■宿屋と少年

 私の働く宿屋には、日々いろいろなお客様が訪れます。
 どんなときでも需要のある商人は、いつも多いように思います。また、旅をしながら人々に娯楽を提供する、旅芸人や踊り子といった方もよく見かけます。それ以外にも、何か用事があってこの国にいらっしゃるような方々が、主にこの宿屋を利用します。ただ、この魔物のうろつくご時世、自由な旅人のようなお客様はあまりいないように感じます。
 いずれにせよ、お金さえ払ってもらえて、特に問題を起こすような方でなければ、この宿屋には基本的には誰でも受け入れます。そして私共は、基本的にお客様の事情に深入りはいたしません。
 ただ、時々――この人は何者なんだろう、というお客様もいらっしゃいます。何者だとも掴めない、不思議な空気を持つお客様が。
 それでも、基本的には深入りすることはないのですが――私はその時、ついそのお客様に深入りしてしまったのです。


 真夜中。見回りのために巡回していたら、お客様が部屋から抜け出し、外に出ていく姿を目撃してしまいました。
 普段ならそこまで気にすることのない光景でしたが、そのお客様の顔色がよくないように思われたので、私はつい、後を追いかけてしまいました。後を追いかけた先で、そのお客様は宿屋の近くの木にもたれかかり、星空を眺めていました。
「…………」
 その方は、不思議な方でした。見た感じでは、十六か十七歳といったところでしょうか。魔物がうろつく中、このような年齢の少年がひとりで旅をしていることは、かなり珍しいことだと思います。そして、綺麗な緑の髪も目を引きました。どこか人間離れした美しい少年が、憂いを帯びた表情で夜の木にもたれかかっている様は、神秘的とすら表現できそうでした。
「あの、大丈夫ですか?」
 私はしばらく彼にみとれてしまっていましたが、やがて、意を決してその方に話しかけました。
「……ええ。少し眠れなくて、夜風にあたっているだけですから」
 そしてそのお客様は、驚いた表情を見せた後、静かにこう言いました。ですが、その表情がどうしても痛々しく感じられて、私は言葉を重ねました。
 普段の私なら、絶対にこんなことはしなかったと思います。それだけ、彼はどこか魅力的で、人を引きつけるような人でした。
「悩みがあるようでしたら、良ければお聞きしましょうか? もしかしたら、お役にたてるかもしれません」
 そして私は、彼の瞳を見つめました。彼の中に憂いのようなものを見た、そんな気がしました。

 私の言葉に、その方はさらに驚いた表情をされました。しかし、彼は困ったような顔をして、こう言葉を重ねました。
「すみません、言えません。きっと、初対面の方に言うようなことではないと思います」
「そうですか……」
 彼の言葉は至極まっとうなものだと思います。出過ぎた真似をしてしまったと、私は深く反省しました。こんなことをすべきではなかったと、後悔すらしていました。
 しかし、そうやって落ちこんでいた私に、彼はほんの少しだけ表情を緩めて、こう言ったのです。
「でも、気にかけてくれて、少し嬉しかったです。あなたみたいな人が、この世にまだいるとわかっただけで、良かった」
 え?
 ぽかんとしながら彼の方を向くと、彼は既に私に背を向け、部屋に戻ろうとしている途中でした。
「お、おやすなさいませ」
 私は慌てて、お客様に対し就寝のあいさつをしました。
 返事は、返ってきませんでした。それでも、心の奥が暖かくなるような、どこか不思議な感覚に包まれたことが、はっきりと胸に残りました。


 彼が言った言葉の意味は、そのときはわかりませんでしたし、今でもわかっていません。
 もしかしたら彼は、信じていた人たちがみんないなくなってしまうような、酷い目に遭ってしまったのかもしれません。だから、あのようなことを言ったのかもしれません。どんな事情があったにせよ、それを私が知ることは決してありません。
 ただ、彼は本当に不思議な人だと思いました。この仕事をしてきた中で、一番鮮烈な印象に残るくらいに。

 あれから少しの月日が過ぎましたが、彼らしき人がこの宿屋に再び訪れたことはありませんでした。
 それでも、彼はまたいつか、やってくるのではないかと思っています。
 そのときに、私のことを忘れていても一向に構いません。ただ、彼が前を向いて、笑顔で旅をしてくれていたらいいなと――私はただ、そう願っているのです。


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