■ククールとの家族みたいな話

「お姉ちゃん」
 聞き覚えのある、懐かしい少年の声。
「ナマエお姉ちゃん」
 見覚えのある、懐かしい少年の姿。
「ナマエ姉ちゃん」
 いつでも会えるけれど、もう会えない少年の姿。
「姉ちゃん」
 そんな彼のことを、私は――

「ナマエ」
「わっ!」
 覚えのある青年の声。太陽の下で微睡んでいた私は、急に飛び起きた。
「何ぼーっとしてるんだよ」
 あまり意識のはっきりしない頭を降ると、誰のものとも違う、赤い服が真っ先に目に入った。そして次に目に入ったのは、私が生きている中で最も見慣れている、端正な彼の顔。
「ククール」
 きょうだいのような、親子のような。そんな、家族に近い親しみを感じている青年の姿をはっきり確認し、私はただ、笑顔を浮かべた。


 親がいない私は、オディロ院長に引き取られ、マイエラ修道院で育てられた。そうやって数年生活していたところ、ある年下の少年がやってきた――それが、ククールだ。
 ククールがやって来たその日からずっと、私は彼のことを見てきた。最初不安がっていた小さな姿も、半分だけ血の繋がった兄であるマルチェロと上手くやっていけない様子も、段々と背が伸びて凛々しくなっていく様子も、全部。
 だからだろうか。ククールは悩み事も、私にだけは言うことができるようだった。さながら母に泣きつく子供のようで、姉に甘える弟のようでもあった。そして私も、子供のように、弟のように彼を大切に思うようになっていった。
 やがて、私は年を重ね、修道院から出ていった。マイエラ修道院は本来、男子修道院だ。オディロ院長の情けで、行くあてのない少女は引き取られたけれど、大人になった女が、いつまでもそこで燻っているわけにはいかなかったのだ。
 それから私は、ドニの町の小さな教会で、修道院での生活を活かし、シスター見習いとして生活することにしたのだった。
 この生活を始めて、既に数年の時が流れていたのだけれど――あれから成長したククールとの関係は、あまり変わらなかった。


「ナマエ。こんなところで居眠りしてたら、シスター仲間に怒られるんじゃないのか」
 ククールの声を聞きながら、夢から覚めきっていない寝起きの頭で、今起きていることを整理する。
 ああ、そうだ。洗濯物を干し終わったところで、外でうたた寝をしてしまったところだった。太陽があまりに暖かく降り注ぐものだから、つい。
 でも、たまに居眠りをしたくらいで、シスター仲間はそれほど強く怒ったりはしない。それよりも、と私はククールに声をかけた。
「ククールこそ、また修道院を抜け出して。怒られちゃうんじゃないの?」
「いいんだよ別に。あんな窮屈なところにずっといるなんて、やってられないね」
「……ククール」
 ククールは、皮肉な笑みを浮かべ、私の隣に座る。彼の様子はいつも通りのようで、どこかおかしかった。
「何か、あったの?」
「別に。……いつも通りさ」
 いつも通り。それは、『いつも通り、彼とは上手くいっていない』という意味だ。
 マルチェロ――ククールの異母兄弟。並々ならぬ確執のある二人。それの本当の原因は彼らの父親にあるわけだけれど、彼らの父親はもういない。その問題に安易に首を突っ込むのはなんとなく憚られて、私は軽く俯いた。

 ククールはため息をつき、目を逸らして言った。
「少し、本音を言っていいか」
 良いよ、と頷く。こんな風にククールが弱みを見せるのは、私くらいなものだろう。それならば私は、それを全力で受け止めるしかない。
「もちろん、修道女としての生活だって、楽ではないんだろうが。でも、こうやって気ままに生活しているナマエが、少し羨ましい。……否、あの修道院から出ていった、というところが、か」
 何と声をかければ良いのかわからず、私は口を噤んだ。
 人情家のオディロ院長、そしてマルチェロという実力ある聖堂騎士団長がいるから(ククールとの確執は別として)、なんとか修道院は規律を保っている。
 それでも、私にとっても、マイエラ修道院は息苦しかった。オディロ院長とククールがいたから、修道院での生活も楽しく過ごせられていたけれど、それでも苦しかった。じりじりと腐敗していく修道院の内部を見るのも、それでいて規律の厳しい生活も、嫌だった。
 それはきっと、ククールも同じなのだろう。まして、並々ならぬ確執を持つ兄を持つ彼なら、尚更。
「オレは院長に恩がある。だからそれを放って、聖堂騎士団から勝手に抜け出すわけにもいかない」
 彼の心情が吐露されていく。私が今すべきこと。それは、最後まで、彼の心情を受け止めることだ。私は黙って、彼の言葉を聞き入れることにした。
「……逆に言えば、それさえなければオレだって、あんなところ、さっさと出ていっただろうね」
「ククール……」
「ああ、ナマエが悪いって言うつもりはないんだぜ? 男子修道院にいつまでも女がいるほうがおかしいしな」
「……そうね」
 だが、仮に私が男だったとして、逃げずにあの場に留まっただろうか。ふと思ったが、今考えても仕方がない、と頭から考えを追い出した。
「どうしたもんかね、全く。あいつと上手くやっていく気はもう無いが、せめてもう少しお互い関心なく生きていければ、と思うよ」
 ククールは肩を竦めた。その精悍な瞳には、諦めのような感情が浮かんでいた。

 私は、彼の口から何の言葉も飛び出なくなったことを確認する。そして私は、口を開いた。なるべく慎重に、なるべくゆっくりと。
「別に、あそこから出ていってもいいんじゃないの? オディロ院長なら、あなたが本当にそれで良いと思っているのなら、止めることはないと思うけれど」
「まあ、そうかもな。それも悪くない」
 ククールは頷いたが、私の方を真っ直ぐに向いて言った。
「でも、やっぱりオレは、あの修道院から出ることはできないな。院長のこともあるが、何より」
 そこで、ククールは私の髪に触れた。私の髪を弄りながら、ククールは言葉を発する。
「修道院から出たところで、オレはどこに行けばいい? ドニの町は無理だ、ここの教会は男子禁制、宿屋や酒場で働く気になんてなれない。どこか遠いところに行くことになるだろう」
 ククールは頭を降った。その目には、今まで見たことがないような感情が垣間見えて、少し驚く。
「それが、何か悪いの?」
 自分の口から言葉を飛び出させて、その後から自分の心が着いていく。――ククールが遠いところに行く。それはつまり、ククールに会えなくなってしまうかもしれないということ。
 彼が遠いところに行くとこの、何が悪いのか。――少し寂しい、それだけのことだ。
「つまりだな、院長のこともそうだが、ナマエに会えなくなる、ということまでして、修道院から出ようとは思わないさ」
 ククールも考えていることは同じだったらしい。未だに『ククール離れ』することが出来ていない自分と、私離れ出来ていない彼に対し、苦笑した。

 そんなククールは私の髪を弄り続けていたが、やがて手を離し、ふと青空を見上げた。
「まあ、何かでかい出来事が起これば、話は別かもしれないがね。いつか、窮屈な修道院から飛び出して、何にも縛られずに世界を旅するっていうのも、悪くないかもしれない」
「世界を、旅する……」
 時々現れる魔物を退治しながら、ふらりと旅するククールの姿。そんな光景を想像して、なんとなく似合うな、と思った。
「……うん、それも良いと思うよ。いつか、そんな日が来ても良いかもね」
「ナマエも来るか?」
「それこそ、私はこの教会から離れることはできないわ。何か大きな出来事が起これば、別かもしれないけれど」
「それなら、ナマエも来ることになるな。オレだって、何か大きな出来事が起こらない限り、世界を旅したりなんてしないさ」
 そして、二人は笑った。少しの間だけ、昔に戻ってきたような気がした。


「そうだナマエ、さっき寝ている時、名前呼ばれたんだけど。一体、どんな夢を見ていたんだ?」
 寝言を聞かれていたのか。無性に恥ずかしく思いつつ、今はもうぼんやりとした記憶でしかない夢の内容を思い出した。
「昔の夢を、見ていたの」
「昔の夢?」
「そう。あなたが修道院に来たばかりの頃の夢」
 あの頃の少年ククールはもういないし、もう会えない。だけど、目の前にいる彼は成長し、今や青年となっている。
「……全く、姉ちゃん姉ちゃん言ってたあの頃が懐かしいわ」
 姉ちゃんか、とククールは呟いた。その響きに、言い表すこともできないくらいの懐かしさを感じ、私はつい、彼にこう頼んでみた。
「ちょっと昔みたいに呼んでみてよ。ナマエお姉ちゃん、って」
 するとククールは、軽く笑った。そして、不意に真面目な顔をして、まるで女の子を口説くかのように言う。
「もう、ナマエのことを姉としては見ていない……と言ったら、どうだ?」
「バカ言わないでよ」
 私は変わらず、ククールのことは弟みたいだと思っているし、彼もまた、私のことは姉か母か……とにかく、家族のように思っているのだろう。
 だって彼は、女として見ている人には相談をしたりなんかしない。女の子の前では、キザにカッコつけてみせるのだから。
 ククールは私以外に、弱みを見せたりなんてしないのだ。昔から、そのことはよくわかっている。

「ねえ、ククール」
「なんだ?」
 少しだけ不機嫌になっているククールに、私は呟いた。
「もしさ、本当に何か大きな出来事が起こって、本当に世界を旅する日が来たら――そうしたら、二人で旅、しようね」
 彼は少しだけ面食らったような素振りを見せた後に、優しく微笑んだ。それは、取り繕うことのない、昔と変わらない笑みだった。
「……そうだな。二人で、旅をするのも良いかもな」
 私はそんなククールの笑みを見て、その日が来るのも案外近いかもしれないと思った。
 何か大きな出来事――それが、どんな出来事で、良い事なのか悪い事なのか、それはわからないけれど。だけど、ククールと旅をするのは悪くない。そう思った。

「って、もうこんな時間! そろそろ戻らないとさすがに叱られるわ」
 シスター仲間のことを思い出し、私は頭を抱えた。いけない、いくらあまり怒るようなタイプではない彼女でも、こんなに長話をしてしまったら怒るわ。
「そうか、じゃあオレはそろそろ戻るな。あんまり戻りたくはないが」
 ククールが言うので、私も立ち上がって言った。
「……そう。また会いたくなったら、いつでも来てね。もしかして、次に会うのは、案外何か大きな出来事があって、一緒に旅をする時かもね」
 ちょっとした冗談を言うと、ククールは微笑んだ。そして、ぽつり呟いたのが聞こえた。
「……そうかもな。その時は頼むぜ、ナマエお姉ちゃん?」
 驚いてククールの方を見たけれど、彼は既に踵を返し、ひらひらと手を振っているところだった。私はしばしそれを見送っていたけれど、やがて微笑んで、教会の方に戻ることにした。


 教会に戻ると、シスター仲間に笑顔で叱られた。さすがに反省はしたけれど、頭の半分では別のことを考える。
 ククールと私。本当に何か転機が訪れて、二人で旅をすることができたなら――家族のような絆で結ばれている私たちにとって、最上の幸せなのではないだろうか。
 未来と過去のことに思いを馳せながら、私はその日を過ごした。郷愁とはこのことだろうかと、懐かしさに目を細めながら。

 実際の未来に何が起こるかなど、知る由もないまま。


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