雪の下で眠る蕾


 雪の日というのは退屈だ。
 道に出るのはもちろんのこと、整備をするにもトレーニングをするにも寒くてかなわない。
 いや、そもそも場所の確保自体が難しい。なにせ、ただでさえ大所帯の箱根学園自転車競技部である。
 いくら恵まれた数量のローラー台にトレーニングマシンに整備セットが用意されていると言っても、こうも一斉に需要が集中すれば当然許容オーバーである。
 その凄まじさといえば、たとえ実力主義の部内でも、いや実力主義だからこそ、目立った功績のない一年生……つまり自転車自体を初めて一年未満の荒北のような一年が食い込めるような争奪戦ではない。
 というか、既に何度かそんなこんなで先輩数名相手に一悶着を起こし済み、というのが荒北という男である。いい加減見かねた福富が、窓の外を見つめながら田中の名を口にしたのは昨日の部活終わりのことだった。曰く、たまには他の人間の走りをじっくり見ることも、必要かもしれないな……ということで。

「ハァ? 言いたいことはわかるけどよォ、なんでそこで田中が出てくんだよ!?」
「……部の記録より、放送部のものの方が質も量も勝っていることはお前も知っているだろう。それに、普通に見せてくれと頼むより田中経由の方がハードルも下がるだろう」
「いや、でもよ、オレ正直なとこ田中にはなるべく借りは作りたくねーっていうかァ」
「大丈夫だ。既に田中に了承は得てある。『完璧なチョイスを完璧な状況で上映してみせるから、期待しててね』だそうだ」
「……ちょっ福チャァン、なんでオレより先にあいつと話纏めてんのォ!?」


  ***


 テレビを消して、電気を消して、教室に鍵をかけた田中にもごもごと礼の言葉をつぶやけば、それだけで幸せそうな顔をされて困ってしまう。
しかも鍵をかける間「ちょっと持ってて」と預けられた荷物は放送部の備品で、つまり荒北のために田中が用意したものである。女子の腕には重いだろうそれらをそのまま返す気にもなれず、部室まで持ってってやるよと言ってしまったのも優しさでもなんでもなく至極当然の流れに過ぎない。
 だというのに。一体何がそんなに嬉しいのか、嵩張るダンボールの代わりに荒北のカバンを手にした彼女はブンブンと手を振りながら、浮かれ調子で隣を進む。

「つーか、こんな寒いっつーのによく元気だな」
「荒北くんと違って、寒いのは結構平気なんだよーん」
「そーかよ……あーハイハイ、羨ましいねェ」
「荒北くんは寒がりだよねぇ。まあそんな骨皮な身体だったら無理もないだろうけど」
「……お前それ、ある意味ブーメランだって気付いてるかァ?」

 口にしてから、荒北はやべっと咄嗟に息を止めた。
 ガリガリと評されるのは気分のいいものではないが、田中としてはただ見たままの印象を口にしただけだろう。荒北としてもそれがわかるから、そこまで気分を害しはしなかった。
 だからあくまで、売り言葉に買い言葉という程でもない、他愛ないやり取りとして言い返したのだ。
 けれど、思い返してみれば……女子生徒に対してはあまりにもデリカシーに欠ける言葉の選択だったのではないか。最早フォローのしようも無い程に、意味は明らかだ。つまり「オマエ肉アルヨナ」。
 妹たち相手なら、一触即発間違いなし。身内以外の「女子」相手なら、最悪泣かれるかもしれない。
 荒北のそんな悪い想像をなぞるかのように田中の反応も途切れたので、殊更に不安になる。

 気にしていない素振りを装いながら、恐る恐る目線をずらしていって田中の表情を確かめようとして……荒北は息を呑んだ。羞恥に震えるか、怒りに眦をつり上げるかどちらかだろうと思った彼女は、確かに俯いていた。けれど、口元に笑みが浮かんでいるように見えるのは錯覚だろうか。
 恐る恐るだった筈が、あまりの光景に勢い良く顔を向けてしまえば、そんな荒北の反応を受けていよいよ田中は薔薇色の頬をして瞳を蕩けさせた。

「荒北くん、私の身体をそんな目で見ていたんだね!」

 台詞だけなら怒り心頭と受け取れなくもないが、生憎なことに耳を震わせるのはまごう事なき歓喜の響きだ。わずか一年未満の付き合いとはいえ、この手の反応を見せる時の田中がろくなことを考えていないことなど、もう充分過ぎる程に知っている。
「嬉しいなぁ、荒北くんてばなんだかんだ言いながらちゃんと私の事、視姦し……」
「あーあああ、ああ、そうだお前さァ!!」
 ああそうだこいつは並の「女子」じゃなかった。
 なんとか咄嗟に喉を震わせ、どうにか物騒な言葉が飛び出きるのは阻止できた。
 そのまま混乱の残る頭で必死で考える。いくら放課後とはいえ、どエムモードが炸裂するのは大変に危険だ。なんとか話題を逸らさないと。
「ほら、そこ、もう放送室着くぞ! 今日はマジで悪かったな、じゃあな!」
 さあ両手を出せ。大人しく差し出された手の上にずしんと荷物を押し付けて、代わりに自分のカバンをもぎ取って踵を返そうとするも「待って、荒北くん」という声に袖を掴まれる。
「そのままじゃ寒いでしょ。カイロあげるから、ちょっと待って」
 はァ?と確かめるように振り返れば、求めた言葉の代わりに「ここまで来て、そこのドア開けて」と頼まれた。

「……ほらよ」
「ありがと。じゃあ、本当にすぐに戻ってくるから、ちょっとだけここで待っててね」

 はいもいいえも何も確かめることをせずパタンと閉じた扉の前で、荒北はただただ呆然と立ちすくむ。
 ちょっと待て。オレ今、帰るって言ったよな? これじゃ帰れねェっての。
 別に、そこまでカイロが欲しいわけでは決してない。けれど、田中がカイロを持って扉を開けた時、荒北の姿がなければがっかりするのは間違い無いだろう。
 これがいつものように彼女の勝手な期待や偏執的な思いの結果だったのなら、それを裏切ることなど一ミリの抵抗もないのだが……さすがに今回のように自分のことを思いやっての(しかも珍しくマトモな)好意となると、良心が痛むのもまた当然のことで……。

 あーやってらんねェ。
 ……しゃあねえから、カイロくらいは貰ってやるか。

 やたらホカホカしている鞄の持ち手を握りながら、荒北はそっと冷たい壁に背を預けた。



(タイトル:Janis)

 

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