと頷き見えなくなるまで父上の背中を見送った。
寂しいと思った。だけど、ここで私は大きくなって立派に成れば父上と母上に胸を張って会いにも行けるし、私を化け物だと蔑んでいた村の奴らを見返してやる事までも出来る。
何よりうんと羽を伸ばして良いと言われた。
いっぱいいっぱい走っても、いっぱいいっぱい腕を振り回しても怒られない。
そう言われて来た。
筈だったのにね?
しかし、ある日の授業で私達一年生は初めて手裏剣を手にした時があった。その時はあまりの感動でクラスのみんなはざわついて、勿論私も興奮していた。
これを上手く使いこなせば立派な忍者に一歩近づける。そう。思っていた。実技の先生から投げ方を教わり、順番に投げていく同級生の後ろ姿を眺めながらまだか?まだか?と胸を踊らせた。そしてやっと自身の番になり、先生の言われた通りに少し離れた的へと手裏剣を投げ出した。
手裏剣は弧を描き真っ直ぐと飛んでは、確実に的へと向かって行く。その様子に周りからはおお!と声が上がった。
だが、その後は最悪としか言えなかった。
上手く的に当たった筈の手裏剣だったが、思い切り投げたのがいけなかったのか手裏剣は的を貫通し後ろの木へと突き刺さった。同時に貫通した的は派手に壊れてしまい両隣においてあった的へと弾け飛んだ。
私はまた壊してしまったと思った程度だったが、クラスのみんなにはこれが怖いものだと見えたのだろう、次の日から私はみんなに遠ざけられる存在となった。
いっぱいいっぱい色んな場所を走り回っても、怒られたり邪魔だと鬱陶しいと言われる事は無くなった。しかし、言葉では無い視線と重い沈黙が新たに私へと浴びさせられた。
つらい。
の一言では済めばどれほどに楽なんだろう?
いつもいつも、そう思いながら私は誰も使って居ない部屋で装束の袖を濡らす。
自身の部屋に行った事なんて片手で数える程度だ。きっと、自身の同室者も私を怖がっている筈だと。
前に何度か部屋に戻った時があった。
だけど、室内にはだれも居なく、私の荷物と同室者の荷物のみ。
行く度に人気の無い空間がいつも其処に存在している。
ああ、私と同室になった子には悪い事をしてしまったのだと思った。
だから、私は自身の部屋には戻らなかった。同室者に迷惑をかけたくない。怖がらせてはいけない。とーー。だから、今日も勝手にこの部屋を使おうと考えていた。
再びこぼれ落ちた涙を袖で拭おうとした時だ。視界の端っこに何かが見える。気になった私はふと視線を上げて、目を見開いた。
「ひ!!」
すぐ目と鼻の先には真っ逆様な狐の顔。しかし、それは本命の狐の顔ではなく正真正銘のお面の狐であった。
だが、空はもう暗く明かりなど付けていないこの部屋では暗闇に慣れている目だけが僅かに写し出す程度なので、正直怖くて仕方なかった。
今にも走り出したい位に怖かったが、足が竦んで同時に体が震える。
妖怪?では、私はこの狐に頭からパクリと喰われてしまうのか?なんて混乱する頭の中でどこかぼんやりと考えた。
でも、それでも良いんじゃないか?
そうすれば、みんなを怖がらせる事も無くなるし、先生にも迷惑かけられない。
ただ、一つ父上と母上にはちゃんと謝って起きたかった。なんて淡々と考えていた私。すると、逆さまになっていた狐の仮面はするりと床に足を着いては私は驚いた。
狐の仮面の子、この子が着ているのは一年生の忍装束。私と同じものだ。暗闇のなかに浮き出す様なその模様、しかしその上から体に巻き付けるそれが何か迄は分からない。
こんな子、一年生にいたのかな?
『部屋』
「ふぇ?!」
『秘密部屋』
狐の仮面の子は単語しか言わないから、私には分からない。
でも、その子は座り込む私と視線を合わせる様にしゃがみこんでは、人差し指を仮面の口元に当てた。そしてしーと空気を吐き出す音に私は首を傾げた。
「っ……あの、」
『俺部屋、君秘密部屋』
「俺、部屋?」
私がそう言えば、狐の仮面の子はちょんちょんと床を指差しては再び、俺部屋と言う。そして私へと指差してはまた君秘密部屋と言った。
「お前の部屋?」
と私が問い掛ければ、その子はコクンと小さく頷いた。同時に私は真っ青になり頭が痛くなった。
「ごめん!私知らなくて!!」
ああ、私は本当に馬鹿だななんて今更思った。どうやら私は無断でこの子の部屋を使っていたらしく、胸が更に痛んだ。
だって、自分の部屋に来たら知らない子が勝手に泣いて居るんだ。部屋に入りたくても入れはしないし、しかも私はクラスのみんなから恐がれられている存在だから更に近づきたく無いんだと思う。
ごめんだけでは謝りきれない位につらい。
また、こみ上げる涙が止まらなく、ひっくと喉まで鳴り始めたからには私はどうすれば良いか分からない。
だが、頬に何かが当たりまた目の前へと視線を戻せば、手拭いで私の目尻を拭う狐の仮面の子に私は驚く。
『君秘密部屋』
また、その単語を呟く。そして同様に床を叩けば小さな音は暗闇の中へと交じり合っては消えていった。
「…秘密っべゃ?」
嗚咽が止まない。それでも言えば、またその子は頷き拭っていた手拭いを床に置いては、私の目尻を親指でなぞった。
『涙、良いの事、故、君涙』
「っで……も」
『涙、良心、証拠。皆、オモフ、証拠。故、君、善人、』
分からなかった。言葉一つ一つに紡ぐ意味が。
しかし、酷く胸がくすぐったくてどんどん暖かくなっていく。
仮面を付けているんだからその子の表情なんて分からない筈だ。
だけど、仮面の向こう側で笑った様な感じがした私は、その子の今言ったばかりの可笑しな言葉で更に目の前が歪み嗚咽が止まらなくなった。
初めて、私に声をかけてくれた一人目の子。
こんな迷惑な場面だと言うのにも関わらず、この子はずっと私の側にいてはまた手拭いで涙を拭いてくれた。無意識にこの子の装束の袖を掴んでしまったが、嫌がる素振りを見せずに逆にその手を握ってくれる。
昔、母上と父上の2人が私の両手をギュッと握ってくれた時があった。
私はそれを思い出し、声を殺して更に泣いた。
了
100427