同室の小平太は午前の授業で受けたランニングの疲労からか、珍しく自室で涎を垂らして大の字に寝転がって居た。
私は風邪を引かない様にと掛け布団だけを被せ部屋を出ては、いつもの様に図書室へと本を返しに向かう途中の事である。
一階から二階へと階段を上り開けた廊下へと出ると、どこからともなくガキン!と何かが音を奏でた。初めはそれが何の音なのか分からなかったが、音に釣られる様に開いた窓から顔を覗かせた瞬間に音の原因が何なのかが分かった。
視線を下げた先には丸い的と離れた位置から構える一年生の姿が合った。
同時に構えて居る一年生が手裏剣を持っている姿から、手裏剣を投げる練習をして居たのだと理解できた。
一体、どのクラスの子か?僅かな興味で動いた視線の先に、水色に映えた色により無意識に目を細る。
多分、見間違いでは無い限り、あれは野沢だろう。
映えた女物の着物は遠目からでもはっきりとわかり、逆に見間違う方が無理だろうと私は思う。
野沢の隣にはもう一人の一年生が居て、様子から見て多分その子は野沢と一緒のい組の生徒に違いない。
彼は何回か手裏剣を投げては隣に居る野沢へと話しかける。その度に野沢が身振りをしながら的へと指を指す。
手裏剣の練習中だろうか?
流石、優秀な忍たまが集まると言われるい組。
その影ではこうやって地道な練習を積み重ねて居る。そして、その積み重ねて行く瞬間の一つを見た私は、知識ばかり得るだけではいけないのだと思えた瞬間だった。
すると、そんな私の後ろを通り過ぎた2人の五年生の先輩が、僅かな手裏剣の弾く音に引き寄せられたのか隣の窓から顔を覗かせるのが見えた。
「お!今年の一年生は随分と気合いが入って居るな!」
関心した様に偉いな!と笑う五年生だが、もう一人の先輩がおい、あれ。と、指を指した所で彼の声がピタリと止まった。
「ありゃ……噂の一年じゃないか?」
「うわ!本当だよ!凄いなアイツ、同学年の一年生に手裏剣教えるとかすげーな」
そう零す先輩方。様子からみる限り、多分野沢の事を言っているのだろうが言葉に含まれる感情からは感心。と言った物は感じられない。
「アイツだよな?ほら、例の」
「ああ、多分な。
そりゃ、先輩達も遣りすぎただろうがよう……」
「でもさ、一部の委員長はすげー可愛がってるよな?」
「だよな。そう考えればさっぱり分かんねーよ。アイツ」
遣りすぎた?一部の先輩?
次々と五年生の口からこぼれてくる単語は、まるで暗号の様で頭の中で一致する気配は無い。
それでも2人の話しや態度から見るからには、あまり野沢とは関わりを持ちたい。と言う事は無いらしい。
どちらかと言うと、ただの傍観側の様な発言である。
野沢達の練習風景より、隣の2人の会話に意識が集中しているのが分かった。
「やっぱりさ、小さいちょっかいとか出したら終わりかな?」
「どうだろうな?流石に先輩達みたいな事すれば終わりが見えるが……」
「それを言ったらくのたま達の悪戯は管轄外かな?」
「分かんないな。六年生のあれ以来、くのたま達まですっかり大人しくなったから俺等にして見れば有り難いが」
彼がそう言えば、確かに!となんと無く悪戯めいた感情が垣間見える。
そして彼らは何も無かったかの様にその場から離れ、奥の廊下へと歩いて行く音が私の耳へと届く。
遠ざかった行く2人の存在を感じつつ、再び手裏剣の練習をする2人へと意識を集中させる。
野沢が隣に居る彼の姿勢を直し、その態度のままその子が手裏剣を投げれば的へと見事的中。
カコン!と軽い音は上の階である此処まで聞こえ、どこか気持ちの良い音の様に聞こえたのだった。
そして私は本来向かう筈の場所を思い出し、急いで向かう為顔を引っ込ませた。
先ほどの先輩達の話は正直な所気になって仕方ない。しかし、今は急いで本を返しに行き部屋へと戻らねばならない。でないと、寝ぼけた小平太が部屋で一人しか居ない事に気付き、学園中走り回り私か或いは野沢のどちらかを探しかねないのだから。
* * *
「凄い……本当に当たった」
『否、的的中、潮江、君、素質が為』
「何を言うか野沢!文次郎の素質な訳ない!お前の上手い指導の結果だろ」
「仙蔵、お前な……自分がちゃんと的に当たるからって」
「本当の事を言ったまでだ!
そうだろ?野沢?」
「おい野沢!仙蔵を甘やかさないでちゃんと……って、どうした?校舎なんて見上げて」
「……誰か居たのか?」
此方へと向けられる2人の視線。一つは疑問。一つは不安。
しかし、狐の面を被る少年は小さく首を振り、見上げていた校舎から2人の友へとゆっくりと戻して行く。
『否、現在、不在』
了
100829