お礼が言いたかった。
ただ、純粋に。
彼が誰よりも先に私を助けてくれた事で開けた未来は、穏やかで酷く淡く不安定なもの。それでもきっかけを作ってくれたものに変わりは無かった。
後ろに下がる事でしか無かったこの日常を、静かにでも確実に私自身の気持ちと在り方を教えてくれた。
お礼を言う何てまだまだ早い。
勿論、そんな事はわかりきって居た。
だけど、言いたかった。どうしても。
委員長との出会いをくれた君に。
彼は優秀な生徒ばかりで作られる一年い組の子。名字は野沢。下の名前を聞こうにも委員長は知らない。としか言って居なかった。
本来ならば、あの後もう一人の六年生と一緒に野沢君も来る筈だったんだけど、野沢君は蛸壺を先輩と埋めた途端に居なくなったらしい。
お礼、言い損ねた。
肩を落としていた私だが、委員長は俺様達より伊作はアイツと同学年だ。いつでも会えるから、心配するな!と、乱暴に私のほっぺを伸ばして居たのを覚えて居る。
だから私はいつ彼に会えるかな?どこで会えるかな?っていつも思っていた。すると、その機会はすぐに私へと訪れた。
移動教室の最中廊下を走る私の向かい側から、一年生の中でひときわ目立つ鮮やかな色が栄える。
腰に巻く着物は遠目から見ても分かる位に引きずって居て、今になって彼は転ばないのだろうか?と可笑しな疑問が湧き上がる。
だけど、それよりも増したのはまたちゃんと会えた事、そしてお礼を言える。と言う2つの思い。
私は彼の名前を呼びながら彼へと走り寄れば、狐のお面が上がったのが分かる。
そして、私へ返す様に手を振っては向こうから駆け寄って来る姿が嬉しくて胸がぽかぽかに暖かくなる。
「野沢君!」
彼へと後一歩ですぐに手が届く。と言う瞬間だった。まだ慣れていない一年生の忍装束。それは私自身の走るバランスを崩させる原因となり、私は授業道具を持ってそのまま前へと倒れてしまう。
しかし、膝をぶつけてしまう。と言う痛みが襲って来る前に触れたそれは柔らかく、無意識に閉じていた目を開けば視界いっぱいに野沢君が居た。
「わっ!わわ!ごめん!野沢君!」
いきなり彼に悪い事をしてしまった私だが、彼は私を支えたまま体をペタペタと触りだす。ちょっとだけくすぐったいけど、『怪我、皆無?』と心配そうにする声に嬉しいと思ってしまった事は秘密だ。
私は彼の手を借りてとりあえず起き上がれば、『怪我、皆無。俺、安心』とお面の向こう側で笑った気がした。
『善法寺、俺、用件?』
コテン。と、明らかに首を傾げられた彼の言葉により、本来の目的を失う所だった。
「えっとね、ありがとう。って言いに来たの」
『俺?』
「そう!野沢君に!
野沢君が私を塹壕から助けてくれたあの後ね、保健委員会委員長の南部先輩といっぱいお話したんだよ。そしたら、南部先輩が保健委員会に入らないかって!」
移動教室に当てられる時間なんて、そんなに多くない事を私は知っていた。
だけど、野沢に一番に聞いてもらいたくって、あの日に起きた事、途中から医務室にやって来たもう一人の六年生。三人で色んな話をしていっぱいいっぱい撫でて貰った事。
一つ一つの言葉、内容。それらをどうしても野沢君に聞いて欲しい。勿論、それらが一人よがりだってのも分かって居ても、きっかけを分けてくれた彼に全て聞いて欲しかった。
君のきっかけで、私は今、凄く嬉しく楽しいのだと。
「でね、今度で良いから先輩達が遊びに来なさいって!だから、野沢君、今度一緒に私と……」
と、言いかけた所で野沢君の隣に一人の男の子が遣ってきた。
彼は私を見るなり眉間に皺を寄せる表情をして、それが何だか怖くなった私は言葉を詰まらせた。
野沢君の隣に遣ってきたその子は、野沢。と、だけ名前を呼んで後ろへと振り返る。野沢君はその子に釣られて同じ様に振り返れば、ピクリと手が動いたのが分かった。
そして、直ぐに私へと振り向いた彼は、結っていたその頭をガシガシと乱暴に掻く。
『善法寺、会話、後日』
「え!?」
『約束、俺、善法寺、部屋。向かう。故、心配皆無』
約束。野沢君が私の部屋に今度来てくれる。と言う事は、この話はその時に。って事で考えて良いのかな?
それに、よく考えれば今は移動教室の最中だ。こんな所で長話をしてちゃ野沢君達にも迷惑が掛かっちゃうし、私だって授業に遅れる。
何だかもの足りない私だけど、またちゃんと彼とお話が出来る。そう思えば、こんな事は我慢出来る!
「うん、分かった。
ごめんね?無理やり話し聞かせてしまって……」
『否、善法寺、笑顔。俺、安心』
そして、足元、注意。と言い残した彼は、遣ってきた廊下へと戻って行く。
そしてその背中を眺めていた私だが、あとを追うように背を向けようとしたもう一人の子とまた目があった。
その目が、どこか警戒している様な物を含んで居て、私は一瞬怖くなり唾を飲み込んだ。
視線が外れ野沢君のあとを追いかけるその子。2人の背中をただじっと眺めていると、近くの物陰がいきなり何かが飛び出して来た。
それは水色と言う一年生の忍たまが着る忍装束を着ていて、サラサラと川の様に流れる髪の毛を靡かせていた。そして近くを通った野沢君の懐へと飛び込む姿が私の瞳へと映り込む。
「(……何?アレ……)」
懐へと飛び込んで来たのは紛れもなく私達と同じ一年生。
そしてそんな一年生の背中を撫でる野沢君と、それを眺め苦笑するさっきの彼の姿に胸の辺りがチクリと痛んだ。
了
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