《第9話》
「秋山千尋は居るかあ!!」
穏やかな昼下がり。花輪さんの超高級重箱から黒アワビを頂いていたとき、私の名前を呼ぶ声とともにそれはブチ破られた。
昨日のテレビの内容や、今日の授業、はたまた恋バナだったりと各々好きな話題で盛り上がっていた教室はしんと静まり返った。
「も、持田先輩…?」
「秋山千尋はいるか?」
持田先輩の後輩らしい男子生徒が声をかける。持田先輩は彼の動揺を無視してもう一度聞いた。
男子生徒がゆっくりとこちらを向いた。それにつられて教室内の生徒の視線が私に突き刺さる。
『私…ですけど』
すこし怯えながら立ち上がって、入口に立つ持田先輩に近寄った。
私の顔をまじまじ見つめて大袈裟にうなずくと、突然ニカッと笑った。
「確かに昨日の女子生徒だな!会いたかったぞ、千尋!」
『あの、なんで名前知って…?』
「千尋の見た目を上げて同級生や後輩から名前をリサーチしたんだ!」
『2年の情報網こわい』
それはともかくとして、いったい持田先輩が私に何の用だろう。昨日の花輪さんによる強烈な制裁の復讐だろうか。弱っちそうな私に?…考えられる。
顎につけたガーゼが目に入った。まあ一発くらいなら打たれてもしょうがない気が…。
しかし予想してなかった言葉を私にかけてきた。
「昨日、おまえのおかげで目が覚めたんだ」
『はい?』
「おまえはとくにこれといって京子ほど可愛くないし、癒しを与えてくれるわけでもない…だがしかし!オレを叩き直してくれたその言葉にオレは惹かれた!」
『は、はあ…』
褒められてるんだかけなされてるんだかわからない。
持田先輩は一度ぐっと息をのむと、突然私の肩を掴んできた。
「こんな気持ちは初めてだ!オレと付き合ってくれ!」
『ごめんなさい』
「即答ー!!?」
背後の静まりかえった教室からすばやいツッコミが飛んできた。さすがツナ。
「なっ…!そんな……千尋、またオレを導いてくれ!オレはおまえにフラれた後、どういう生き方をすればいい?」
『えっ導…えっ……諦める、とか…』
「それはできねえ」
『じゃあどうしろと…。ていうか先輩彼女とケンカしたって言ってたじゃないですか』
「心配するな。実はアレただの見栄だ。本当は姉貴とケンカしたんだ!」
『(ば、バカだ!)京子ちゃんのこともう好きじゃないんですか?』
「京子はいい女だったな、確かに。しかし今は可愛い後輩だ。後腐れなく別れたから心配いらん」
『社会的に別れさせられたんですよね?』
それに京子ちゃんからしてみれば別に付き合ってないですよ。
引く気配のない持田先輩に困り果てていたら背後から肩を引かれた。フラフラと二、三歩下がると視界の端に筋張った筋肉が見える腕。おっ、このパターンだんだんわかってきたぞ。
「まーまー先輩、秋山も困ってっし、今日のところは帰ってくんね?」
山本、いつもありがとう。
君は本当にクラスメート思いだ。
「おまえは…野球部期待の1年山本武じゃねえか」
「ん?…期待か…ってかオレのこと知ってんスね?」
「おめーを知らないやつなんかいねーよ!」
一瞬だけ山本の表情が曇ったような気がする。もしかしてもうスランプに陥ってる状態…?
「いいか山本武!今日のとこは帰ってやるがてめーにはぜってぇ千尋を譲らねー!」
『は?』
「えっ?」
じゃあな!と持田先輩は私の頭をひと撫でして走って帰っていった。
『……なんか勘違いしてるね、先輩』
「…だな」
山本と顔を見合わせて苦笑い。ごめん、山本も巻き込んでしまったみたい。
「我慢の限界ですわ!!」
突然の怒声に喧騒を取り戻していた教室がまた静まり返る。花輪さんがメラメラと怒りに燃えながら立ち上がっていた。
「千尋さんに想いを伝えるのはよしとしましょう…その気持ちわからなくもないですから…しかし!千尋さんに触れるなんて言語道断!」
「私、彼が千尋さんの肩に触れてたときからもうキてましたの…」そう言ってユラリとこちらに向かってきた花輪さんは廊下に出た途端、猛ダッシュで先輩を追いかけていった。
何十秒後かに聞こえてくる先輩の断末魔に生徒全員が青ざめたのは言うまでもない。
思い過ごしだったらいいけど―――。
夕日もすっかり沈んでしまった黄昏れ時。眩しいくらいの橙色を流した空にうっすらと紫がかかってきた。
今日の放課後はめずらしく一人で教室に残った。部活が終わり、一緒にいるわとしぶる花輪さんを「お迎えきてるでしょ」と帰らせて、私は獄寺くんに借りた雑誌の感想をルーズリーフにまとめながら時間をつぶしていた。
『…最近図書室に顔出してないな』
吉田くんは今日も大量のオカルト本を消費したのだろうか。元気だったらいいけど…。
ふと視線を窓の外にやると、野球部が後片付けをしていた。あの真ん中でトンボがけしてるのが山本かな。ひときわ背が高い。
それからすこしだけ時間が経って、グラウンドには誰もいなくなった。部室から次々と出てくる人影が見える。――このままみんなと一緒に山本が帰ってくれればどれだけいいか。
またしばらくしてすっかり薄暗くなってしまった空。グラウンドに目をこらしてみると、真っ黒い影が動いているように見えた。
私は急いで卓上に散らかっていた雑誌やルーズリーフをカバンに詰め込んで教室をあとにした。
『山本!』
グラウンドに近づくにつれはっきりと見えてくる人影。やっぱり山本だった。
「ん?お、秋山じゃん!」
なにやってんだこんな時間まで、そう尋ねてくる山本の笑顔はやっぱりぎこちない。
『山本こそ…』
「オレ?オレはほら―…ちょっと最近調子出なくてな」
一瞬山本の表情が強張る。この短時間ですでに滝のような汗をかいていた。
『だからってちょっと危ないよ。こんな薄暗いなか素振りなんて…』
「……んー。…なんかさ、危ないとか、そんなこと言ってる場合じゃねえんだ。オレにとって」
語尾が少しだけ強くなった。表には出さないけどイラついてるんだと思う。あの、山本が。
『でも怪我したら元も子も、』
「わりィけど秋山」
素振りを止めて山本は息を吐いた。そしてゆっくりと顔を上げて私を捉える。
「今はほっといてくんね?」
その瞳に迷いはなかった。真っすぐただひたむきな感情をぶつけてくる。
今はなに言っても効き目なさそう……。私はなにも言わずにカバンをかけなおしてグラウンドをあとにしようと歩き始めた。
「………クソッ、」
背後で小さく悪態つく声。山本は優しいから、私に冷たい態度をとった自分に嫌気がさしたんだろう。
ブン、ブン、と一定のスピードで風を切る音が聞こえる。素人でもわかるほど、その音はがむしゃらで荒々しい。
「……って…!」
その時、カランカランと重たい金属音が地面にぶつかる音が響いた。慌てて振り返ると、右腕を抱えながらうずくまった山本の姿。
『山本…!!』
急いで山本に駆け寄ると、その額にはじわじわと汗がにじんでいた。顔色も悪い。
『山本…大丈夫!?』
「っべえ…ぶつけちまった…」
激痛で利き腕が動かせないことを知ると、みるみる青くなっていく山本。
「オレ……どうしたら…」
『山本、立って。すぐに病院行こう』
真っ青な山本を支えながら立ち上がる。体格のいい山本を支えて歩くなんて至難の技だ。それでも、今にもぶっ倒れそうな彼をひとりで行かせるわけには――
病院についてすぐに診察してもらった。その間に私はじっと待合室で山本を待つ。
骨折してるのは確実なんだけど、あのタイミングでやられるとは思わなかった…。あの時教室から急いで山本のとこに向かった時点で無茶して骨折していると思っていた。きっとショックで動けない山本を偶然を装って病院につれて行ければと考えていたのに…。
まるで私の言葉が引き金だったようなタイミングで心が痛む。
知ってたはずなのに、うまくいかない。
ため息をついたとき診察室の扉が開いた。山本は力なく私の隣に腰を下ろすと、ぐったりと頭を下げた。
「……骨折だって。リハビリも含めて全治4週間」
山本らしくない暗い声。直後に廊下の向こう側から山本のお父さんが現れ、山本と喋る間もなく診察室に呼ばれた。
なにも声をかけられないでいると、山本は小さく乾いた笑い声を漏らす。
「勘違いしないでくれよ、オレがこんなになっちまったのは秋山のせいでもねーし、ツナが努力しかねーって言ったからでもねえんだ」
『……山本』
「ましてや秋山は止めてくれたのにな……ハハッ、ほんとバカだろオレ…」
山本は俯いたまま骨折して包帯が巻かれた腕を見つめる。
「……一ヶ月も…野球できねーんだぜ?こんなんじゃ確実にスタメン落ちだな……」
『………。』
「ヘタクソのまま野球取り上げるなんて神さんもひでぇよな…ほんと、」
彼の右の拳が固く握られた。微かに震えるそれを押し止めるように白い筋が立つほど握りしめている。
「野球がなくなったオレなんか何の取り柄があるんだよ……!これからオレどうしたら…っクソ…!」
その握った拳で力強く自分の膝を叩く山本。私にだって言わせてもらいたいことがあるけどぐっと堪える。
「こんなの…!…こんなの死んだ方がマシだ!!」
その言葉を聞いた瞬間、溜めていた思いが弾け飛ぶ感覚がした。感情のまま勢いよく立ち上がると、山本が俯いたまま目を見開いた。
『オレには野球だけ、なはずないでしょ!!』
暗い廊下に響き渡る声。山本は呆然としたままゆっくり私を見上げる。
『野球が上手いってだけでいつも山本の周りに人が集まる?山本を信頼する?山本と友達になりたいと思う?山本のことを好きになる?』
そんなはずないでしょ?
『…仲間思いでひとをよく見てて、懐が深くてなにがあっても優しさを忘れない「山本武」が好きな人を悲しませるようなこと言わないで』
自分のカバンを掴んで、荒れた鼓動を整える。
『もしも明日自殺なんか考えたら―――私、ぜったい許さないから』
真っすぐ視線を合わせた山本の瞳はひどくうろたえたものだった。なんでわかったんだ、みたいな表情。私は勢いのままその場から立ち去った。
山本はそのままの山本でいいんだよ。入学式に元気がなかった子をずっと気にかけてくれてた人なんてそうそう居ないんだから。
翌朝、山本が教室にいない時点で嫌な予感はしていた。
「山本が屋上から飛びおりようとしてる!」
男子生徒が教室に駆け込んできてそう叫ぶとだれもが冗談だと失笑した。
彼が続けて山本が骨折したことを伝えるとだんだん重苦しい空気になっていく教室。野球は山本にとって大切なもの――だんだん真実味を帯びてきたそれに生徒は飛び出して屋上へ向かっていった。
沢田くんも出ていって、教室には私と花輪さんしか残っていなかった。いつまでも動こうとしない私に痺れを切らした花輪さんは声をかける。
「千尋さんはどうするの」
『……ぜったい行ってやんない』
山本がいないとわかったときからずっと机に突っ伏したままの私。それに何かを感じとった花輪さんは私の頭をやさしく撫でてから「先に行ってるわよ」と教室から出ていった。
『弱虫。意気地無し。ド天然。野球バカ。爽やかバカ本…メンタル弱すぎなんだよ…』
ひとりきりの教室で悪態をつく。ツナが山本を助けてくれるのも知ってる。原作通りの展開に安心もしてる。
だけど、そうじゃないでしょ。もっと人として答えることできるはずなのに。
その頃、屋上で山本の前に飛び出してきたツナがひとことずつ絞り出すように話していた。
「オレは山本とちがって死ぬほどくやしいとか…挫折して死にたいとか…そんなすごいこと思ったことなくて…」
決して説得のために用意したような言葉ではない、ツナ自身の独白だった。
「むしろ死ぬ時になって後悔しちまうような情けない奴なんだ…どーせ死ぬんだったら死ぬ気になってやっておけばよかったって」
山本の眼差しが真っすぐツナを捉える。
「こんなことで死ぬのもったいないなって…」
見栄もなにもない等身大の言葉に山本は確かに心動かされた。
いや、本当はあの夜からわかっていたことだった。真っすぐに、弱々しい自分と向き合って正してくれたあの時から。
山本は静かに口を開いてツナにしか聞こえないような声を出した。
「…ほんとはさ、試してたんだ。野球がなくなったオレを、バカみたいなことするオレを、皆は本当に心配してくれるのかって」
「……え?」
「そしたらこんなにも――呆れるぐらいバカなオレのために皆来てくれた。本当バカだよな、オレ…こうでもしないと理解できねーなんて」
山本がすっきりしたように笑ってフェンスを昇って戻ろうとしたとき、誰もが安心した。しかし山本がぐっとフェンスを引っ張ったそれは途端に音を立てて壊れた。
「っあ!」
「山本!」
ツナが思いっきり腕を伸ばすが寸前で山本を掠める。しかしどこからともなく現れたリボーンがツナを蹴り飛ばして山本と共に落下させる。
「な!!」
二人の叫び声が響く。屋上に集まった生徒からも悲鳴が上がった。
その声を聞いた私は急いで立ち上がって廊下に飛び出した。
窓の外で上から落ちてくるふたつの影。死ぬ気モードのツナが山本を抱えていたのが見えた。一瞬山本と目があったのは気のせいだろうか。
私は急いで窓を開けて地面を見下ろした。―――確かスプリング弾だ。ツナのつむじから伸びた髪の毛がスプリングのようにクッションになって二人とも無事だった。
どっと息をついた。安心して力が抜けて廊下にへたれこむ。助かるとわかってても心臓に悪い。
「――秋山!」
この声は山本だ。やっとの思いではい上がってツナと山本がいる方を見下ろすと、山本がこちらを見ていた。
「秋山、本当に悪かった!昨日は当たったり情けない姿見せて!」
『……山本』
「おまえの言葉が効いたよ!オレ、もう大丈夫だから!二度とバカなこと言わねーから!」
そうやって笑顔を浮かべた山本は、いつもの彼だった。なんだか少し悔しかったから山本に見えない角度から笑い返してやった。
――ん?そういえば山本の頬にあんな大きい痣原作にあったっけ?
その後山本から「本当に秋山の言う通りなのか確かめたかった」という真相、自殺する気はなかったことを聞いた私はその日、一日山本と口を聞くことはなかった。
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