■吉良吉影で荒木荘の出来事

※ドッピオ、ヴァレンタイン不在
※夢主にメンヘラ要素あり

 わたしは、不幸体質だ。
 不幸体質といっても、わたし自身が不幸、と言うつもりはない。
 むしろ、逆だ。わたしに近づいた者――特に、わたし自身に危害を加えようとする者が、不幸になるのだ。
 不幸が不幸を呼ぶ。相手に不幸を与えたなら、相手はわたしに復讐しようとする。そうしたらまた、相手は不幸になる。
 そんな悪循環の中で、ただの女学生であるわたしは、長生きすることはできなかった。不幸を与える体質のせいか、わたしは死んでしまった。恐らく、今まで与えてきた不幸が、最後に全て、自分に返ってきたのだろう。
 死んだことに気づいた時、なんとなく、地獄に落ちたんだな、と思った。生前、不幸を与え、不幸を呼ぶ子として嫌われ、憎まれていたから。そして、それは事実だったから。
 だけど、何を間違ったか――
「無駄無駄無駄無駄ァ!」
 吸血鬼に、
「勝てばよかろうなのだァァァッ!」
 究極生命体。
「静かに暮らしたい……」
 サラリーマンな殺人鬼に、
「オレのそばに近寄るなああ――ッ」
 イタリアのギャングの元ボス。
「『素数』を数えて落ち着くんだ……『覚悟』をするのだ……」
 アメリカの神父に、
「マンハッタン島をオレにくれッ!」
 イギリスの天才ジョッキー。
 今、わたしは何故か――このような屈強な変わり者の男たちと共に、六畳一間という狭い空間で――怯えながら生活しています。


 どうして、こんなことに?
 どう考えても、わたしなんかがいて良い場所ではない。こんな男ばかりの空間で、平凡な日本の女学生が浮いてしまうのは必然だろう。どうも、居心地が悪い。
 どうして、わたしはこんな所にいるのだろう?
「死んだからだろう」
 ある者はこう答えた。
「『スタンド』を持ってるからじゃあないか?」
 ある者はこう答えた。自分の不幸体質には名前があったことを、そしてそれには実体があったことを、わたしはここで初めて知った。
「フン。過程や理由など、どうでも良いだろう? 結果だ――結果だけが、ここにあるのだからなッ!」
 ある者はこう答えた。そこでわたしは、この人たちに聞いても無駄だと悟った。
 悟ったわたしは、次に何を思ったか?
「帰りたい」
 今、わたしが帰るべき家は、ここにしかないというのに。

 まあとにかく、今のわたしはなんとか生きている。もう既に死んでいるけれど。
 そしてわたしは今、生まれて初めて、自分の不幸体質に感謝している。否、死んで初めて、と言ったところか。
 ここに来たばかりの頃は、吸血鬼に血を吸われかけたり、究極生命体に嬲られそうになったりで大変だった。
 だけど今では、彼らはあまり、わたしに興味がないらしい。まあまあ普通に交友できているし、集団生活もなんとかできている。こればっかりは不幸体質のおかげだ。
 彼らがわたしに危害を加えようとする度に、不幸体質は彼らを痛い目に合わせるから、彼らはわたしにちょっかいをかけるのを止めたのだ。
 とにかく。これで、なんとか平和に暮らせると思っていた。この、無茶苦茶なパーティの中でも、身心の安全を確保して眠ることができると、やっと安堵していたところだった。
 それなのに。
「君の手……すべすべしてて素敵だなああ。最初は手首だけにしようかとも思ったけれど……血が通った温かい手というのも、その、悪くないね。フフ」
 ただ一人――最もわたしに近い存在であるはずの、日本人のサラリーマン――吉良吉影という男が、最もわたしの平穏を脅かしていた。

 血を吸おうとする、殺そうとする、など、明らかに危害を加えようとすると、わたしの『スタンド』は反応して、その人たちに不幸をぶつける。だからわたしは、なんとかここで生活ができている。
 だけど、「手に頬擦りをする」ということには、嫌悪感を感じたとしても、どうも『危害』と認識してくれないらしい。
「ちょっと、やめてくれない」
 スタンド能力が動かない中で、こう言ったところで、止めてくれるはずもない。
 他の人たちに助けを求めようとしても、
「助けて欲しいのか? 血を与えてくれるなら助けてやらんこともないな」
「助け? このカーズ、何故きさまなんぞを助けてやらねばならんのだ?」
「オレに話しかけるなああ――ッ! おまえのスタンドは、たとえオレが何もしなくてもオレを殺すことを知ってるだろ――ッ」
「助け? そんなのはいらないな。たとえ何が起ころうと、『覚悟』さえあれば幸福なのだから」
「助けて欲しいのか? 金を渡すんだな。オレは金が欲しい、おまえは助けが欲しい。簡単だろ?」
 こんなのばっかりだ。要するに、誰も助けてくれる気はないらしい。
「フフフ……ああ、愛しい名前……」
 愛しいわたし? 愛しい手首の間違いだろう。
 このサラリーマンは相も変わらず頬擦りし続けている。多分、仕事に行くギリギリの時間までこうする気なのだろう。
 早く仕事に行ってくれないかなあと思っても、そう思った日に限って時間の進みは遅い。あの吸血鬼が『世界』でも使って、全員時の止まった時間に入門でもしてるんじゃあなかろうか。
 どちらかと言うと『キング・クリムゾン』をで時間を飛ばしてほしい。そうすれば、時間の進みは早くなる。
 あ、使う前に、使い手が死んでしまうか。どうせ、またすぐに蘇るんだろうけど。あれは一体、どういう仕組みなのだろうか。


「さて、わたしは仕事に行ってくるよ」
 そうこうしているうちに、こう言って出ていったのは神父だ。行ってらっしゃい、と見送りながら、このサラリーマンも早く仕事に行けばいいのに、と内心悪態をつく。
「フン、もうこんな時間か……。オレも仕事に行く。おまえら、オレがいないうちに浪費するなよ」
 次に、機嫌悪そうに出ていったのはジョッキーの男だ。聞くに、神父もサラリーマンも働いてはいるが、家計を回しているのはほとんどこの男だけ、のこと。なんだか同情してしまう。
「WRYYYYYY!」
 言ったそばから、吸血鬼は通販サイトでロードローラーを購入していた。嫌がらせ以外のなにものでもない。
「……そんなものを買うくらいなら、あなたも働けば?」
 こう言ったところで、この吸血鬼が返す言葉はひとつだけなのだ。
「フン。このDIO、日光の元に出られない体だということは、きさまも知っているだろう?」
 もう死んでいる癖に、何を言う。
「名前、おまえこそどうなんだ、おまえだって働こうとしないだろう」
「わたしは元学生だから……。就活もまだしたことないし」
 わたしは今、学校に行っていない。要するに、今ではわたしもニートだし、あまり人のことを言えないのだ。でも、過剰な浪費をしているつもりはない。……このままじゃダメだということは、わかっているつもりなんだけど。
 ちなみに、こんな会話を繰り広げていても、まだ例のサラリーマンはブツブツ言いながら手に頬擦りをしている。気にしたら負けな気がしてきた。
「あーあ、そろそろわたしも就活してみようかな。ここでニート拗らせるのも、なんだか申し訳ないし」
 働きに出れば、必然的にこの部屋にいる時間は減る。それに、しっかり稼ぐことができれば、自立してこの部屋から出ていくことも可能だろう。そうすればいずれ、わたしの手を頬擦り続けているこのサラリーマンから、解放されるかもしれない。
 それなのに。
「いや、名前。君はここにいていいんだ。君の分の生活費くらい、わたしは払える。だから、名前。君はわたしに、その手を差し出してくれるだけでいいんだ」
 働きに行きたくないと思ってしまうのは、怠惰故か、それとも。


「さて、わたしもそろそろ仕事に行ってくるよ……名残惜しいが、仕方がない」
 やっとか。とりあえず昼の間は静かになるな、と安堵する。
「じゃあな、名前」
 サラリーマンはわたしの手に向かってこう言った。それに対してわたしが何か言う前に、わたしの手に口づけをした。
「ちょっと」
 それは流石にやめて。わたしがそう言おうとした直後、彼は思い切り足をタンスにぶつけた。
「――ッ」
 サラリーマンは涙目になり、そそくさと家を出た。小指をぶつけたらしい。ここになってようやく『スタンド』が仕事した――といったところか。随分とささやかな不幸だ。
 ……どうせなら、事前に不幸をぶつけてほしかったところなんだけど。事後に不幸が起ころうと、抑止力としてあんまり意味がないのだから。

 ふう、とため息が出てきた。あの男の相手をするのは、いつだって大変だ。
 それはともかく、人数が減ると大分肩が軽くなった気がする。やっぱり、この狭い部屋にあの人数は暑苦しい。
 今この部屋にいるのは、わたしと、吸血鬼、究極生命体、ギャングの元ボスの四人。見事にニートばかりだ。これでもまだ多い気もするけど、少なくともさっきよりはマシだ。
「……名前と話していると不幸でまた死にそうだ、オレも出てくる」
 またひとり減った。どうせ、外に出たら出たで事故にでも遭う癖に。
「うわッ」
 外に出る前に滑って転んで死んだ。不憫。


「……さて」
 そんな中、わたしは隣にいた吸血鬼にこう切り出した。どうせ、あの男はすぐに蘇るだろうし、さほど気にしなくても大丈夫だろう。
「ちょっと相談があるんだけど、いい?」
「相談ンン? 何故そんなものをこのDIOが聞かねばならん」
「どうせ暇だからいいでしょ、あなた達にしか相談できないのよ」
 まあ、あのサラリーマン殺人鬼以外なら、誰でも良いのだけれど。
「単刀直入に言うけれど、あの男はどうにかならないの?」
「吉良の事か?」
「そうよ」
「無駄だ、あいつの性癖は昔からずっとああらしい。他人が変えられるものじゃあないだろう。モナリザの手首に勃起する男だ」
「うわあ……というか、なんでそんなこと知ってるの?」
「本人が言っていたぞ。初恋はモナリザの手首だとな」
 ますます、あの男に頬擦りされるのが嫌になってきた。……最初に会った時は、一番まともだと思っていたのだけれど。最近では、一番ヤバいヤツ、という印象でしかない。
「そもそも、あいつに気に入られるのはそんなに嫌なのか? さっき、あいつにプロポーズまがいのものをされていただろう」
「プロポーズ? ……あれが?」
 あれがプロポーズと言うならば、わたしに対してのものではなく、わたしの手に対してのものであろう。
「……嫌よ、うん。嫌に決まってる」
 まともな男なら、恋人でもない女の手に頬擦りなんてしないのだから。
 まともな男なら、わたしの『手』という一部分だけを、わたしの全てと見なしたりなんてしないのだから。
「うーん、全く。どうにかならないのかな」
 実際、あの男がどんな性癖を持っていようと、モナリザの手首に欲動を感じようと、それは別に構わない。わたしに興味さえ失くしてくれれば、それで良いのだけれど。

「手首を切り落としてやろうか?」
 急に究極生命体がこう言った。冗談には聞こえなくて、一瞬ぎょっとした。
「そうすれば、おまえが吉良に困ることもなくなるだろう。このカーズ、かつて宿敵の手首を切り落としてやったこともあった。腕は確かだぞ?」
「……手首の代わりはどうしろっていうの、リスにでも変えろっていうの。無理よ」
 だって、わたしは究極生命体なんかじゃないもの。
「そうか、気が変わったらいつでも言え。いつでも、一年に一度の食料にしてやる」
 やはり、究極生命体は危険人物だ。不幸体質に守られているとしても、この男には近寄りたくない。
 ……この部屋に住んでいるほぼ全員が危険人物だろうということは、考えないことにした。

 そうしたら今度は、吸血鬼が思いついたように言った。
「これならどうだ? 手首を切り落とすのではなくて、手に傷を付けるんだ」
「……なんで?」
「あいつは、おまえの手の滑らかさを特に気に入っているじゃあないか。傷を付け、傷跡が残ってしまえば、その滑らかさは失われる」
「……それ、あなたが血を欲しいだけじゃないの?」
「それ以外に何があると言うのだ?」
 なかなか図々しいことを言う。
「わたしが直接らおまえの手に傷を付けたら不幸が降りかかるが――もちろん、このDIOにとってはなんてことはないものだが――おまえ自身が、おまえ自身の手に傷を付けたら、わたしにはなんの不幸も振りかからないだろう? わたしは、ちょいとおまえの血を頂くだけなのだからな」
 以前、この吸血鬼には、どんな不幸が降りかかったっけ? 少なくとも、タンスに小指をぶつける程度の軽いものではなかったはずだ。日光で頭の半分が炭になりかけるとか、そのくらい酷い目に遭ったはずだ。だから、この男はわたしにちょっかいをかけるのをやめたのだ。
 不幸がなんてことはないなんて、まあ強がってくれる。
「……まあ、でも、悪い手ではないかも。傷がついてかさぶたになったら、滑らかどころじゃなくなるしね」
 勿論、痛いのは嫌だけど。
 あのサラリーマンがわたしに興味を持たなくなるのなら、これくらいは。


「手に傷をつける、か……」
 今は傷一つない、自分の手を眺めてみた。その手に、故意に傷を付けようとするのは初めてだ。
 カッターを取り出してみたけれど、どうしても手が震えてしまう。今、わたしは一体、何をしようとしているのだろう?
 どうして、自分自身を傷つけようとしているのだろう。
「何をためらうことがある、名前。おまえの手にちょいと傷を付ければ、吉良はおまえに興味をもたなくなるぞ。おそらくな」
 大事な自分の体を傷つけようとしているのだ。そりゃあ躊躇うわよ。
 自分の身を守るために、自分の身体を傷つけようとしている。頬擦りされ続ける毎日を、手の痛みで逃げようとしている。
 否、本当に自分の身を守ろうとしているのだろうか。
 それとも。
「……そんなに血が欲しいわけ?」
 わたしは吸血鬼に言った。回りはじめた頭の中の考えを、放棄したかった。
「そんなに血が欲しいなら、あなたが直接吸血すればいいじゃない」
「それも良いんだがな……やはり、おまえのスタンド能力は侮れんからな」
 やっぱり強がっていたのか。最初から素直にそう言えばいいのに。

「……ああ、もう良いわよ。やってやるわよ!」
 一回やってしまえば、それで終わりなのだから。思い切って行動してしまおうと思ったけど、それは叶わなかった。
「待て、名前」
 手が止まる。これは、いつの間にか蘇っていた、あの元ギャングの男の声だ。
「何よ、わたしと話したら死ぬから話さないんじゃなかったの」
「一応、忠告だ。刃物は良く洗っておけ」
「何で?」
「一度オレは、破傷風で死んだこともある。傷口が菌が入って死んだら元も子もないだろう……ぐはっ」
 話しているうちに死んでしまった。
 この男は、このくらいでショック死するくらいで、すぐ死んでしまう人間だ。仮に彼が手に傷を付けたら、破傷風になる前に、出血多量ですぐに死んでしまいそうなものなんだけど。
 不幸には波があるとは言え、わたしと話す度に死んでしまうこの男は流石に可哀想だ。
「……肝に銘じておくわ」
 もしかしたら今、不幸が全て返ってきて、わたしもまた死んでしまうかもしれないもの。


 カッターをよく洗って、両手の甲に少し傷を付けてみた。二回、三回鋭い痛みに襲われる。
「痛ッ」
 当たり前なのだけれど、血が滲み出てきた。まずはティッシュで血を拭うべきか? あまり怪我をすることがないので、どうしたらいいかよく分からない。
「舐めてやろうか?」
「遠慮します」
 吸血鬼に血を舐められるよりは、あの男に頬擦りされる方がずっとマシだ。自分が何をしているのか、よく分からなくなってきた。
「つれないな。ならばこのグラスに入れてくれ」
「そんなに血が欲しいの?」
 この吸血鬼は文字通り、血に飢えているようだ。少しだけグラスに血を注いでみたけれど、そんなことより止血しないと貧血で倒れてしまいそうだから、途中でやめた。
「なんだ、これっぽっちか。つまらん」
 むしろ、少しでも血を分け与えたことに感謝してほしいものだが。
 そうこうしているうちに、そしてまた一滴、鮮血が流れ落ちた。
 手が、泣いているみたいだった。

「えっと……確か、心臓より手を高くするんだったっけ? それから、包帯でも巻けばいいのかしら」
 生前、保健体育で習ったはずだが、あまり思い出せない。授業はもっとしっかり聞くべきだったか。
「フン、血の味はどうも好まんな……やはり指から吸血した方が……」
 その傍らで、吸血鬼は顔を顰めていた。吸血鬼の癖に何を言う。
「……止まった?」
 依然傷口は痛むが、血の流れが悪くなった気がする。もう死んでいるはずなのに、痛覚はあるし、血も流れる。不思議だ。


 一通り処置を終えると、自分は何をしてしまったのだろう、と思ってしまった。自分で手に傷を付けて、自分で処理をする。……なんだか、いたたまれなくなってきた。
「止まったなら、まあいいわ。ちょっと出かけてこようかしら。気分転換」
 すると、究極生命体が声をかけてきた。
「おい、そのままで行くのか? 赤い手は目立つぞ、リスにでも変えたらどうだ」
「わたしは究極生命体じゃないって」
 リスに変える方がよっぽど目立つわ。
「まあ、目立つって言うのはその通りね。包帯でも巻いていくわ」
 それはそれで、目立つような気もするけど。あまり人に見られないよう、願っておくことにした。目立つのは好きじゃない。


 外に出ると、なんだか急に傷口が痛み始めた。気を紛らわせようと、散歩をすることにした。
 少し歩いてみたけれど、思ったよりわたしに注目する人は少ない。手に包帯を巻いている女に、誰も関心を向けなかった。それならそれでいいやと、少し歩いた先の川辺に独り、寝転がった。
 しばらく、何もせずにぼんやりする。
 ここは結局、どこなんだろう。わたしは一体、何をしているんだろう。何故わたしは、こんなところにいるのだろう。わたしは、何がしたいのだろう。
 少し考えてみたけど、考えても仕方が無い。いくら考えても、答えは出ないのだ。
 なんだか眠くなってきたので、ここで眠ることにした。誰もいない場所で。どこまでも、静かなこの場所で。
 手を枕にしたかったけれど、傷が痛かったのでやめた。


 少しの間寝ていたと思ったら、いつの間にか日が暮れていた。実際は体感と違い、かなりの時間ここで寝ていたようだ。なんだか頭が痛い。
「……さて」
 寝起きの低血圧な頭で立ち上がって、帰ることにした。帰るしか選択肢がなかった。わたしが帰るべき家は、やっぱりあそこにしかないんだなと、苦笑した。


「ただいま」
 帰ると、神父とジョッキーが帰ってきていた。サラリーマンはまだ帰っていないようだ。
「きさまッ! 散財するなと、散々言ったろうッ!」
「ほほう、かかってくるか!」
「まあまあ、DIOもDioも落ち着くんだ」
 吸血鬼にジョッキーが怒鳴り散らして、吸血鬼を神父が庇うという喧嘩が起こり、それに被弾してギャングの元ボスが死んでいた。寝起きの頭には喧しい。
 ここが唯一の帰る家だと認めたの撤回したい。できないけど。
「ん? ああ、名前、帰ってきてたのか……。って、どうしたんだその手は!」
 ジョッキーに思いの外反応されて、思わず面食らう。
「あの男を退けるために、やったんだけど」
「……そうか」
「心配してくれてるの?」
「フン。別に、おまえがその傷で、破傷風になったとしても、このDioには関係のないことだ」
「破傷風?」
 さっき元ギャングも言っていた。傷口から菌が入って破傷風になるということは、この人たちの中ではメジャーな考え方なのだろうか。
「……なるほど。いいんじゃあないか? 何が起ころうと、『覚悟』さえあればそれも幸福」
 神父は納得した様子で、こんなことを言い始めた。相変わらず、この人が言いたいことは分かりそうで分からない。
 手を洗おうとしたけど、包帯が濡れそうだから拭くだけに留めておいた。手を怪我するって案外大変なんだな、と少しだけ思った。


「ただいま」
 そんなことをしているうちに、あの男が来た。あのサラリーマンが帰ってきた。扉の開く音、閉じる音。男の声。足音。それら全てが、克明にわたしの脳内で響き渡る。
「フウ〜。ただいま、名前……今日も君のために頑張ってきたよ……」
 わたしのためじゃなくて、わたしの手のためだろうに。
 この男にとっては、帰宅後にわたしの手に頬擦りするのが習慣化している。恐ろしい。
「って、あれ? 名前。どうしたんだ、その手は」
「切った」
「切った? ……誰かに、やられたか? 否、君が誰かに怪我をさせられるはずはない……。事故か?」
「事故じゃないわ」
 わたしのの答えに、男は思考が止まったように固まっていた。だが、やがて、ゆっくりと口を開いた。信じられないものを見たように。信じたくないものを見たように。
「君が……自分でやったのか」
「そうよ」
 これで、あなたにとってのわたしの価値は失われた。そうでしょう?
 これで、少なくとも暫くは、わたしの手は頬擦りされなくなる。わたしは、平穏な心を手に入れることができる。
「まあ、最初に切り落とすとか言ったのはそこの究極生命体だし、血を流せば良いとか言い出したのはそこの吸血鬼だけどね」
「カーズッ! ……DIOッ!」
 サラリーマンは本気で怒り出した。まるで、『恋人』を『殺された』男みたい。
「おっと、勘違いするなよ吉良ァ。名前は自分で選択したのだからな」
「そうだ。このDIO、名前には傷ひとつ付けていない。ちょいとばかし血は頂いたが、傷を付けたのは名前自身だ」
 男は黙った。彼の顔は、わたしには見えない。
 だが彼は踵を返し、わたしに向かって言った。
 わたしの目をじっと見つめて。
「わたしが……君に、そんなことをさせてしまったのか」
 わたしが何かを言う前に、男はさらに付け足した。
「済まなかった」
 どうして、そんな顔をするのだろう。
 吉良吉影は、わたしの目を見つめながら言った。この人がわたし自身のことをこんな風に見たことがあったかしらと、ぼんやり思った。


「名前。……申し訳ないが、少し来て欲しい」
 こう言われたので、しぶしぶながら外に出る。いよいよプロポーズでもするのか、と究極生命体の野次る声が聞こえたような気もするが、無視することにした。
「……名前」
 吉良は目を伏せている。
「名前、せめてもの詫びだ。否、もともとは詫びのつもりで買ったものではないんだが……」
 吉良が持っているそれを、わたしはそっと受け取った。
「……指輪? なんでわたしに」
「いいから。君の手が完治したら、これを嵌めて欲しいんだ」
 シンプルな指輪。悔しいけど、わたし好みの指輪だ。これを嵌めろと? ……どうして。
「傷跡が残っても、滑らかさが失われても……それはそれで、構わないよ。勿論、元通り美しくあってほしいとは思うがね」
 この男が何を言っているのかわからない。
 否、言っている意味自体はわかるのだけど――この男が、どうしてこんなことを言うのかがわからない。
「わたしは勿論、君の手を好んでいる。だが、……君自身のことも……まあ、その、気に入っている」
 この人にとって、わたしの価値はわたしの手だけではなかったのか。
 わたしは指輪を手にとって、壊れないように握りしめた。
 どうしようもなく何かが痛かったのは、手の傷だけか、それとも。


 後日。
 完治こそしていないけれど、かなり傷が治ってきたので、吉良がいないうちにこっそり指輪を嵌めてみることにした。包帯をとっていると、究極生命体に揶揄される。
「あいつを受け入れることにしたのか? フン、見せつけてくれるじゃあないか」
「別に見せつけてなんてないわよ」
 この部屋にわたし独りになることなんてできないのだから仕方がない。少なくともニート吸血鬼とニート究極生命体とニートボスは殆ど家にいる。というかニート吸血鬼は日中寝ていることが多いし、ニートボスは死んでいる。そこに、ニートわたしがいるのだ。救いようがない。
「……どこの指に嵌めればいいの」
 右手はまだ包帯が取れる状況ではないので、左手の指に順に嵌めてみる。親指は勿論駄目。人差し指には入るけれど少しサイズが合わない。中指も同じ。……小指は、緩い。
「あの、男……」
 左手の薬指。キツすぎでも、緩すぎでもない。これが運命と言わんばかりに、ピッタリ合う。こんなの。……こんなの。
「いつも触っているうちにいつの間にか計測してたとでも? 冗談じゃないわ」
 言葉とは裏腹に、なんだか笑えてきた。完治したら、吉良の目の前で、笑顔で指輪を嵌めてやろう。そう思った。

 その時に、吉良がどんな顔をするのか。その後わたしたちはどうなるのか、それはわからない。だけど。
「吉良……」
 まあ、少なくとも。彼もわたしも、不幸になることはないだろう。そう信じてみることにした。


- ナノ -