■プロシュート兄貴で甘い話

「……殺した」
 私は、ほっと息を吐いた。
 だけど、無事に仕事を終えたことへの安堵感は、ほんの一瞬で消えてしまった。

 人を殺すといつも、脳内はいろいろなもので埋め尽くされてしまうのだ。罪悪感のようなもの、吐き気のようなもの、泣きたい気持ちのようなもの。そして、自分のエゴへの自己嫌悪。――殺したのは私なのに、こんな身勝手なことを思ってしまうなんて。
 そして、一通り自己嫌悪を終えた時、無性に好きな人に会いたいような、寂しさのようなものを感じるのだ。
 私は人殺しだ。私だけではない。私の仲間もみんな、暗殺を生業とするギャングだ。
 だけどそんな中、私は未だに人を殺すことに慣れることができない。一人で殺すことができるようにはなったけど、それでも慣れたわけではない。
 まだ、慣れない。
 まだ。


「……いけない」
 甘えるな。私は自分に言い聞かせる。深呼吸して落ち着こうとしたけれど、逆にむせてしまった。
 早くリーダーに仕事結果を報告しよう、と携帯を取り出す。だけど、手が震えて思わず落としてしまった。慌てて拾ったけれど、自分の弱さに辟易する。
 私は、長いため息を吐き出した。そんな中、ふと、好きな人に以前言われたことを思い出す。
「いいか、ナマエ。この世界じゃあ男も女も関係ねえ。女だからといって楽な仕事が回ってくるわけじゃあない――むしろ女である分、危険が迫ってくることだってある」
 この世界に入ったばかりの頃、彼は確かにこう言っていた。あまり理解できていなかったその時の私に、彼はこう続けた。
「オレたちは、同じ暗殺者だ。そりゃあ、男と女にやり方の違いは出てくるかもしれねえ。オレにやれないことがおまえに出来たり、おまえに出来ないことがオレにやれることもある。だが! 暗殺者には、男も女もねえ――わかるな」
 そうだ、と私は息を吐いた。
 女だからって、こう甘ったれたことも言ってられない。私は暗殺で稼ぎ、それで暮らすギャングだ。泣き言を言うな。慣れろ。ただ、任務を遂行しろ。
 落ち着いて息を吐くと、いくらか気分は治まった。
 それでも、吐き気は止まらなかったし、少し油断すれば泣き出してしまいそうでもあった。


「おうナマエ、お疲れ」
 アジトに戻ると、仲間たちが出迎えてくれた。数人は仕事中でいなかったけれど、それでもどうしようもなくホッとした気分になる。
 結局、携帯で連絡はしなかったので、リーダー――リゾットに直接報告した。リゾットは特に顔色も変えず、淡々と私に声をかけた。
「よくやったな、休んでいいぞ」
 リゾットにこう言われたことで、やっと肩の荷が降りた気がした。それでも、吐き気のようなものが止まったわけではなかった。
「……ありがとう。じゃあ、ちょっと外に出てくるわね」
 依然、気分は良くならない。外の空気を吸って気分転換をしてこよう、と私はドアノブに手をかけた。
 だけど私は、ぴた、と手を止めてしまう。扉を開ける直前、声をかけられたから。
「おいナマエ、ちょっと来い」
 それは、私の好きな人の声。さっきまで、どうしようもなく会いたいと思っていた人の声――
「……プロ、シュート」
 私は、声のした方へゆっくりと振り向いた。そこには、静かに私のことを見つめるプロシュートの姿があった。


「で、何?」
 好きな人と近くの川べりで二人きり。しかも、さっきまで会いたいと思っていた人。緊張してしまうこと自体は避けられないけれど、それを表に出したりはしなかった。
 男も女も関係ない。今の私は、この人の仲間だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 固くなっている私に、プロシュートは缶コーヒーを差し出した。少し面食らったけれど、素直に受け取る。
 缶コーヒーに口をつけたら、苦味が口いっぱいに広がり、思わず眉をひそめた。だけど、プロシュートは自分の缶コーヒーを優雅に飲んでいる。自分自身が未熟に感じられて、なんだか悔しかった。
 苦味に顔を顰めている私に、プロシュートは聞いてきた。
「おまえ、何か変だぞ。調子でも悪いのか?」
 彼の言葉に少しだけ動揺してしまう。だけど、一呼吸置いてゆっくりはぐらかした。
「別に。コーヒーが苦いだけよ」
「誤魔化すな」
 目をそらして、苦いコーヒーを飲み込む。この人は多分、チーム内の誰より心の機微に聡い。それがわかっていても、私は本心をさらけ出すことができなかった。
「……大丈夫よ」
「大丈夫そうに見えないから聞いてんだよ。ホラ、言ってみろ。それともオレじゃダメか?」
 ダメなんかじゃない。むしろ、あなたじゃないと意味がない。
 そう言いたかったけれど、言えなかった。むしろ、口から出てきてしまったものは、こんな言葉だった。
「……男も女も関係ない、こう言ったのはプロシュートでしょ」
 誤魔化しきることも、全てをさらけ出すこともできなかった。結局私は弱い人間だと、ぼんやり思った。

「なるほどな、おまえもおまえなりに悩んでたっつーわけか」
 結局私は言ってしまった。罪悪感のこと、吐き気のこと、泣きたいような気持ちのこと。だけど、さすがに好きな人に会いたいような、寂しいような気持ちのことまで言うことはできなかった。
 ここまで言ってしまって良かったのか、逆に全てをさらけ出したほうが良かったのか、それとも何も言わないほうが良かったのか。私にはよくわからなかった。この微妙な気持ちを飲み干してしまいたくて、私は缶コーヒーに口につけた。
「そうだな……確かに、仕事中は男も女も関係ねえ。オレは確かにそう言ったし、その言葉を撤回するつもりもねえ。だが、それはあくまで仕事中の話だ――常にそうあれ、と言ったわけじゃあねえ」
 そこで、プロシュートは私の方をまっすぐ見つめた。彼の言っていることが理解できず、私は尋ねた。
「どういうこと?」
 私が聞くと、プロシュートはそっと囁いてきた。どこか甘くて低い声色が、私の胸に響いた。
「オレの前では女になれよ、ナマエ」
 どういうこと。もう一度聞こうとしたけど、できなかった。
 プロシュートが、私の唇を塞いでしまったのだ。何が起こったかすぐに理解できず、私の中での時間が止まる。
 静止したような時間の中で、コーヒーの香りだけがふわりと漂っていた。

「どうだ?」
 止まっているようにも感じた時間は、プロシュートの言葉でようやく動き出した。何を答えればいいのかわからなかった私は、何も考えずにこう呟いていた。
「苦い」
 好きな人に唇を奪われたというのに、最初に出てきた言葉がこんなものなんて。もっと、他に言うべき言葉があるのではないだろうか。もっと、他に感じるべき感情があるのではないだろうか。
 だけど、私は混乱していて、何を考えていいのかわからなかったし、何を感じていいのかわからなかった。
 混乱している私が何か違うことを言うより先に、プロシュートはもう一度動いた。
「じゃあ、もう一度だな」
 プロシュートは顔を近づけて、もう一度唇を重ね合わせてきた。
 さっきよりもはっきりした意識の中。そこでやっと感じたのは、戸惑いと、緊張と、火照りと、高鳴る鼓動と、ほろ苦さと、そして――

「……どうだ?」
 唇同士が、やっと離れた。随分長い間重なっていたような気がするけど、どこか名残惜しいような気持ちになる。
 精悍な瞳が、私を貫いていた。私はさっきの言葉を思い出して、新しい言葉をひとつ付け加えた。
「苦いけど、甘い」
「オレはチョコレートか?」
「そうかも。でも、あなたはプロシュートよ」
「上手いことを言ったつもりか?」
 プロシュートの口角が上がった。彼の笑みが、どうしようもなく甘く感じられた。
 今この場で、確かに私はひとりの女だったし、同時に彼はひとりの男だった。
 唇を重ねた時に感じたのは、好きな人がすぐ近くにいて触れてくれているということへの、どうしようもない多幸感。
 唇が離れた時に感じたのは、好きな人が離れてしまったことへの、どうしようもない名残惜しさ。
 だから、私という女は、プロシュートという男にこう言った。
「ねえ、もう一回……」
 そして、私の方から唇を押し付けた。私たちは今、お互いがお互いのことを求めていた。
 仕事のことも、吐き気のことも、泣きたい気持ちも、何もかも忘れたかった。ただ、この人のことが好きだということと、この人が好きだということと、この人に触れているという幸せのことと、それだけを感じていたかった。


 やっと二人が離れた時、私はふと聞いてみた。
「ねえ。もし、嫌って言ったらどうするつもりだったの」
「決まってる。嫌なんて言わせねえ、それだけだ」
「私は人殺しよ?」
「オレだってそうだ」
 プロシュートはそこで、残った缶コーヒーに口をつけた。そこで私も、それの存在を思い出す――すっかり忘れていた。慌ててコーヒーを飲み込むと、もうそれはすっかり温くなってしまっていた。
「……ごめんなさい。ごもっとも、ね」
「オレはな、ナマエ」
 プロシュートは、両手を私の顔にあてた。彼としっかり目を合わせることになり、思わず胸を高鳴らせてしまう。
「おまえが人殺しだろうと、そうでなかろうと、おまえのことが好きなんだ。わかるか」
 どう返事をしていいかわからなくて、私は目をそらしてしまった。プロシュートは両手を離したけれど、代わりにこう言った。
「ナマエ、オレを見ろ」
 私がプロシュートに顔を向けると、彼は私の手を取った。そして、言葉を投げかけ始める。
「時には血を浴びて、またある時にはオレに触れるその手も」
 そこで、プロシュートは私の手に優しく口づけを落とした。
「時には涙を流し、またある時にはオレを見つめるその瞳も」
 その次は、私の右瞼に。
「時には泣き言を吐き、またある時にはオレに口づけするその唇も」
 最後は、優しく唇に。
「おまえという女の全てを愛しているんだ」
 こつ、と額を合わせながら、プロシュートは囁いた。
 ほとんど触れ合いそうな近さの中。彼の瞳を見つめながら、お互いの息遣いと、身体の熱さだけを感じていた。


 アジトに戻る途中、私は心に引っかかっていたことを、最後にプロシュートにさらけ出してみた。
「私は結局、どうしたらいいのかしら」
 結局、私の悩みが完全に消えた訳ではない。仕事中でなければ泣き言を言っていいとしても――根本的に、人を殺すことに慣れることができたわけではないのだ。
「まだ吐き気があるのか?」
 いいえ、と私は呟いた。――プロシュートにキスされた後に、吐き気なんて感じるわけがない。
「じゃあ、まだ泣きたいのか?」
「……少しだけ」
「それなら、オレの腕で泣けばいい」
 泣きたい気持ちが完全に消えたわけでもなかったけれど、だからと言って彼の前で泣きたいわけではなかった。私がどうするべきか迷っていると、プロシュートはこう言った。
「あのな、ナマエ」
 私がプロシュートに視線を向けると、彼は立ち止まった。必然的に、私も彼の隣で立ち止まる。
「人を殺すことに慣れることができない。それは、暗殺者としては欠点かもしれねえが、おまえの美点でもある」
 彼の言葉に、崖から突き落とされたような気分になった。それは、欠点を指摘されたからか、それともそれを美点とされたからか。
「だからオレは、慣れろとも、慣れるなとも言えねえ。だが、そのことは忘れるな」
 そこで、彼の顔が一瞬だけ寂しそうに陰った。ただの気のせいかもしれないし、気のせいじゃないかもしれないけれど、少なくとも私にはそう見えた。
「……おまえには、向いてない仕事かもな。それでも、おまえはこの仕事をしなければいけねえ」
 崖から落下していく。プロシュートが、仲間たちが、凄く遠い存在に感ぜられる。
 そんなの嫌だった。今の私はただの女にすぎないけれど、この人の隣まではい上がりたかった。
「……それでも、私はこの仕事をする。あなたの隣に立つわ」
 プロシュートは、少しだけ虚をつかれたように固まった。だけど、やがて表情を緩め、囁いてきた。
「良く言った、上出来だ。さすがは、オレの女だ」
 そこで、もう一度口づけされた。これが今日の、女としての最後のキスなのかなと、ぼんやりと思った。


「戻るか」
「……そうね」
 それから私は、暗殺者に戻った。人を殺すことに慣れることができないという、重大な欠点を抱えた暗殺者に。――もう、この欠点を美点として扱うこともできない。暗殺者には、男も女も関係ないのだから。
 プロシュートは何事もなかったかのような素振りで、二人分の缶コーヒーを捨てて、歩き出した。
「なあ、ナマエ。これは独り言だ」
 私は無言で、彼の顔を見た。プロシュートは、私の方を見ずに呟いた。
「オレはおまえの上司だ。仕事中だって、悩みがあるなら溜め込む必要はねえ。それは、おまえが男だろうと女だろうと同じことだ」
 彼の言葉に、すっ、と心が軽くなった気がした。そして、どこか安堵感のようなものに満たされていく。
 全てを許されたような、そんな気分になった。どこかで感じていた、引け目のようなものが、少しずつ消えていった。
 そんな私に、プロシュートはふと尋ねた。
「そうだ、次の仕事は明日、二人がかりでのものなんだが――ナマエ、来れるか」
 今までの私だったら、言い淀んでいただろう。実際、私はいつもそうだった。まして今日は、仕事を終えたばかりなのだ。
 だけど、今の私は違う。もう、目を背けたりなんかしない。
「ええ、大丈夫よ」
「よく言った」
 プロシュートは笑った。ようやく、この人の隣に立てたような気がした。


 私は、暗殺者としては失格かもしれないけれど――それでも、幸せなのだろう。良い上司に恵まれ、その人の隣に立つことができているのだから。私自身のことを、認めてくれる人がいるのだから。
 そして同時に、私は女としても幸せなのだろう。女として認めてくれる人が、私の隣にいるのだから。女として愛してくれる人が、私の隣にいるのだから。


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