11.居てはならない男

 くるくる、くるくるとワルツに合わせて踊る。彼、ハンス・ポップのエスコートは、完璧とまではいかなくても、社交界デビューしたばかりにしてはなかなかのものであった。
「ナマエ・ミョウジ……。君は素敵な人だね」
「ありがとう。あなたも素敵よ、ハンス・ポップ」
 だけど彼と語り合うのは、魅力的ではあったけれど刺激には欠けていた。良くも悪くも、模範的な貴族。顔も馬もそこそこの腕ではあるみたいだけれど、特筆して抜きん出たものなんて口先くらいだ。この人はきっと、人気ナンバーワンにはなれないような男なのだろう。この人はきっと、どんなに努力したってナンバーツーより上へ行けない男なのだろう。
 でもそれがきっと、彼にとっての強みなのかもしれない。強い刺激よりも、これといった欠点のない、安定した魅力で女性を惹き付けるのかもしれない。
 彼はきっと、私の王子様にはなれない。結婚適齢期を過ぎてしまう危険を犯しながらも、これからもまだ見ぬ『王子様』を探し求めるか、それとも安定した、ナンバーツーの男との道を考えるか。―――決断が迫っている。

「なあナマエ。君が良ければ、だけど……。テラスで話さないかい? 僕と君と、二人だけで」
「あら」
 彼の言葉を聞いて、私は少し考えた。ここでの決断次第で、ひょっとしたら私の人生が変わるかもしれない。
 少し黙り込むと、ハンス・ポップは不安げな顔を見せる。その子犬のような表情を見て、放っておけないような気分になってしまった。
 そして私は、ついに決意した。
「ええ、いいわよ。喜んで」
 私は、彼の目を見つめて微笑んだ。まだ出会ったばかりだけれど―――彼となら、もしかしたら将来を考えるのも悪くないかもしれない。
 私の答えを聞いて、ハンス・ポップは確かに嬉しそうに目を細めた。そこには、堅実な魅力が溢れていた。
「じゃあ行こうか、ナマエ」
「ええ」
 けどやっぱり―――私は心の奥底で、堅実さよりも刺激を求めていたのかもしれない。
 それこそ、こういう時に私を迎えに来てくれる、王子様を求めていたのかもしれない。王子様のようなひとに連れ去られたい、なんて思っていたのかもしれない。

「―――ナマエ」
 だから私は、ハンス・ポップではない声に名を呼ばれた時に、思わずこう思った。こう思ってしまった。
 ―――王子様?
 本当にそうだったら、どれだけ良かっただろうか? 聞き慣れた、聞き慣れてしまったその声に名を呼ばれた時、どうして王子様なんて思ってしまったのだろうか?
 だけど、そこに居たのは―――考え得る限り、一番最悪で、一番居てはならない男であった。私がハンス・ポップからその声の方に振り向くと、思わず驚いて少し声を荒らげてしまった。
「なんで、あなたがここにいるの……。何しにきたのよ、ディエゴ!」
 唖然としている私の前で、ディエゴ・ブランドーはただただ冷たく笑っていた。

「ねえ、あの人、ディエゴ・ブランドーじゃない?」
「まさか。ディエゴ・ブランドーは確か……ミョウジ家のおばあさまと結婚しているはずよ。こんな見合いの場に来るはずないわ」
「でも、あそこにいるの、ミョウジ家の娘よね。一体何がどうなっているのかしら」
 私たちの周りの人たちが、そう噂しているのが聞こえる。変に視線を向けられていることに居心地の悪さを感じるが、それよりディエゴがここにいることへの違和感、そして嫌な予感に対して気分が悪くなった。
「君は……。……何故こんな所にいるんだ。今ナマエは僕と話しているんだよ。失礼だが、邪魔しないでもらいたい」
 ハンス・ポップが戸惑いながら言った言葉は、何も間違っていない。ここで間違っているのは明らかにディエゴの方だ。私はディエゴに抗議の目を向けるも、ディエゴはまともに返答しようともしなかった。
 それどころか、彼は私の手を取って、踵を返した。大きくて温もりのある手が、私の手を包み込んだ。
「帰るぞ」
「え、ちょっと……!?」
 私たちに向けられた好奇の視線の中を、ディエゴは何の躊躇いもなく進み出そうとする。抵抗する間もなく腕を引っ張られたと思ったら、もう片方の腕をハンス・ポップに取られた。私の歩みが止まったことを感じると、ディエゴは進みを止め、やや面倒くさそうにこちらを振り返る。
「君は……。ミョウジ家に取り入った、薄汚い男か」
 ハンス・ポップが半ば苛立ちながら吐き捨てるが、それを聞いてもディエゴは鼻であしらうだけであった。
「フン、この間のレースでオレに勝てなかったから僻んでいるのか?」
 ディエゴが冷たい目を向けると、ハンス・ポップの顔から一瞬血の気が引き、そしてみるみると赤くなっていった。
 そう言えば、……ハンス・ポップ。そう言えばこの間、レースを見に行った時、彼の姿もあった。善戦はしていたし、ディエゴの方にかなり近づいていたけれど、何をどうされたのか逆に引き離されていた。そんなことを、今急に思い出す。同時に何故か、堅実な魅力がどこかへと霧散してしまったような思いに駆られた。
「……帰れよ。君は関係ないだろ」
 ハンス・ポップは、ディエゴのことを鋭く睨んでいた。その表情には、憎しみと妬みのようなものが含まれている。
「関係ない、だって?」
 そんな彼を見て、ディエゴは笑った。その笑みから、不穏な空気が発せられている。言いようもない嫌な予感を感じ、冷や汗が流れ落ちた。
「ちょっと、ディエゴ」
 私が制しようとしても、ディエゴは聞く耳を持たなかった。そして彼は、こう平然と言い放つ。それは、私の人生を変えてしまうような、絶対この場で言ってはならないことであり、同時に絶対暴露してはならないことであった。
「―――ナマエは、純潔をオレに託したんだぜ? これを聞いても、オレとナマエが関係ない……なんて言えるのか?」

 ディエゴがこう放った途端、私たちを取り巻く空気が固まった。そしてハンス・ポップの手が、思わず、といった感じで私の腕から離れてしまう。
 周りにいる何人かの人たちが、私たちのことを黙って見ていたし、ディエゴが言った言葉を聞いていた。そして、私に対して単なる好奇ではなく軽蔑の視線を向け始める。その中には噂好きな『お友達』もいたし、今まで何度か踊ってきた男も、そして私を招待した女主人も含まれていた。
 そこで、最悪な事に気がついた。―――私はもう、社交界に招待されることはない。こんな場で目立つ真似をしてしまった私は、無垢な身体を失ったと思われてしまった私は、しかも戸籍上とはいえ『義父』である男に貞操を捧げたと思われてしまった私は―――この瞬間、社交界から追い出されてしまったのだ。
 身体まで許した訳でもないし、唇の純潔だってこちらから託したわけでもない。でもわざと誤解されるような言い方をしたディエゴに憤ると同時に、何がしたいんだ、と甚だ疑問に思った。―――この男は、私にどんな恨みがあるって言うの。まあ確かに喉仏に噛み付いてやったことはあるけれど、ここまですることはないじゃない!
 そして、無性に泣きたくなったし、悲しくも悔しくなったが、グッと堪えた。無意識下に唇を噛んでしまい、ピリッとした痛みと同時に、血の味が口に広がった。
 私の人生は、これからどうなってしまうのだろうか? 堅実な道も、王子様を追い求める道も閉ざされた。これから私が歩む、三つ目の道は一体、どんな苦行が待ち受けているの?

「ナマエ、帰るぞ」
 もう一度そう言って私の手を取るディエゴに対して、反抗することはできなかった。むしろ、私に向けられる軽蔑の視線から早く逃れたかった。
 ちらり、と少しだけ後ろに佇むハンス・ポップの表情を伺った。彼の表情は絶望しているようでもあり、憎しみと妬みが含まれているようでもあり、そして軽蔑しているようにも見えた。色々な人たちが私たちのことを見ていたけれど、何故か彼の目が頭から離れなかった。

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