《第29話》
2月14日。
今日は、男の子や女の子から醸し出されるそわそわした空気が校内に満ちる日だ。この学生特有の甘酸っぱい雰囲気をもう一度楽しむことができるなんて、意中の人がいない私でさえちょっと浮き足立ってしまいそうだ。
私がこんな風にイベント事を楽しむ余裕ができているのも、あの日リボーンが打ち明けさせてくれたおかげだろう。
そんなことを考えながらちょっぴりご機嫌な足取りで教室にたどり着くと、花輪さんが頬を紅潮させてこちらに駆け寄ってきた。
「おはよう千尋さん!今日はバレンタインデーよ!」
『おおっ…、花輪さんってこういうの興味ないかと思ってた』
「ま、まあ…いつもならくだらないと思っていましたけど、でも今年は…その…」
浮き足立つクラスメイトに対していつもの花輪節が炸裂するのかと思いきや、花輪さんも例に漏れずこの日を楽しみにしていたようだ。真っ赤になりながらもじもじと答える姿がなんとも可愛らしい。
「そ、それより千尋さんは?フゥ太にあげてきたの?」
『うん、朝イチでね。喜んでくれたよー』
昨日の夜キッチンで、フゥ太の期待に満ち溢れた視線を受けながらつくったチョコチップマフィン。たくさん配ることになるからと量産しやすいレシピを選んだが、なかなかかさばるなあとマフィンがたくさん入った紙袋を見る。
今朝はクリスマスプレゼントよろしくラッピングしたマフィンをフゥ太の枕元に置いていたら、目覚めたフゥ太が「千尋から一番最初にもらった!」と飛び跳ねて喜んでくれたのだ。うちの子、めちゃめちゃに可愛い。
……というように今朝のことをデレデレしながら話すと、なぜかムスッとした花輪さん。唐突に手に持っていたお高そうなショップバッグに腕を突っ込んでガサゴソ中を漁り出した。
「ま、まあ?私は大人ですから?フゥ太と張り合うつもりなんて一切ないけれど?」
モゴモゴと言いつつショップバッグから取り出したそれを突き出してきた花輪さん。一体なんなんだろ、とその箱をまじまじと確認して目がとび出そうになった。
「友チョコよ!!」
『いや友チョコのレベルが高すぎない!?』
ブ〇ガリのチョコレートじゃんこれ!
いやそのブランドのチョコって確か一粒あたり平均1000円の超高級チョコだったような…。まるでブランドコスメが入っているような風貌の箱のサイズ的に軽く10粒は入ってそうなんですが…?
『花輪さん、これは中学の校舎なんかで出していいものではないです』
「? 何を今さら校則なんか気にしてるの?千尋さんも持ってきてるんでしょ?」
きょとんと首を傾げる花輪さん。
いや校則の話じゃないんだけどな…!?と頭を抱える私を見てさらに口を開く。
「たいした値段じゃないわよ?」
『私にとってはたいした値段だから受け取り辛いの!……でも一方で二度と口にできないであろう値段のチョコの味が気になりすぎる自分と戦ってる』
「あらそう、そういうことなら言い方を変えるわ。せっかく用意したものを受け取らない方が失礼よ。さっさと負けてしまいなさい」
『負けましたワーイ』
うっかり本音を呟いた私に対して花輪さんは毅然とした態度で説き伏せてきた。それに対し、速攻で手のひらを返して花輪さんのチョコを満面の笑みで受け取ることにした。
一生かけてお返ししていこうと考えながらチョコを受け取ると、花輪さんの指が視界に入った。痛々しくいくつかの絆創膏(患部のとこが膨れる高いやつ)が巻かれている。
反射的に花輪さんの指先を手に取ってまじまじと見つめる。
『……花輪さん、もしかして手作りもつくってた?』
「なっ!……そ、そうよ…でも失敗作をあなたに食べさせるわけには…」
『食べたかったな、花輪さんの手作り。きっと一生懸命選んでくれたチョコなんだろうけど…でも、それよりも花輪さんが頑張ってつくったチョコの方が価値があるよ』
だから、ね?来年は期待してるよ。そう言って花輪さんの患部を優しく指で撫でる。ああ、こんなに綺麗な指が痛々しい姿をしているのかと心を痛める。
その時、輪島花子の目には秋山千尋が輝く王子様のように見えたという。
ぽうっと頬を紅潮させている花輪さんに気づかず、私は用意していたチョコチップマフィンを渡す。
『はい、私からも!って言っても花輪さんがくれたチョコには到底敵わない手作りなんだけど…』
「……私にとってはどんなに有名なパティシエがつくるお菓子より価値のあるものだわ。あなたがそう言ってくれたようにね」
だからありがとう、と満面の笑みを浮かべて喜んでくれる花輪さん。うーんこの笑顔を見るために登校したと言っても過言ではない。
「一生食べずに部屋に飾っておくわ!!」
『そこは食べて?』
朝の花輪さんとの一時を楽しんだ後、席について鞄から教科書を出しながら教室を見渡してみる。すでに教室の一角で山本と獄寺くんを囲む女子の姿が目に入った。二人にもマフィンを持ってきたんだけど、学校で渡すのは難しそうだなあ。予鈴の音を聴きながら頭の中で今日のスケジュールを組み立てていた。
そうこうしている内にもう放課後だ。ツナのところに行こうかなと席を立ち上がろうとしたとき、教室の入口から名前を呼ばれた。
『あ、持田先輩!』
「よ、よぉ!千尋!」
廊下に出てみると持田先輩がそわそわとしながら私を待っていた。
「……輪島は?いねぇの?」
『? はい、輪島さんは部活があるのでいないですよ』
持田先輩が来たらいつも教室からすっ飛んでくる花輪さんは今はいない。
ふたりは兄妹みたいに仲良いから持田先輩も会えなくて残念だろうな、と微笑ましい気分でいると「千尋が今考えてることは全然合ってないからな」と謎にツッコまれた。
気を取り直して、と持田先輩はひとつ咳払いをする。背後の物陰でなぜか持田先輩のクラスメイトや部活の後輩が固唾を飲んでこちらを見守っている姿が視界に入る。
「(持田ー!この青春野郎!ガンバレ!!)」
「(持田先輩は非モテの希望です!オレ応援してます!!)」
なにかしらのジェスチャーをしながら持田先輩は応援されているようだった。よくわからないけど、持田先輩はあの事件から着々と周りの信頼を回復しているようでよかった。
「とっ、ところで千尋はその…チョコ、とか…持ってきてんのかなーって…!」
『ん?…ああ!忘れるとこでした』
ポンと手を叩いて思い出す。一度教室に戻って紙袋ごと持って戻ってきた。その中のひとつ、量産された小さなチョコチップのカップケーキを持田先輩に渡す。
『どうぞ!味の保証はできませんが……って泣いてる!?』
「ううっ…ぐす…ひぐぅ……まさか貰えるなんて思ってなくて…!」
『そりゃ渡しますよ。お歳暮みたいなものですし』
「お歳暮」
『持田先輩にはいつもお世話になってますから。あ、この後は部活ですよね?これで小腹満たして頑張ってくださいね。じゃあ、私はこれで!」
複雑な表情で私とカップケーキを交互に見つめる持田先輩に笑顔で手を振り別れると、背後でドタバタと持田先輩に駆け寄る足音が聞こえた。
「持田ァ!お前よく頑張ったよ!お前ならやれると思ってたよ!脈は全然なさそうだけど!!」
「持田先輩!チョコ貰えてよかったッスね!脈は全然なさそうですけど!!」
廊下の中心で男たちがわあっと感涙しながら持田先輩に抱きついていく姿を背後に次の目的地に向かう。楽しそうで何よりである。
『吉田くん』
静かに図書室の扉を開けると、いつもの席にお目当ての人物を見つける。
なんだかずいぶんと久しぶりな気がする。
こちらに気づいた吉田くんはぱあっと表情をほころばせる。
「! 秋山さん!わあ、久しぶりだね」
『だね!吉田くんは変わりなかった?』
「うん。元気に過ごしてたよ。秋山さんも元気そうでよかった」
読んでいた本を閉じてにっこり微笑む吉田くん。私はちょっと申し訳ないと視線を泳がせた。
『図書室、ぜんぜん来れなくてごめんね。吉田くんはやっぱり今もここに通ってるんだね』
「ふふ、気にしないでよ。僕はこの場所が好きだからね。……あ、そうだ秋山さん、これよかったらもらって」
そう言って、隣の椅子の上に置いた通学バッグからおもむろに小さな紙袋を取り出す吉田くん。
その紙袋から箱を取り出して私に差し出した。
『……チョコ?』
「そう、今日バレンタインだからさ。いつも話聞いてくれるお礼に」
少し照れくさそうに渡してくる吉田くんのチョコレートを素直に受け取りながらもぽかんと目を丸くさせる。
『逆チョコだ…』
「えっ………え!?あっ!ごめん!そっか、日本は女の子から渡すんだった…」
『えっ?』
「あー……ううん、気にしないで。んー…その、僕けっこう発祥とか由来とかこだわっちゃうタイプでさ…。まあそんなことより、買い物ついでに見つけたものだから気軽に受け取ってよ」
めずらしく歯切れの悪い吉田くんを不思議に思いつつ、受け取ったチョコレートの箱を開けてみる。そのチョコレート一粒一粒がまるで宝石のようにコーティングされていて、光の加減で何色にも見える。
「綺麗だよね。角度によって虹の色に光るんだって」
『虹の色……。すごいね吉田くん、センスいい…』
「そんなことないよ。でも気に入ってくれて嬉しいな」
惚れ惚れと目を奪われる私に微笑む吉田くん。こういうことサラッとできちゃうなんて、素敵な人だなあ。
『……って、そうだ私からも!こんな素敵なチョコ貰っといてなんだか恥ずかしいけど』
紙袋の中からひとつ、小さなチョコチップマフィンを取り出して渡す。
「わあ、僕に?手作りだ!ありがとう!」
『吉田くんにはずっとお世話になってるから。ふふ、でも吉田くんクラスの女の子からたくさんチョコ貰ったでしょ?』
「いやあ僕、影薄いからひとつも貰えなかったよ」
『ええっ、モテそうなのに』
「全然だよ。だから秋山さんから貰ってすごく嬉しい」
『えー大げさだなあ』
なんて笑うと、吉田くんもつられて笑う。
ああやっぱり、吉田くんといるとなんだかホッとするなあ。
二人で久しぶりに和やかに笑いあっていると、もう一つの目的を忘れそうだった。ちょっと切り出しにくいけど、これを言うためにも来たのだ。
『……ねえ吉田くん、そのもしかしたら私もうあんまり図書室来ないかもしれない…』
「そうなの?残念だけど…お目当ての本が見つかったの?」
『ううん、見つかってはないんだけど…でも、前よりハイペースじゃなくてもいっかなって』
今すぐに元の世界に帰れますと教えられても、私はたぶんすぐに納得することはできない。だから少しだけ、探すことから距離を置きたかった。
そんな揺れる気持ちを知ってから知らずか、吉田くんはなおも優しく微笑むだけだった。
「そうだね。探求は楽しみながらやるものだからね」
『……ん。でも、逃げてることになるのかもね』
「逃げるだなんて。ときには休憩も必要だよ
」
『吉田くんは優しいね…。また少し会える機会が少なくなるのは寂しいな』
「図書室だけしか会えないなんてことないんだから、これからもよろしくね」
『……うん、そうだね!今日は吉田くんと会えてよかったよ』
じゃあ、教室に戻らなきゃだからと手を振って背を向ける私。
「ねえ秋山さん」
図書室から出る直前に、吉田くんに呼び止められた。
「学校、楽しい?」
『えっ?うん、楽しいよ?』
少し不思議な質問だけど、素直に頷く。それに対してそっか、と笑うだけの吉田くんに首を傾げつつ、その場で別れた。
さて次は並盛三人組に友チョコを渡す。
チョコといえば原作ではたしか放課後、ツナの家で京子ちゃんとハルがバレンタインチョコをつくるはず。……ビアンキに教わりながら。
うん、フゥ太を迎えに行くつもりだけど、ぜったいに関わりたくない。危機回避のためにツナにみんなの分も預けておこう。
となると、山本と獄寺くんにはできるなら今のうちに渡しておきたい。廊下からチラっと二人を伺うが、放課後になってまでチョコを渡したい女の子に囲まれていてタイミングがつかめない。
「あの…秋山さん!」
教室に入る前に、隣のクラスの控えめそうな女の子から声をかけられる。
『はい?』
「秋山さん、獄寺くんと仲良いから…よかったらかわりにチョコ渡してくれない?」
「あっ、じゃあ私も!山本くんにお願いしたいの」
ちょっと離れたところで山本の様子を伺っていた別クラスの子も便乗して声をかけてきた。
『え!でもそのぉ…ふたりともずっと囲まれてるから私もなかなかタイミングがなくて……』
「そこをなんとか!」
結局二人の懇願に押されてチョコを受け取ってしまった。うーん渡せるかなあ…。
ちょっぴり重い足取りで教室に戻ると、相変わらず山本と獄寺くんは女の子に囲まれている。教室を見渡すと、嬉しそうな男子、恥ずかしそうな女子、表情さまざまなクラスの子でいっぱいだ。その中でもひときわ──どんよりしている彼の肩を叩いた。
『ツナ!』
「あ、千尋…!」
私に気づいたツナは目を丸くして笑みを浮かべる。あ、なんかちょっと顔色戻った。
『はい、バレンタイン。チョコチップマフィンつくったの。苦手じゃなかったらもらって?』
「え!お、おれに!?」
『うん、ツナいつも仲良くしてくれるから』
そう言って笑うと、みるみると瞳を輝かせていくツナ。もうオレ千尋から貰えないかと思ってたよ…と口の中でもごもごと言いながらツナは差し出したマフィンを大事そうに受け取った。
「うわぁ、嬉しー…。え、うわ、どうしよう…嬉しすぎる……!おれ、母さん以外からチョコもらったの人生ではじめて……」
はーっと喜びのため息を吐きながらマフィンを抱きしめて喜んでくれるツナ。だけど私はツナのその言葉にハッと目を丸くさせる。
『え!?ご、ごめん…初めてが私なんかで…!』
わーっしくじった!この後ツナは京子ちゃんとハルから人生初のチョコ貰えるはずだったのに!と思わず頭を抱えてしまった。
好きな子から初めてのチョコを貰える記念日だったのに私ってばなんてことを…!
「え!"私なんか"じゃないよ!?千尋がいいんだよ!!……本当に、初めて貰ったのが千尋でめちゃくちゃ嬉しい」
そう言って本当に嬉しそうに微笑むツナ。うう、やっぱりツナは優しい。そう言ってくれるのはありがたいけど失敗した!と内心ドギマギしていると、後ろから聞きなれた声がした。
「千尋、ツナ!なにやってんだ?」
「山本!」
いつの間にか女の子の輪から抜け出した山本が、勢いよくツナに肩を組んできた。そして私からのマフィンを指さす。
「バレンタイン?千尋から?」
『そうだよ。よかったー、山本ずっと捕まえられなかったから』
そう言いながらマフィンを山本にも渡す。今日渡すのは難しいかなって思ってたよー、と胸を撫で下ろした。
「おーサンキュ!………って、まあ正直言うとツナにチョコ渡してるの見て飛んできたんだけどな」
千尋から欲しかったから嬉しい、とめずらしく静かにはにかみながらマフィンを大事そうに見つめる山本。おお、そんな表情もできたんだ。
大した味じゃないけど、ツナも山本もマフィン好きそうでよかったな。
『あ、そうだ。これツナんちに来たみんなにも渡して。奈々さんのぶんもあるからね』
余ったら食べちゃっていいよー、と10個ほどドサドサと手渡す。あ、これはでも紙袋あった方がいいなとツナに紙袋を渡していると、集まる女の子をスルーした獄寺もこちらに近寄ってきた。
「業者かよ」
『バレンタインデーの女子は業者になるもんだよ』
学生のお歳暮みたいなもんだからね、とクラスで交換用の友チョコをすでにさばき終わっていた空の紙袋を開いて見せる。軽い調子で返答した私に、獄寺は少し言い出しにくそうに口を開けた。
「……つーかオレには?」
『……えっ?貰ってくれるの!?』
「バッッッカ!でけぇ声出すな!」
私が見ていた限り、今日獄寺はひとつもチョコを貰っていないはずだ。肩を落とす獄寺派の手には渡せなかったであろうチョコが抱きしめられている。
私も渡せたらラッキーくらいに考えていたので、つい驚いて声を出してしまった。そんな私の口を勢いよくアクセサリーのついた手で塞ぐ獄寺。
つい、ごめん。とジェスチャーで声を上げないことを約束すると、手を離してくれた。
「あー…お前のことは一応身内だと思ってるし、信用してるから……。毒も盛られてねーだろうし」
『毒て。他の子だって盛ってないよ…』
「うるせーな。マフィアは何があるかわかんねーんだよ」
ぶつくさと物騒な言葉を出す獄寺くんにも二人と同じようにマフィンを渡すと、素直に受け取ってくれた。
『んーじゃあコレもだめか…。さっき隣のクラスの子が獄寺くんに渡してって預けてくれたんだよね』
「……返してくる。名前は?」
ちゃんと会って返してくるのか、と驚きつつ獄寺くんと山本に女の子から預かったチョコを手渡す。山本はサンキュと朗らかに受け取ってくれた。
獄寺くんのことだから、もらってくんじゃねー!と怒られると思ってたのに。そういうとこ真面目で可愛いよね。
さっそく教室を出た獄寺くんをふふっと微笑みながら見送っていると、隣に立っていた山本がポツリと呟く。
「……おれも来年から獄寺みてーに受け取らないようにしようかな」
『え!?ファンクラブの子悲しんじゃうよ!?』
「………本命の子にちっとも気にされないのもヤだからなー」
そう言って困ったように笑う山本。
そっか、モテる人の悩みもあるよね。それは確かにそうかもねえ、と私も笑って返すとまたさらに困ったような顔をされてしまった。
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