■騎手と老婆の会話
ある夕暮れ時のこと。
老婆は、窓の外を眺めながら佇んでいた。物憂げな表情で、彼女はため息を吐き出す。
そんな老婆に、男が一人、そっと近づいた。
「どうしたんですか、愛しい人」
男――ディエゴ・ブランドーは、自分の妻である、六十三も歳上の老婆に優しげに囁いた。
「……ああ、ディエゴ。あの子のことよ」
男の姿に気が付き、老婆は振り向く。男の本性など知らない老婆は、一度微笑んだ後に、愛しい夫に対して返事をした。
「あの子? ……ああ」
ディエゴは少し逡巡した後、納得したように頷いた。
あの子。それは、老婆の養女であり、戸籍上は男の義娘でもある女のことだろう。
最も、二十歳であるこの男は、自分と年齢がさほど変わらない彼女のことを、「娘」などとは認識していなかったのだが。
「彼女が、何か?」
ディエゴは何気ない風を装って、柔らかに聞いた。すると老婆は、全く疑うことなしに、素直に悩みを吐き出してしまう。
「あの子がね、いつも舞踏会で良い男の人を見つけてこないから、心配で……。今度こそ、上手くいくと良いんだけれど」
「……彼女のことを、想っているんですね」
ディエゴは老婆の悩みを知り、内心小馬鹿にしながら告げた。彼女の悩みは、もう二度と解消されないものであることを理解していたからだ。
しかし、老婆はそれには気が付かずに、もちろんよ、と呟いた。
「あんなに結婚に憧れて、花嫁修行も頑張っていたのだもの。折角だから、あの子には幸せになって欲しいのよ」
その言葉に、嘘があるとは思えない。老婆は、年齢のこともあり、若い男の魅力に目が眩んでしまっているが――自分の「娘」のことを想う気持ちは、おそらく、昔から変わっていないようだった。
だからこそディエゴは、老婆のことをこっそり嗤った。
「きっと、彼女は大丈夫ですよ。彼女なら、うまくやっていけます」
自分の存在こそが、ディエゴ・ブランドーの存在こそが――老婆と娘の運命を、根本から捻じ曲げてしまっていたのだから。
「そう、かしら」
老婆は、気がついていなかった。
既に捻じ曲がってしまっている運命は――もう、取り返しのつかないところまで来てしまっていることに。
「そうですよ」
妻に対しては、どこまでも甘く囁きかけていたが――ディエゴは内心、この親子のことを嘲笑していた。
勿論、嘲笑した「親子」の中に――自分の存在は入っていない。妻のことも、義理とはいえ娘のことも、彼は自分の家族だとは認識していなかった。
ディエゴが発する、慰めの言葉。それは偽りのものでしかなかったが、老婆がそれに気がつくことはない。
むしろ、優しさすら感じられる彼の言葉に、少し安堵したのか――老婆はそっと、少女のように微笑んだ。
もうすっかり安心したのか、老婆は自分の夫である男に対して、肩の力を抜いて問いかけた。
「そういえばディエゴ、私の誕生日って教えたかしら?」
「……ええ、もちろん知っていますし、覚えていますよ。楽しみにしていてくださいね」
「あらまあ、嬉しいわ! それじゃあ、楽しみにしているわね」
老婆は少女のように頬を赤らめたが、ディエゴには滑稽なものにしか思えなかった。
ディエゴは知っている。
ちょうどその日、「娘」の選択によって、老婆とその養女の運命が、決まるのだと。
ディエゴは知っている。
その運命は、どれも、老婆にとっては幸福なものとはなり得ないのだと――
――さて、この家はどう転がり落ちるのだろうか。
ディエゴ・ブランドーは、老婆に対しては爽やかさを感じさせる笑顔を見せながら――内心では、どこまでもどす黒い野心を滾らせていた。
さながら、獲物にどうやって食らいついてやろうか見定める、飢えた蛇のように――