《第24話》
いつもの時間帯。
千尋が買ってくれた漢字ドリルも解き終わって、ちょうど玄関に目を向けた時だった。ピンポーンと軽快な音を立てて大好きな人が帰ってきたことを知らせる。
クッションを放り出して急いで玄関まで駆けて鍵を開ける。
あっ、また「ちゃんとカメラを確認して開けなさい」って怒られちゃうかも(でもいつもより遅かった千尋も悪いんだから!)
「おかえり千尋っ…」
ほっぺたがゆるゆるになるのも構わずドアを開けて千尋を迎えたはずだった。
そこにはちょっと困った笑顔を浮かべた、背の高いお兄ちゃんがいた。呆然としていると、お兄ちゃんの背中におんぶされている千尋を見つけた。
「千尋!どうしたの!?」
「わっ、と!落ち着け、大丈夫だからさ」
パニックになってお兄ちゃんの腰にしがみついたら、お兄ちゃんは安心させるような笑顔を浮かべ、僕と同じ目線になるようにしゃがみこんだ。
「オレは山本武、千尋の友達だ。そんでコイツは――ボールがな、頭に当たって気絶しちまったんだ。だからオレが連れてきたっつーわけ」
「大丈夫なの…?」
「ん、すぐ目覚ますってよ」
そっか、よかった。ホッとため息をついたあと、武兄に家に上がってもらった。
武兄はリビングのソファーに千尋を慎重に寝かせ、髪をくしゃりと撫でたあとこっちに笑顔を向けた。
「いつも一人で留守番してんのか?えらいなー」
さすが千尋の弟だな!と僕の頭もくしゃくしゃと撫でる。
「あ、あの、千尋を運んでくれてありがとうございます」
「いーっていーって!…ん?よく見ればあんま似てねーかも…?」
マイペースなお兄ちゃんだなあなんて思いながら、首を横に振った。
「姉弟じゃないけど、僕にとって千尋は一番大切な人だよ」
「…そっか。オレもな、千尋は命の恩人だし、大切な友達だ」
意外と勘がいいのか武兄はくわしく聞いてこなかった。
大切な友達だって言ったのに、なんでそんな切なそうな顔してるの?
「大切な友達なんだけどな…オレ、助けてもらってばっかでコイツのこと何も知らねーし、助けれてないんだ、きっと」
千尋を見つめる武兄の視線を追って、僕も千尋を見つめる。
「千尋、自分が思ってる以上にいっぱい味方いんのにな」
武兄が呟いたそれに顔を上げた。
ああ、そっか
千尋には僕だけじゃないんだ、なんて
「っと、やべっ!もう部活始まるからオレ戻るな!」
「えっ?もう行くの?」
「おう、わりーな。千尋にはよろしく言っといてくれよ」
慌ただしく玄関で靴を履いてる武兄を慌てて引き止めた。
「あ、あのね武兄!ひみつだから!」
「え?」
「僕、ほんとはあんまり人に知られちゃまずいんだ。だから、今度会ったときははじめて会ったみたいにして?」
「それは…」
ドアノブを握ったまま、目を丸くした武兄は開いた口を一度閉じて、真剣な目を向けてきた。
「それは、千尋の秘密でもあるのか?」
その問いに僕が頷くと、武兄は本当に嬉しそうな眩しい笑顔を浮かべた。
「やったぜ、千尋の秘密いっこゲット。ちゃんと秘密にすっから安心しとけよ」
ピースサインを向けた武兄は笑顔のまま玄関から出て行った。
「……千尋」
ソファーで眠っている千尋にそっと近づく。
「そうだよね…千尋にはたくさんの味方がいる。きっとツナ兄も、なんだよね…?」
返事がないことをわかっていながら僕はたずねた。
「…悔しいんだ、すごく。だって僕は武兄みたいに千尋を運ぶ力なんて持ってないし、この前だって千尋に手を引かれ逃げれた」
千尋のそばに寄ってその細い手を両手で握る。
僕より少し大きいだけの、細くて小さな女の子の手だ。
僕の居場所を示して、いつも隣で手をつないでくれて、頭を撫でてくれたり、おいしい料理もつくれる魔法の手。だけど普通の女の子の手なんだ。
「はやく大きくなりたいなあ。千尋よりも大きくなって、守れるようになって、一番頼れる男になりたい」
千尋に守られるだけの子供じゃいやだ。
僕には君しかいないから、与えられるだけだと不安になるんだ。
実は「吉田くん」とデパートで会った時も、彼に頼る千尋を見てムッとしちゃったんだ。
僕はね、いつも千尋の特別でありたいんだよ。
「だって僕は、千尋を家族みたいに大切に思ってるけど、それよりもずっとずっと――千尋がすきだから」
いつか君の背を追い越したとき、伝えられるかな。
…それまでは千尋に悪い虫がつかないようにしないとなあ。
「今はまだ僕が千尋にいちばん近くに居れるから、秘密にしとくけどね」
いたずらっぽく笑って、秘密のキスを千尋の手首に落とした。
その時がきたら、ねえ千尋、覚悟しててね?
『…んぅ、?』
「あっおはよ、千尋」
『…ふー、たぁ?』
寝ぼけ眼で辺りを見回す千尋にクスクスと笑いがこぼれる。
こんな千尋見ることができるのも僕の特権だよね。
『あれ…?私たしか…』
「千尋ってばボールが当たって気絶したから武兄に運んでもらったんだよ?」
『へ?ボールなんて…ってえ!?や、山本!?』
「うん、山本武って言ってた」
わああわたしのばか!まだフゥ太と会っちゃいけないのに!とうろたえる千尋をどうどうと宥める。
「大丈夫だよ!武兄には会ったこと秘密にしててって言ったから」
『ひみつ…?』
「うん、今度会った時ははじめて会ったみたいにしてって」
『さっすが私の子!えらい!にっぽんいちー!』
そのおかげで武兄をちょっと喜ばせてしまったけど。
でも、こうやって千尋に撫でくり回されるなら結果よかったや。
されるがままになってたけど、突然ハッとしたように千尋の動きが止まった。
「千尋…?」
心配になって覗き込んだ千尋の顔はどこか青白い。
「どうしたの?打ったとこ痛む?」
『ううん、そうじゃないけど…ちょっとさっきあったこと思い出しただけだから』
大丈夫。そう言って心配させまいと無理に笑う千尋。
ねえ千尋、僕はそんな顔見たくないよ。
「邪魔するぞ」
静かな部屋に突然響いた声。
聞いたことのないそれに千尋と僕は辺りを見回した。
『なんっ…!?』
驚いた千尋の視線の先のガラス戸には、小さな赤ん坊が立っていた。
『なんでここにっ…!』
「なんでって、わざわざ忘れ物を届けにきてやったんだぞ」
そう言って赤ん坊はその体の半分もの本を片手で揺らした。千尋が目を見開いて真っ青な顔になる。
黒スーツにボルサリーノのソフト帽という格好で、ずいぶん流暢に喋る姿は赤ん坊らしくない。――あれ?もしかして…
『本っ…!』
「もしかして君がマフィア最強の殺し屋、リボーン?」
千尋が喋る前にそうたずねた。
赤ん坊はニッと不敵な笑みを浮かべると、くるんと華麗にこっちに飛んできた。
「正解だ。俺がリボーンだぞ」
やっぱり!
本を持ったまま軽くさらにジャンプしたリボーンは千尋の膝の上に着地した。
「今日はちょっと千尋と話したいことがあってな」
『えっ…』
「わあすごい千尋!最強のヒットマンとも知り合いなんだね!」
やっぱり僕の千尋は計り知れない。
尊敬の眼差しを千尋に送るけど、千尋はリボーンばっかり見てとっても焦った顔をして僕に気づかない。
…なんかやだなぁ。
「というわけで今からコイツを貸してもらうぞ」
『なんでっ』
「それは千尋が決めることだよリボーン。それよりはやく膝から降りてよ」
ね?とにっこり笑って牽制するが、ぜんぜん効いてないみたいにニヤリと笑ったままだ。
「…さっきのやるじゃねえか。ツナより男だな、ランキングフゥ太」
「やだなあ、盗み見?」
「たまたま見てたんだ」
そんなことより、とリボーンが千尋の目の前で本を振る。
それには「日本人と異世界」なんて怪しげなタイトルが書いてあった。
そういえば、部屋の一角にある積み上げられた本にもそんな感じのタイトルがつけられてたな。
「俺と喜んで話をするのか、しないのか」
リボーンはなおもゆったり本を振る。
千尋は青く固い表情のままだ。
「これから先もそれで、苦しくねーのか」
ピクリと千尋の肩が動いた。
「誰にも何にも言えねーまま、ひとりでもがいて苦しんで」
千尋がだんだんとうつむきがちになり、拳が強く握られていく。
「だったら俺が受け止めてやるって言ったんだ」
目を見開いた千尋が顔を上げた。
リボーンは笑みを崩さないまま、至近距離で千尋の頬に手を添える。
「アイツも言ってただろ?そういうことはいつも俺にしか言わないって。癪だが賭けてみろよ」
『…聞こえてたんですか…あの距離で』
「マフィア最強の殺し屋だからな」
地獄耳じゃないんですか、と突然ゆるんだ表情に僕は少しだけショックを受けた。
だって、あんなに壊れそうな、もろくて安心したような表情ははじめて見た。
「これからは俺もいる」
はあっとため息をついた千尋は静かに頷いたあと、ソファーから腰を上げた。
千尋を縁取るやわらかな線がぼんやりと鈍く光っている気がする。こんな千尋もはじめてだった。
だって、ずっと千尋は出会ったころから暖かだけど強くしっかり光っていたのに。
千尋の中で、何かがおわったんだ。
『ごめんねフゥ太、終わったらすぐに帰ってくるから』
そう言って僕の頭を撫でる千尋の手は、確かに細かったんだ。
ねえ千尋、僕もリボーンくらい強かったら、君のすべての不安を受け止める役目になれたのかな。
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title by 喘息