■青年と女

「もしかして、あなた……ブランドー?」
 困惑している女に七年振りにそう呼ばれた時――青年は、優しく微笑んでみせた。
「……君は、ナマエ・ミョウジじゃあないか。久しぶりだね」
 最初に思ったのは、意図せぬ偶然の再会に対しての、小さな驚き。次に思い出したのは、昔感じた大きな怒り。だが青年はそれを、穏やかな声色の中にすっかり隠していた。
 野望を持つ青年はこの七年間、常に紳士のように振舞っていた。それがたとえ、七年前に心から怒りを感じた女であろうと、対応が変わるはずもなかった。

「本当に、久しぶりね。かなり身長が伸びていたから、一瞬わからなかったのだけれど」
「それはぼくも同じさ。君も、昔に比べると成長して、大人っぽくなった」
「大人っぽいですって? だって私、もう大人だもの」
 女は戸惑いを見せつつも、青年に対して穏やかな笑顔を返してみせた。
 しかしその表情を見ても、青年にはわからない。彼女は本心で、どう思っているのだろうか。彼女は七年前殴られた時、呆けた顔の裏で、何を感じたのだろうか。そして今、その相手と再会した時――笑顔の裏で、何を思っているのだろうか。
 青年にはわからない。本来なら理解しようともしなかっただろうし、理解する必要性も感じていなかっただろう。
 だが青年は、どうせなら彼女のことを利用してやろう、と考えていた。全くの偶然に出会ったのだから――この機を逃せば、彼女を利用することはできなくなるだろうからだ。
 彼女をどう利用すべきか、彼女にどう接するべきか。それを判断するためには、女の感情が少しでもわかっておいた方が良い。女の感情を理解する必要性がある――青年は今、笑顔の裏でそう思っていた。

 青年は彼女の心情を推し量りながら、優しく声をかけた。
「なあ、ナマエ・ミョウジ。君のこと……ナマエ、と呼んでいいかい?」
 彼女を何に利用すべきか。ただの暇潰しで終わってしまうのだろうか。もしかしたら、自身の野望を果たす為に役立つのかもしれない。青年は柔らかい笑顔の裏で、狡猾にも画策する。女が自分に対してどう感じているか、慎重に品定めしながら。
「いいえ。私のことをそうは呼ばないで。私のことをそう呼んでいいのは、今は家族だけ。それ以外の人に呼ばれるとしたら――それは私が姓を貰う、特別な人だけ」
 女は、仰々しく否定した。その様子は、彼女がその信念を曲げる気はないという、強い決意の表れのようだった。
 彼女は、自身の配偶者にしか名を呼ばせる気はないという。そして、その逆も然りなのだろう――彼女は、家族と、配偶者以外の男の名を呼ぶつもりはない。
 これほどまでに姓を重視する者は、彼女以外にはそういないだろう。青年は自身が持つ姓と、体内に流れる血のことを思い出し、無意識のうちに顔を顰めていた。
 それならば。彼女が、そこまで姓に固執し、特別な人間にしか名を呼ばせないと言うならば。
 特別な人間の名前しか呼ばない、と言うならば。
「そうか。そういうことなら、このぼくが君と特別な関係になったら、ぼくの姓を君に捧げたら――君は、ぼくの名前を呼んでくれるのかな? ぼくは、君の名前を呼んでも構わないのかな?」
 青年はゆっくりと問いかけた。恋に燃える男が口説くように、あるいは詐欺師が騙すように。

 さあ、どう出る。ナマエ・ミョウジ。
 君が七年前のことをどう思っているのか、これで答えが出るだろう。
 あるいは君が、このディオをどう思っているのか――それの答えもだ。
 青年は女の目をまっすぐ見つめ、笑みを投げかけた。その目の奥では、ひたすら野心に満ちた企みを策略していた。
「あ……。えっ、と……」
 女は動揺し、顔を赤らめた。青年と目を合わせることができずに、ただ俯いてしまう。その中には衝撃と不信感、そして若干の照れなどが見てとれた。
 ――なるほど。七年前のことで気まずい思いや、疑いの気持ちはあるものの、おれにこうして口説かれるのは悪い気はしない、ってところかな?
 青年はほくそ笑み、さらに言葉を投げかけた。
「どうだい、悪い話じゃあないだろう? ぼくに、君の名前を呼ばせてくれよ」
 青年は優しく、優しく声をかけた。――おれがちょいと本気を出せば、大抵の人間はおれに靡く。いや、人間じゃなくってもかな?
 昔からそうだった。幼馴染の少年から、彼が築き上げてきた友情関係を取り上げ、自身の取り巻きにすることなんて簡単だった。以前蹴り上げた犬に軽々と近づき、焼却炉に閉じ込めることだって、だ。現在に至っても、その男と、家族として、幼馴染として上っ面は仲良くしている。
 そして今、かつて心から怒り、手を上げた女に対して、そっと語りかけている。甘い誘いのようで、狡猾な企みのことを。
「えっ、と、その……」
 女は未だに、動揺と衝撃、不信感と気まずさの中で揺れ動いていた。だが、その中で確実にあるのは、満更でもない思い。青年はそこを突いて、もう一度だけ語りかけた。
「なあ、どうだい?」
 顔を近づけられ、甘く囁かれた時、ナマエは顔を紅潮させて硬直した。息を呑み、目を泳がせ、そして俯いている。
「…………」
 ナマエは青年に何か言いかけていたが、結局口を噤んでしまった。だが、彼女の頬は赤いままであった。
「少し、考えさせて。ちょうどひと月後に、またここに来るから、その時にもう一度話しましょう」
 ナマエは深呼吸して、一気にそう言った。ディオは微笑んで、優しく、優しく語りかける。
「ああ、待つさ。いくらでも」
 ディオは、心にもないことをふてぶてしくも呟いた。その声色の中には、確かに野心が込められていた。

 ナマエは赤い顔を伏せ、逃げるように立ち去った。ディオはそれを見送りながら、独りごちる。
「しかし、思ったより簡単に靡いたな。七年前に思い切り殴ったわけだし、もうちょっと手間がかかるんじゃあないかと思っていたが」
 予想よりもたやすく靡いたことを考えると――あの女は単純な人間である、と言えるだろう。つまり彼女のことは、ただの暇潰しだけではなく、野心の為に利用できそうだ。
 それを内心で確認したディオは、笑みを浮かべた。決してナマエには見せなかった、本心からの歪んだ笑みを。
「フン。せいぜい、利用してやろうじゃあないか。そのついでに、あの女の癖を直しておこう。あの女がおれのことを『ディオ』と呼ぶようになれば――この世で、おれのことをあの忌々しい姓で呼ぶ輩は、ほとんどいなくなる」
 そしてディオは、思案し始めた。次にナマエに会った時、どうやって語りかけるか。何に利用して、どうやって捨ててやろうか。そしてどうすれば、一刻も早くナマエがあの姓を呼ばなくなるのか、ということを。
「この偶然の再会を、せいぜい利用してやろうじゃあないか。おれの願いの為に。おれ自身の誇りの為に」
 ディオはこう言い捨てると、自身も帰路につくことにした。それを見送る者は、誰もいなかった。


 だが、今回の彼の企みは、結局叶うことはなかった。
 なぜなら、一ヶ月後には、青年と女が約束したその日には――青年は既に、人間ではなくなってしまっていたのだから。

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