■勇者の消えた日
▼DQ34周年! / ※ネームレス勇者、エンディング後
世界に平和が訪れた日。
悪を討ち世界に平和をもたらした勇者は、どこか寂しそうにしていた。
それは、誰にでも分かるものではなかったのかもしれない。誰もが彼と、その仲間の栄誉を讃え、平和を喜んでいた。
故に、私が彼の孤独に少しでも触れられたことは、全くの偶然でしかなかった。
「勇者様?」
祝いの場。誰もが平和を喜び、幸せそうに笑い合う中で、彼は一人、喧騒から離れていった。
黒い髪を逆立てた、立派な鎧と剣を身につけた人物。少年とも青年とも言える姿。喜びの中心となるべき人物。彼は何故か、ただならぬ雰囲気で、そっとその輪を離れていってしまった。
それに気がついたとき、私はほぼ無意識的に彼を追いかけていた。思わず小走りで、追いかけてしまったのだ。
「勇者様、どこに行くのです」
祝いの席から少し離れた場で、私は彼に呼びかける。自分が何をしたいのかもよくわからないままで。
私の声に振り返ったその人の顔からは、感情が読み取れなかった。
「気にしないでくれ」
そして、彼は歩き続ける。このままだと彼が、世界を救った勇者が、どこかへ消えてしまうのではないかと思うと、いてもたってもいられなかった。
「待って」
そうして私は、歩き続けていた彼を、小走りで追いかけ続ける。どうしてこんなことをしているのか、自分でもよくわからないまま。
彼がようやく立ち止まってくれたのは、誰の目にも触れないところまでやってきた頃だった。
しかし彼は、どこか寂しげな空気をまとっていた。勇者と呼ばれる存在と一対一で向き合っていることに今更ながら緊張しつつ、私は彼に話しかける。
「勇者様、何故そんな顔をするのです。なぜ、あの場から離れたのです」
以前までは魔物が恐ろしくて近づけなかった森の中。しかし、今となっては怖くない。魔物はもう、この世にはいない。
それなのに――彼は、勇者は、それを喜んでいる風ではない。ただ、遠くを見つめるように、自分に語りかける女のことを見つめるだけだ。
「嬉しく、ないのですか」
だから私は、思わずこんなことを言ってしまった。
それを後悔する前に、彼は、ふっと複雑そうに笑った。
「本当は喜ぶべき、なんだろうな。嬉しくないわけじゃない。俺は自分の世界も、この世界も、守ることができた」
彼の言葉を聞いて、何か複雑な事情があるのか、と考えてみた。手放しでは喜べない、何かがあるのかと。
それがわかっていても、私は思わず、胸を高鳴らせてもいた。
「やっぱり、勇者様は、天から遣わされた者なのですね」
「……そう思うのか」
私が唾を飲み込みながら聞いても、彼は所在なげに頷くだけだった。しかしそれでも、私は興奮せずにいられなかった。
「ロトの称号を得た勇者様は、天から遣わされた神の遣いであると、皆が噂しています」
彼の言った自分の世界というのが、きっと天の世界であるのだろうと、私は考えていた。
天の世界というものが、この世には存在するのだと、そして天から遣わされた存在がこの世界を救った勇者なのだと、そう信じていたのだ。
しかし、彼はため息をついて、ふと私の方を見ただけだった。
「君は、ラダトームに住んでいるのか?」
「は、はい。ナマエと申します」
その澄んだ瞳に見つめられ、思わずドキリとしてしまった。
しかし彼は、そんな私とは対照的に、こんな調子でこう言ったのだ。
「……ナマエ。君は、俺がこの世界に来たことについて、どう思ってる。俺を神の遣いだと、本気で思っているのか?」
え、と声が漏れた。
こうして、改めて本人からそう聞かれると、今まで信じていた幻想に、綻びが見えてきた気がした。
「俺は、確かに嬉しい。自分の世界と、この世界を救えたこと」
彼は述べる。自分の心情を、自分の孤独を。
「しかし俺はもう、自分の世界に戻ることができないんだ。俺の世界と通じていたものは、閉じてしまった」
そこで私は思い至った。そういえば、この世に平和が戻ると聞いたほんの少し前、頭上から大きな音がしていた。今まで聞いたことのないくらい、大きな轟音が。
魔物がいなくなって、平和になったこの世界を見てから、そんなことはどうでもいいと思って忘れてしまっていた――
「だから俺は、もうあの場にはいられない。いる必要がないんだ。勇者という存在は既に、どこにも必要ない」
私は、何も言えなかった。ただ、自分の世界と切り離された彼の心情を思い、同情のようなものを感じていた。
勇者という存在。天から遣わされたと思っていた、遠い人物だと思っていた存在。
そんな彼は、ただの一人の人間なのだと、ただの人間に過ぎないと、そしてそのただの人間が世界を救ったのだと――そう実感するしかなかった。
そしてそれが、何と残酷なことなのだろうと、そう思うしかなかった。
彼はしばらく、立ち尽くしながら私の方を見ていた。
しかし、私がこれ以上何も言わないと思ったのか、やがて私に背を向け、歩き始めた。
「どこに、行くんですか。どこに行くつもりなんですか」
自分の世界と引き裂かれた、行く宛のないはずのあなたが。
私は、手を伸ばす。しかし、すぐには追いかけることはできなかった。気持ちに、身体が追いつかなかった。
「君の、知らないところだよ」
彼は足を止めない。
ただ、ここではないどこかへと、向かおうとしている。
「待って」
それを実感した私は、そこでようやく気持ちに身体が追いついた。
このまま見送ってしまっては、このまま彼と別れてしまうのは駄目なのだと、漠然とした使命感のようなものに駆られていた。
「私、あなたのこと何も知らない。私は、あなたを勇者だとしか思っていなかった。でも、今は、ひとりの人間としてのあなたのことを知りたい」
彼はそこで、立ち止まり振り返ってくれた。しかも、その表情は、今日見た中では初めての表情――驚きだった。
「……君が、そんなことを知る必要はないと思うけど」
「ではせめて、せめて、あなたの名前だけでも――」
そこまで言って初めて、私は彼の名前すら知らなかったのだということに気がついた。
世界を救った勇者。ロトの称号。天に遣わされた神の遣い。そんなことにばかり気を取られ、彼自身のことは、本当に何も知らないままだったのだ。知ろうと思ってすらいなかった。私は、私たちはただ、呑気に平和になった世界を享受しただけであったのだ。
少年は何か思うところがあったのか、小さく息を吐いた。
そして、ほんの少しだけ口角を持ち上げた。
「俺の名前、か。俺の名前は――」
目覚めた瞬間は、特に何も考えてはいなかった。まして悲しいなんて、欠片も感じていなかった。しかし、時間が経つにつれ、どこか悲しいような気分に駆られてきた。
どうやら、今の今まで夢を見ていたらしい。数年前の出来事を、今になって見ていたようだ。
あの後、世界を救った勇者と、その仲間たちが消えた。それもあって、あの頃のことは、既に伝説となって囁かれている。今となっては、そんな伝説的な物語だけが、独り歩きしているのだ。ロトの称号を得た勇者と、その仲間たちの、数々の英雄譚。
――彼らの本来の姿なんて、もはや誰も見ようとしていない。きっと、私さえも。
私があのとき、彼と会話できたのは、ほんの偶然に過ぎない。だからだろうか、もう、彼の顔も朧げだ。彼の、名前すらも。
結局彼は、どこか遠くへ行ってしまった。私の知らない、どこかへ。
私は、何もできなかったのだろう。それが良かったのか悪かったのかは、よくわからなかった。
「ナマエさん、います?」
「あ、はい」
昼過ぎ、ちょっとした知り合いの青年が尋ねてきた。彼は時々、余ったのだという薬草を持ってきてくれるのだ。
黒い髪の青年。顔を隠すようにフードを被りつつ、ラフな服をしている。町外れに住む変わった人ではあるが、時たま私の元に訪れる。今までは平和になった世の中をふらりと旅に出ていたが、最近この辺りに落ち着くことに決めたらしい。何故か、ラダトームの街中に住むつもりはないそうだけど。
何気ない調子でちょっとした世間話をしていると、ふと、何かに気がついたような感覚があった。
何か、思い当たった気がした。そうだ。つい最近、何か大切な記憶のことを、久しぶりに思い出したような――
「ねえ、あなた」
ぽろ、っと口にしてしまう。何気ない調子で、思いつくままに。
「前に、どこかで会ったことが――」
青年は少し、驚いたような表情をした。
その後に、ほんの少しだけ口角を持ち上げて、こう言った。
「俺の、名前は。覚えてますよね?」
私は思った。今後、私が生きている時代に、勇者ロトがこの世に現れることは、もうない。
だけど、この人は、ずっと在り続けるのだ。それはきっと、彼の身が朽ち果てた後でも。
そしてきっと、それが彼の子孫に、繋がるのだろうと――なんとなく、そう思ったのであった。