40.相談

「ナマエ? 何やってんです?」
 そうして、しばらくぼうっと空を見ていたら――聞き慣れた声が聞こえてきた。
 ゆっくりと振り向くと、そこに居たのは。
「……フーゴ?」
 私の問いに対し、傘を手に持った彼は、ただ訝しげに私のことを見ていた。

 フーゴは仕事終わりなのだろうか。きっと、ブチャラティが早めに帰らせたのだろう。そんなことをぼんやり考える私をよそに、フーゴは私に聞く。
「ナマエ、あなた、ナランチャのところに行ったんじゃなかったんですか? なんで、こんなところに」
「……喧嘩した」
 彼の問いに率直に答えると、彼は少し驚いた様子だった。彼にとっては、いささか意外だったのだろうか。
「ふうん、君とナランチャが。珍しいこともあるもんですね」
 そしてフーゴは表情を元に戻し、淡々と言う。そんな彼に、これまでの経緯を話すべきなのかどうか、少し迷った。フーゴに話を聞いてもらうのが正しいのか、否か。
 私が黙っていると、意外にもフーゴの方から会話を切り出してきた。
「で、これからどうする気なんです? まさか、ここにずっといるつもりですか? もう少しで、雨が降ってくるところですよ」
 フーゴの方からこう言ってくるとは思っていなかった。少し迷ったが、やがて私は、思い切って言った。
「……えっと、もしよければ、ちょっと相談に乗ってほしいんだけど。……いい?」
「まあ、少しでしたら。そんな顔の君をここに置いていくのも、目覚め悪いですしね」
 フーゴは、あっさりと頷いてくれた。そこに、どこかほっとした気分になった私がいた。


 私たちはとりあえず、雨が降ってきても大丈夫なように、近くのカフェテリアに寄った。そしてお互い、適当なものを注文する。
「フーゴは、ナランチャとよく喧嘩するの?」
「まあ、君の前ではそんなに喧嘩したこともなかったかもしれませんが。それなりに喧嘩したことも、あったと思いますよ」
「ふうん」
 何気なく質問してみると、何気ない答えが返ってくる。フーゴは、私よりもナランチャと過ごした時間が長い――それが感じられる答えだった。
 フーゴは、今までにナランチャを怒らせてしまったとしても、許してもらえたのだろう。そして、その逆も然りだ。

 だが、それが――今回、私にも通用するとは限らない。
「どうやって謝っていいか、わからなくて」
「…………」
 私は息を吐いて俯く。しかしフーゴは無言で、目の前のカップに口をつけた。そして、冷静に私に聞く。
「ナランチャの方は、どんな感じなんです?」
「え? えっと、よくわからない。私が怒っちゃって、それで家を飛び出しちゃったから」
「なるほど」
 フーゴは頷いた。そして、こう続ける。
「これは今後のことも考えた上で言いますけどね、ナマエ。ナランチャと喧嘩してしまった場合は、早めに謝っておくほうがいい」
 実感こもってるような言い方に、訝しむ。
「……実体験?」
「別に、そう言ってるわけじゃあないですけど」
 咳払い。彼は、自分のことはあまり話したくないのだろうか。
 しかし、フーゴの言うこと自体は理にかなっている。喧嘩したときは、早めに謝る――それが最良なことは、私だってわかっているはずなのに。

「というか、なんでまた喧嘩したんです?」
「ええと」
 不思議そうに彼は言った。私とナランチャが喧嘩したことが、そこまで意外だったのだろうか。
 どこまで話したものかとは思ったが、結局、一部始終を話すことにした。
 ナランチャに『何で帰ってきた』と言われたこと、日本にいる方が良かったんじゃないかと言われたことに、怒ってしまったこと。
 私は、私自身の考えを彼が理解してくれなかったのが、悲しかった。だから私は、彼に私のことを知ってほしいと思った。
 それと同時に、私も彼のことを何も知らないと、痛感した――
「ナランチャ……私に、算数の勉強していること、教えてくれなかった。昔の写真も、私が勝手に見つけちゃったものだけど。それでも確かに教えてくれなかった過去が、そこにあった」
 彼も私のことを知らない。そして、私も彼のことを知らない――それがもどかしく、どこか悲しい。
「なるほど。つまり君は、自分のことを知ってほしく、ナランチャのことを知りたいと思ったと? お互いがお互いに自分のことを理解させることができなかったから、そのすれ違いが招いた喧嘩であると」
 フーゴは端的にまとめたので、私は息を吐いて頷いた。本当に、その通りであったのだ。
「そう、なんだと思う。……でもまずは、謝りたい。謝らなきゃいけない。だけど、どうしたらいいか、わからない。許して貰えないかもしれないと思うと、すごく怖い」
 私は俯く。フーゴはそれを、何か考えるような素振りで見ていた。

 それからフーゴは、言葉を選ぶように呟いた。
「……ナランチャは、結構気にしているみたいですよ。自分が学校にロクに通っていないことをね。君も今、ナランチャのことを気にしていますが……彼も今ごろ、君に謝れなくて悩んでるんじゃあないですかね」
 フーゴがおもむろに言い始めた言葉は、意外な切り口から私の気持ちを震わせた。
 その言葉に対し考えたいことはいろいろとあったが、まず、思ったことをぽろりと口に出してしまう。
「それとこれとは、学校通っていないこととは関係ないんじゃ」
「ある程度はあると思いますよ。ああ、日本の学校ではラブレターの書き方とか習いませんでした?」
「え、ラブレター!?」
 にわかには信じられず、彼の言葉に驚き、思わずカップを落としそうになった。しかし、それでも彼は平然と言う。
「ええ。……といっても、家族や友人宛のものですけれど。自分の気持ちを伝え方を知るのを、学校で学ぶというのは十分あると思いますよ」
 言われてみれば、そうかもしれないとは思った。人に何かを伝えるとは――それだけ、難しいということだろうか。
 それにしても、お国柄というものだろうか。私は記憶を失ってからはもちろん手紙を書いた記憶はないが、記憶を失う前でも、ラブレターなんて書いたことはない気がするが。

 そこで、ふと思い出した。『記憶を失う前の私』からの手紙――あの、一言しか書いていなかった手紙、手紙とも呼べないようなもの。私は結局、記憶を失う前も今も、人に何かを伝えるのが苦手なのだろうか。
 そしてそれは、あのナランチャであっても、同じなのだろうか――。
「学校にほとんど行かずにギャングになった少年が、同年代の人間との関わり方を、ある程度以上は知らないというのも、無理はない話だと思います。過去には一定の友人がいたようですし、今ではブチャラティもいますが、それは結局偏った交友関係でしかない」
 彼はそんな風に言ったが、フーゴはどうなのだろうか、と少し思った。ブチャラティだって、こんな年でギャングをやっている。
 誰かと激しい喧嘩をした場合、彼らはどのように謝るべきのか、知っているのだろうか。そもそも、こんな喧嘩をすることは、あるのだろうか。
 彼らはどうして、このような道を進むことになったのだろうか――

「……ナランチャは、何で私に、過去のことを話してくれなかったのかな。学校のこと、勉強のことも」
 疑問を口から出しつつも、なんとなくわかりかけているような、そんな気はしていた。
 しかし、未だたどり着けない。あと少し、というような感覚はあるのに。
「それはぼくの知ったこっちゃないですよ。ぼくだって、気を許してない相手に自分のことなんて話したくないですし、君もそうでしょうし。ただ、ナランチャは、君に気を許してなかったわけじゃあなさそうだとは思いますけどね」
 彼はそう言うが、ふと思った。私はフーゴの過去も知らないし、フーゴに自分の過去を伝えていない。でも、それに疑問を思ったことはなかった。
 それは、お互い気を許していないから? そういうわけではないと、思いたいものだが。
「ねえ。いつか、フーゴの昔の話を聞かせてくれる?」
 だから、こう言ってみた。口に出してみて、自分でも意外に思ったが。
「……今はそんな話はしていないでしょう。第一、なんでぼくが君に自分の話をしなきゃいけないんですか」
「ダメ?」
「……まあ、気が向けばね。そんなときが来れば、の話ですけど」
 フーゴは慌てて咳払いをした。そんな彼を見て、近い未来、私達は自分のことを話せるのではないかと、そう思った。

「……とにかく。ナランチャの方もね、結構すぐに立ち直るタチではあるんですが……お互いに謝るタイミングを逃すと、どうもね。それが君相手ってんなら、余計にそうなんじゃないですか」
 確かに私達は、お互いに謝るタイミングを逃してしまっていた。
「……どうやって謝ったら、いいのかな」
「それは、自分で考えたらどうです」
 ここまで意外なほどに親身になってくれたフーゴが、ここでぴしゃりと言い放った。無意識に、答えを誰かに求めていた自分に、苦笑した。
「そりゃあ、そうか。でも、どうしたらいいのか……許してくれなかったらと思うと、怖い」
「許される、許されないの話ではないでしょう。まずは傷つけてしまったことを謝る。たとえ怖かったとしても、勇気を出してね。それで許されなかったら、そのときはそのとき。……そういうもんなんじゃあないですか?」
「……そういうものなの?」
「知りませんよ。今まで、そんな面倒な喧嘩をした覚えはないので」
 フーゴは呆れたように息を吐いた。そんな彼の横で、私は一言、呟く。
「……勇気」
 何となく、引っかかる言葉だった。きっと、今までの私に足りなかったのは、勇気というものだと、そう思ったから。
 今の私には、勇気が足りない。勇気が出ない。だから、こんなことをいつまでも続けている。このままではいけないと、わかりかけていた。
「……うん。そうだね。とにかく、謝ってくる。傷つけちゃったかも、しれないし」
 口ではこう言いつつ――私は本当に、勇気を出せているのか。勇気というものを、持っているのか。
 今ひとつ自信がないまま、私は立ち上がってしまった。ここにいても仕方ないと、そうは思えていたみたいだった。
「話は終わりですか? では、そろそろ出ますか」
 私は残っていたコーヒーを慌てて飲み干した。既に冷めてしまっていて、味はしなかった。


 支払いを終えて、私たちはカフェテリアを出る。幸い、雨は降っていないようだったが――今にも降り出しそうな曇り空ではあった。
「ありがとう、フーゴ。聞いてもらって助かった。今度、何かお礼するね」
「別にいいですよ、そんなの。ただ、プライベートでのゴタゴタを仕事に持ち込むような真似はやめてくださいね」
「う、そんなことにはならないようにします……」
 そんな会話をしつつ、彼と別れの言葉を交わし、私はフーゴとは別方向に歩みだした。
 私は、これからどうなろうと――ナランチャの家に行くしかない。彼に謝るしかない。
 そのために、必要なものは――

「……勇気」
 そうだ。私には勇気が必要だ。
 勇気とは、どんなものか。私は今まで、それを見たことがあっただろうか――
「!」
 ふと、思い出した。自然と、当然のように。
 そうだ。一筋の光。ナランチャが私のことを見つけてくれた、あの光景。輝く、眩しいような思い出たち。
 それらを思い出すと――自然と、何かが、心の奥深くから湧いてきた。
 それは、目が開けるような――そんな感覚であった。
 勇気というものを手に入れたと、そう思った。

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